補註3  内 住 の 場 所

第六章 および 第二十九章



 聖霊の内住について聖書がどう教えているかを研究するに当たっては、聖書が我々に、聖霊がどこに住まわれるのか、その場所について語っているところ、ならびに聖霊が働く働き方について語っているところを明確に理解することが重要になる。そしてそのためには、人間の心(魂)と霊との違い、及び両者の相互関係について、正しい見解を求めることにとりわけ注意する必要がある。

 人類創造の歴史については次のように書かれている(創二・七)。『ヱホバ神 土のちりて人を造り』──このように人の肉体(body)が造られ──『生氣いのちのいきその鼻に噓入ふきいれたまへり』。これは生命の霊のことであって、このは神から来たものである。『人すなは生靈いけるものとなりぬ』とあるが、生靈いけるものとは生きている心(魂)のことである。肉体を生かす霊が、人間を生きた心、自己意識を有する生ける人格としたのである。心とは肉体と霊とが出会うところであり、結節点である。肉体を通して人は感覚で捉えられる外部の世界に対して関係づけられたものとして立ち、世界に対して影響を与えまた世界から影響を受けることができるようになった。霊を通して人は霊的世界と神の霊とに対して関係づけられたものとして立った。この神に人はその起源を有する。人は神の生命と力との受容者となり、その奉仕者となることができた。心はこれら二つの世界の間に立ち、かつ両方に所属することによって、自己判断の能力、すなわち自分を取り巻き自分が関係づけられているさまざまな事物を取捨選択する能力を持つようになったのである。

 人間本性のこれら三つの部分の構成としては、霊が最上位にあり、人間を神性と結び付けていた。肉体は最下位にあり、人間を感受できるものや生あるものに結び付けていた。心は中間の位置にあり、霊と肉体との両方の性質に参与するものであって、両者を結び付ける紐帯となり、心を通して霊と肉体とが相互に作用し合うことができた。心の働きは、両者の関係を適切に保つ中心的な力であった。すなわち肉体を霊に従属する最下位に保ち、人の霊を通して神の霊から人の霊を完成させるものを受け取り、さらにそれを下の肉体にまで受け渡し、それによって肉体が霊的身体となることを可能にするのが心の働きであった。

 心が授けられているさまざまな賜物、なかでも意識と自己決定の働き、すなわち精神と意志は、聖霊の生命がその中に入るための鋳型もしくは器にほかならないのであって、そこで神的生命の現実の実体であり真理であるところの霊の生命が受け入れられ、同化されるように定められていたのである。精神と意志とは、神の知識と意志とを同化するために神が与えたもうた能力なのであった。そうすることによって心の人格的生命は聖霊の生命によって満たされ取り込まれて、人間存在全体が霊的なものとなるはずであった。しかし実際にはそうはならなかったことを我々は知っている。反対に心は感覚の誘惑に負けてその奴隷となり、聖霊はもはや支配することができず、神のために人のうちに場所を確保することができなくなった。そして神は言われた、『わがみたまながく人とあらそはじ は彼も肉(flesh)なればなり』(創六・三)。人は完全に肉の力のもとにあったからである。人の中の霊は休眠に陥り、神を知り神に仕える能力が再び解放されて活かされる日が来るまで待たなければならなくなった。心は今や霊を支配するものとなった。このことはすべての宗教の中に、最も熱心に神を求める宗教の中にさえ、はっきりと刻印されている。すなわち神を見出し神を喜ばせようと努めているその主体が、神の聖霊ではなく人間自身の活力であるところの心となっていることにそれが表れているのである。

 新生(regeneration)においては、人間の霊が生き返らされ、新たにされる。「新生」あるいは「生まれ変わる」という言葉は、聖書においては心が死から生へと移される変化、自然の誕生の時と同様に一度にそして一度限り起る生への転換という意味で使用される。「新たにされる」という言葉は、神の霊の生命がいっそう完全に我々の生を満たし、我々の本性全体にわたってその主権を確立するようになる継続的で進行的な働きに対して使用される。

