この版では、明快さを期してアンドリュー・マーレーの古典的著作に編集の手を加えていますが、マーレーのメッセージ自体は変わっていないことを読者は確信することができます。私共の希望は、この版が世界中の何万という人々に祝福をもたらすことです。
1979年 Bethany House Publishers
古い時代には、信者たちは時に応じて神に出会い、神を識り、神とともに歩み、天の神との交わりをもっているという明瞭で完全な意識をもち、また信仰によって彼ら自身もその生涯もともに神に喜ばれるものであることを確信することがありました。神の御子が地上にくだり、御父を顕わしたもうたのは、神との交わりとその恩愛の確信とがさらに明らかになり、神のすべての子らの永遠の嗣業となるためでした。主が栄光の御座に挙げられたもうたのは、御父と御子との天における祝福された生命が宿る聖霊を私共の心に遣わし、神と交わる幸福な生涯をその聖なる力によって私共のうちに維持するためでした。新約にあずかる信者各自が神と親しく交わりつつその生涯を送ることができるのは、新約における特徴のひとつであるはずでした。『人おのおの其隣とその兄弟に敎へて汝ヱホバを識と復いはじ そは小より大にいたるまで悉く我をしるべければなりとヱホバいひたまふ そは 我彼等の不義を赦し……』(エレミヤ記三十一・三十四)。聖霊による神と個人的に交わりと彼を識りまつる知識とは罪を赦された結果であるはずでした。神の御子の霊が私共の心に遣られたのは、御子がわれらを贖いたもうた時に働きたもうたのと同様に、神聖な行為をなすためでした。聖霊は私共の生命を取り去り、代わりに力あるキリストの生命をそこに置きます。それによって御子が常に天的で意識的な存在として私共とともにあるようになるためです。これこそは新約の著しい恵みとして神の約束したもうたものでした。三位一体の神の交わりが今われらのうちに与えられました。聖霊は御子を私共にあらわし、また御子によって御父をもあらわしたまいます。
御父が信者たちのために用意されている神と偕なる歩み、上に述べたような神にある生涯を実現している信者がとても少ないということは、誰にも否定できないと思います。何がこの失敗をもたらすのかを議論しようとする人もほとんどありません。上記のような内的啓示は聖霊の神としての大能によってもたらされるものですが、大能の神としての聖霊が教会において正当かつ十分な地位を得ていないことはあらゆる観点から認められる事実です。私共の説教においてもまた実践においても、神の計画と約束の中で聖霊に与えられているような顕著な主導的立場を聖霊は持っておりません。聖霊に関する私共の信仰箇条は正統的で聖書的なものです。しかし信者の実生活において、宣教活動において、世に対する教会のあかしにおいて、聖霊が有している存在感と影響力は、聖書が約束し神の計画が要求するようなものとはなっていません。
この深刻な欠乏を自覚してそれに関する神意とそこから解放される道を知ろうと熱心に求めている信者がたくさんおります。自分の生活がそうあるべきもの、そうあることができるはずのものには到達していないと感じている者もあります。自分の全生活が高い水準に引き上げられたように感じられた霊的リバイバルの時がかつてあったことを思い出すことができる者もたくさんおります。その人々にとっては、彼等を信仰のうちに保ってくださる救い主の喜ばしくも力強い臨在が確かに現実の幸いな経験であったという時期が、しばらくはあったのです。しかしそれは永続きはしませんでした。次第に低い水準へと落ちていき、努力をしても無駄で悲しい失敗に終わるように思われました。多くの人はどこに問題があるのかを知りあぐねています。しかし問題が次の点にあることには、疑いの余地がほとんどないように思われます。すなわち内住の聖霊を、彼らの生涯と信仰とがよって立つ力として、彼らが常にイエスに目を留めてイエスに信頼し続けるようにさせるものとして、知ることもなく崇めることもしていない、ということにです。聖霊が彼らを肉の力から解放し、御父と御子の驚くべき臨在を彼らの内に保ってくださるように、日々へりくだって待ち望むということがどういうことなのかを、彼らは知りませんでした。
神に愛されている信者たちの中には、躓いては立ち上がることの終わりのない繰り返しの生涯以上に輝かしい生き方があることを一時的にせよ経験したことがないという者はさらに多く、無数におります。彼らはリバイバルや聖会の場にいたことがなく、彼らが教えられてきたことは完全な聖化という目標には何の役にも立ちません。彼らは霊的生命の成長には適さない条件のもとに置かれています。神の意志に従う生き方をしたいと熱心に願うことはあったにせよ、神を喜ばせる歩みをすること、あらゆる面で御心にかなう歩みをすることが実際に可能であるという見通しが与えられることはまずありませんでした。彼らは、神の子として有している権利のうちで最上のもの、キリストによる神の愛の最上の賜物、すなわち彼らに内住して彼らを導く聖霊という賜物から、疎外されているのです。
これらの神に愛せられている子たちに、聖書からの『爾曹は神の殿にして神の靈なんぢらの中に在すことを知ざる乎』(コリント前書三・十六)という問いかけを告げるために、またさらに彼らの内に住んでおられる聖霊が彼ら一人ひとりになしてくださるみわざがどれほど輝かしいものであるかという福音を伝えるために、神がわたしを用いてくださるなら、それは言葉に表せないほどの特権であるとわたしは思います。できることなら、わたしは聖霊がその頌むべきみわざをなすことをこれまで妨げてきたものが何であるのかを彼らに示したいのです。心をまっすぐに保つならば入ることのできる、内住のイエスの臨在の完全な啓示という喜びに至る道が、神に特有の単純さをもつものであることを説明したいのです。わたしはへりくだって神に祈り求めました、わたしの短い言葉を通してでも神が聖霊の励ましを与えられ、その言葉を通して神の思い、真理、愛、そして力が、神の愛される多くの子らの心のうちに入り輝き渡るようにと。そして、人々がこれまで遠くから高きにあるものとしてのみ知っていたイエスを神が彼らに近づけ、彼らの内なる栄光となされることによって、これらの言葉が指し示す愛の驚くべき賜物──聖霊による生命と喜び──が祝福に満ちた現実と経験のうちにもたらされるように切に望みます。
またわたしにはもう一つ別の願いがあることを申し述べねばなりません。すべてのことを教える真理の霊による教えと導き、聖霊の油注ぎということに、聖なる神は実践的な意味を与えることを求められ、また私共の救い主もそれが実践的なものとなることを求められておられるのですが、現在の教会神学ではそのように認められておりません。このことにわたしが強い懸念を抱いていることを深い謙遜とともに申し上げます。使徒行伝の時代の教会におけるように、今日の教会指導者、つまり教師、牧師、聖書学者、著述家、奉仕者らの間で、神の言葉とキリストの教会とにかかわるあらゆる事柄において聖霊が最高の栄誉ある地位をもつべきであると正しく認識されていたなら、聖霊の臨在のしるしとあらわれは必ずやもっと明白なものとなり、力ある聖霊の働きがもっと明らかなものとなっているはずです。本書に書かれていることが現代の民の指導者たちに容易に看過されてしまっていること、すなわち永遠にとどまる果を真実に生み出すために永遠の聖霊の力によって満たされるべきであることを思い起させる一助となることをわたしは望んでいます。そのことは僭越なことであるとは思いません。
知性的で開明的な人々や科学的神学者たちは、著作物とは学問的な装いと思考の力と表現力とを帯びているべきだと考えていることはわたしもよくわかっています。わたしの著作物にはこのような特徴がないことを認めます。けれどもわたしは本書を手に取られるこれらの地位ある兄弟に対して敢えて申し上げたいと思います。それは、本書を少なくとも、たくさんの人々の心から挙がる光を求める叫びの反響として、多くの人がその解決を待っている諸問題の提起として受け取っていただきたいということです。キリストが約束されている教会のあるべき姿と、現在の実際の状態との間に乖離があるという深い感覚が既に行き渡っているからです。
神学上の諸問題のうち、神の完全な啓示と贖いのわざがどのようなものであるかという問題ほど、私共を神の栄光のうちに深く導き入れ、また私共の日常生活に深く本質的にまた実際的に関係する問題はほかにありません。この問題はまた、神の聖霊がその聖なる美わしい宮である神の子らの心のうちにどのようにして、またどこまで深く住みたもうのか、そのことによってキリストがその場を永遠に在す全能の救い主としていかに支配したもうかという問題であると言い換えることもできます。聖霊ご自身の臨在と導きによってこの問題が正しく追求されその答えが見出されるなら、その時には私共の神学は永遠の生命なる神を知る知識へと変えられることになるでしょう。
神学は、その体系のどの部分にも欠けている要素はありません。しかし私共の著述活動や説教や働きにはどこか欠けている要素があるように見えます。上からの力が欠けているのではないでしょうか。私共のキリストに対する愛とキリストのための働きにおいて、キリストが御座に就かれた時にその心に抱いておられた中心的な企図が、まだ私共の願いの中心的な企図とはなっていないのではないでしょうか。その企図とは、キリストの弟子たちが聖霊の力を着せられることによって、彼らの主に直接触れるその臨在の力をもって主をあかしすることができるようになるまで待たせるということでした。信者たちの生活の中に、また言葉と文字による聖書の奉仕のうちに、また教会のすべての働きのうちに、神の聖霊が完全に受け入れられるようになるために、その生涯を献げる者を、神が私共の神学者たちの間から数多く起してくださるように祈ります。