 新生した人においては心と霊との本来の関係が回復されている。人間の霊は神の霊の住まいとなるべく生き返らされている。神の霊は今やそこで教え導き、実体的で実在する神的生命、真理、キリストが我々のために有している現実の善を分け与えるのである。この神の霊による真理への神的教導がまず初めになされるのは、我々の心や精神においてではなく、我々の霊において、精神や意志よりも深い生命の奥処においてである。そしてこのことが起るためには、心は自分がどれほど盲目であったか、その諸能力が真に霊的になり神の光に照らされることにおいて如何に鈍重であったかを認めて告白しなければならず、愚かで無知になることに同意せねばならず、神の霊がその真理を生命の中に与えられることを従順に待つことができるようにならねばならず、そのようにして自分自身を本来立ち帰るべき所であった聖霊の完全な主権のもとにゆだねなければならないのである。

 いま我々は、これまで詳しく語ってきた心と霊との関係のための最も重要な、また受け入れ難い事柄に至る。教会や個人の宗教が恐れなければならない最大の危険は、精神と意志の力による心の過剰な活動である。心は自分で取り仕切ることに長い間慣れきっているので、回心してイエスに献身した後でも、心はその献身をなすこと自体や自分が受け入れた王に仕えることが自分の仕事であると容易に思い込んでしまうのである。聖霊の内住の現実を認識できず、聖霊が心を、すなわちすべての感覚、思考、意志を含めた我々の自己全体を支配することによって我々の中から肉に対する信認を完全に拭い去り、聖霊がみわざをなされるために不可欠な教えられやすさと従順さとをかわりに植え付けなければならない、ということを認められない、そのような信者がいかに多いことであろうか。『その生命いのち(原文ではpsycheすなわち心(魂)という言葉が使われている)ををしむ者はこれうしなその生命いのちをしまざる者はこれたもちて』(ヨハネ十二・二十五)というしゅのことばは、心をその意志や行為の力もろともに死にわたすようにとの命令である。それによって心が聖霊の生かし教える働きの中に真の生命を再び見出すためである。このことが理解されない限り、自己とその知恵に対する恐れはあり得ず、また霊的生の第一条件である聖霊に対する無条件の依り頼みと待ち望みということもまたあり得ないのである。

 こうした危険から救われたいと望む者、神がそのようにまたそのために人間を創造されたところの正常なあり方に戻りたいと望む者に対しては、道が開かれている。しかし安易な道ではない。まず我々は聖霊を知ること、聖霊の住まわれる場所、聖霊の方法、聖霊の働き、聖霊の要求を知ることを、祈り求めることから始めなくてはならない。聖霊の内住という聖なる神秘と神的現実について深い感覚を受けることを求めねばならない。聖霊があなたの内に宿っていることは、神がナザレのイエスの肉の内に宿っていたことと同じく真実であるが、しかしその方法は異なっている。聖なる存在に対する深い崇敬の念を持たねばならない。聖霊を悲しませる事柄に対してどこまでも妬み深く在らねばならない。聖霊を罪に次いで深く悲しませること、時には罪以上に我々にとって危険であること、それは最初のつまずきを繰り返す心であることを何よりも覚えねばならない。そのつまずきとは、何が善であり智であるかについて心が自分自身の判断に従うということである。あなたは、あなたの心がいまや完全に聖霊の主権のもとに入るために、既に聖霊を受けているのである。そのことを理解せねばならない。ただあなたが聖霊に導かれる必要を認めている、あるいは聖霊を求めているという事実だけで、聖霊の働きが保証されると思ってはならない。それは誤りである。あなたが聖霊によって神を知り礼拝することを真実に学びたいのであれば、そのために必要なことは、現実に、心的生をそのすべての力と知恵とともに日ごとに明け渡すことであり、心と意志の全体がまったく降伏して、聖霊が生命を与え教え導かれるまで待つことなのである。

 要点を整理しよう。霊は我々にとって神−意識の座であるのに対して、心は自−意識の座であり、肉体は世界−意識の座である。霊に神が住まわれ、心には自己が、そして肉体には感覚が住む。これらの間の関係が正常であるなら、すなわち心が自発的に霊に従い、霊を通して神に従っているのなら問題はない。しかし罪が入ることで、霊に従わずに感覚による生活を追求しようとする自己意識が現れた。その結果、心が、すなわち自己と利己心とが、人間生活の支配原理となったのである。

 新生を受けた人においては、神への奉仕にあってもなお神の意志を行うために自己が現れてその意志と力を通そうとし、聖霊に依り頼んで聖霊が動いて意志し働くのを待つことをしないように仕向ける、そのような気づきにくい誘惑が存在する。これを懸念してしゅイエスは弟子たちにはっきりと『おのれすてその十字架をおひて』と命じたのである(マタイ十六・二十四)。それは、自己の生と力とを十字架につけて聖霊が働かれるままにゆだねよということである。それでイエスはまた、真の生命、聖霊の生命を見出したいと望む場合に、我々が自分の生命(心)を憎むことと惜しむこととを問題にする。信者においては心と聖霊との秘められた争いが絶えず続いている。聖霊は神のためにすべてを所有して支配下に置くことを求めている。心は自己のために自分が主権を握って独立に活動する権利を主張する。そうである限り、すなわち心が主権を握っていて、心が行うことに聖霊が従い、それを助け祝福してくれると期待している限り、我々の生活と働きは真に霊的な実を結ぶことはないのである。聖霊が働かれるために心がすべての自己の意志と活動もろともに日々否定されて塵の中にひれ伏す時、その時にのみ、我々の奉仕の中に神の力が顕在化するのである。霊的生活における度重なる失敗、最も高貴な霊的経験の多くがすぐに止んでしまうことの原因は、次のことにある。すなわち我々の信仰が神と聖霊との力のうちに立つよりも、むしろ人間的な教えと理解の影響による人間の知恵のうちに立っていたことである。

 ヘブル書四・十二に『それ神のことばいきてかつちからあり兩刃もろはつるぎよりもいのちと魂 …… までとほわかち』とあるのはこのことに関連している。天地創造においても言葉の最初の働きは分けること──光と闇とを分け、天と地とを分けること──であったのと同様に、聖霊の生ける言葉が我々の内でなす働きも、我々に対して霊と心との間を明確に差異化することなのである。新たにされた霊が神の聖霊の住むべき場所であることを理解するように、我々は導かれるのである。

 弟子たちが初めてイエスに出会った際に、彼らは『ラビ何處いづくやどるや』と尋ねた(ヨハネ一・三十八)。しゅは彼らに『きたよ』と答えたので(同三十九)、彼らはその夜は主と共に宿った。我々は聖霊を知ることを望んでいるのであれば、「聖なる師よ、どこに住んでおられるのですか?」と尋ねることが許されている。それに対するイエスの答えは、『彼爾曹なんぢらうちをり』(同十四・十七)である。すなわち我々の驚くべき本性の内なる宮であって、すべての感覚と思考と意志が存する心よりもさらに深い場所であり、神がご自身のために造られた場所である。神が生かされた霊の中に聖霊は宿る。すなわち聖霊が宿るのは神が分与した生命の中であって、その生命を聖霊は真理の中にいっそう深く、キリストに現れている恵みの実質を現実に所有するまでに導くのである。聖霊がそこに宿ることを知り、そこから聖霊の教導を受けることを待ち望んでいる心だけが、それが必要とする限りの、またそれが持ちこたえられる限りの真理を知性のうちに与えられる。知性はその真理を持たずには無力でありかつ危険でもあるのである。パウロは『心(原文ではpneumaすなわち霊)をつかふる所の神』(ロマ一・九)と書いている。思考や感覚よりも深くに、神的世界との交流をもつために造られた静まりの座であり内なる宮であるをわたしが有しているという事実をわたしが知り、神の霊を待ち望むためにそこに待避し、そこを聖霊のために開くならば、わたしは聖霊がどこに宿られるのかを知るに至るであろう。その場所で聖霊を知りかつ崇める時にのみ、聖霊は隠された場所から現れて、心と意識的生活の領域の中にその力を発揮するのである。後に二十四章において信者が聖霊の宮であることを説明する際に、わたしは聖所である心と至聖所である霊との違いの問題に再び立ち帰ろうと思う。



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