わたしは「キリスト者の生涯と伝道とがますます聖霊の支配を受けるように」と一致して祈ることへの新しい動きがあることに気づいて深い関心を寄せています。祈禱に対する答えがなぜ明確に得られないのかに注意を向けさせ、豊かな答えを得るために正しい備えをなさせるということが、この一致した祈りに対するまず最初の恩恵の一つであると思います。このことについてわたしが書物から学び、信者たちの生活を観察したことを通じ、またわたし個人の経験にも照らして、わたしは次のような考えを深く心に抱くに至っています。それは、私共を通しての、また私共の周囲での聖霊の力ある働きを願い求める私共の祈禱は、聖霊の各信者における内住がはっきりと意識され、聖霊の内住の生涯を信者たちが生きるときにのみ、強力な答えを得ることができるということです。私共は自分の内に聖霊を受けていますが、小さなことに忠実である人だけがより大いなるものを受けることができます。私共がまず聖霊の導きに自らをゆだね、聖霊の内なる臨在を言い表し、そして信者たちが日々の生活の中で聖霊の導きを見出して受け入れるようになるにつれ、神はその力あるわざのより多くを私共にゆだねるようになるでしょう。私共が神の力に完全に自らを献げ、神の力が私共を支配する生命となるならば、神はご自身を私共に与えたもうとともに私共をさらに完全に所有し、私共を通して働きたまいます。
わたしの願うただ一つのことは、聖霊は内住の生命として知られなければならないというこの一つの真理を明らかにし印象づけるために、主がわたしの本を用いたもうことです。生きた真摯な信仰によって聖霊の内住を受け入れて尊重し、聖霊が自分を所有しているという自覚が新生した人間のうちに形成されるまでに至らなければなりません。この信仰によっていかなる小さなことも含めて生活全体が聖霊の導きに明け渡されなければならず、それとともに肉と自己に属するすべてが十字架につけられ死にわたされます。この信仰によって私共が天よりの導きと働きを得るために神を待ち望み、私共自身を神の裁きに完全に服させるなら、私共の祈りが聞かれずにおかれることはありません。私共の希望を超えた聖霊の力の働きと顕現を教会と世において目にすることができます。聖霊が必要とするものは聖霊のためにのみ取り置かれた器だけです。聖霊は主キリストの影響を顕すことを喜びたまいます。
主に愛されている兄弟一人ひとりを聖霊の教導にゆだねます。願わくば私共がみな聖霊の働きを学ぶことによって、すべてのことを教えるその注ぎ油の担い手となることができますように。
1888年8月15日 南アフリカ・ウェリントンにて
アンドリュー・マーレー博士の著書には世にすでに定評があります。魂を養われる霊的な読み物としてその右に出るものがないことは誰しも認めるところでありましょう。しかもこの『キリストの霊』はその中の最も優れたものであり、バックストン師はこれをマーレー博士の著書中の白眉と称せられました。聖霊の盈満に関する教訓は実に至れり尽せりであります。あるいは或る人々にはその言い回しが異なっているために違った事を教えられているかのように感じられるかも知れませんが、しかしよく味わっていただきたい。真実にきよめられ聖霊のバプテスマを受けた人ならいずれも首肯することができると思います。私共が要するものは、その教理の表現の形式ではなくその実質であります。マーレー博士は確かにその実質を伝えているものと信じることができます。
これも『まことのぶどうの木』と同様、かつて雑誌『霊の糧』に断片的に訳載したものに訂正を加えて補足したものでありますが、これも二重の訳である上に拙い訳文ですから、読みにくい箇所が多くあろうと思いますが、聖書でも読むような態度で味わっていただきますならば、その労は必ず豊かに報いられると信ずるものであります。
なお原文の巻末には附註があります。これにも貴重な教訓がありますが、紙面の都合で省略しました。後日折を見て補足いたします。
1929年11月25日 御影聖書学舎にて 澤 村 五 郎
第 一 章 新しい霊と神の霊
第 二 章 聖霊のバプテスマ
第 三 章 霊による礼拝
第 四 章 霊とことば
第 五 章 あがめられしイエスの霊
第 六 章 内住の霊
第 七 章 従う者に与えられる聖霊
第 八 章 霊を識ること
第 九 章 真理の霊
第 十 章 わが往くは汝等の益なり
第 十 一 章 キリストの栄光をあらわす霊
第 十 二 章 罪を悟らせる霊
第 十 三 章 聖霊を待ち望むこと
第 十 四 章 力の霊
第 十 五 章 聖霊の傾注
第 十 六 章 聖霊と宣敎
第 十 七 章 霊の新しさ
第 十 八 章 霊の自由
第 十 九 章 聖霊の導き
第 二 十 章 祈りの霊
第二十一章 聖霊と良心
第二十二章 霊の啓示
第二十三章 霊につける者と肉につける者
第二十四章 聖霊の宮
第二十五章 聖霊の奉仕
第二十六章 霊と肉
第二十七章 信仰によって聖霊を受ける
第二十八章 聖霊によりて歩むこと
第二十九章 愛の霊
第 三 十 章 霊の一致
第三十一章 聖霊に満たされること
補註 1 - 2 - 3 - 4 - 5 - 6 - 7 - 8 - 9 - 10 - 11 - 12 - 13 - 14 - 15 - 16 - 17
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