我々は真理という言葉を何か教義を意味するものと考えることに慣れきっている。しかし我々の主はその言葉を全く異なる、はるかに高い意味で使っている。このことを理解できるようになるためには、そのための継続的な努力が必要とされる。福音書記者のヨハネはイエスが『恩寵と眞理にて充り』(ヨハネ一・十四)と述べ、『律法はモーセに由て傳り恩寵と眞理はイエス、キリストに由て來れり』(同十七)と説明している。ここで我々はヨハネが律法の持つ無力な影と形を、キリストがもたらしたものの生ける実体と実在、すなわち神による天来の永遠の生命が現実に分与されることに対比させていることにすぐに気づく。ベック(Beck)の書物からの以下の引用は、真理が実際に生命とそれ固有の王国とを有していることを理解する助けになるであろう。
「人間が物を造り出す能力は、それが霊的なものであれ肉体的なものであれ、真の生命や実在する生命を造り出すことはけっしてできない。できるのは、初めから何かそれに働きかけてそこから造り出すためのものが与えられて、それを受けて造り始めるということだけである。それは必ず客体的、外的な創造にとどまる。自然界でも同じであって、初めにそれ自身の生命力が内在しているものが与えられていなければならない。それがあって初めて我々は、霊的なものであれ物体的なものであれ、何らかの制作物を自分の力で造ることができるのだ。我々は決して生産しない。再生産するだけである。自然界は、我々が生きて働く独立の王国であるが、そこでは我々は何一つ存在させることも造り出すこともできない。同じように真理──霊的世界──もまた一つの独立した王国であり、我々はそれを自分の霊の中から造り出すことはできない。それはただその自存する存在においてそれ自身を我々に開示するのである。それは、そこから我々が実在する生命の実体と元素とを受け取って、霊的な生産を行えるようになるためである。現実の存在は必ずそれ固有の力において我々にそれ自身を開示し、その創造的な力を伴って我々の内に入らなければならない。そうして初めて我々はその中から取って生産を行えるようになるのである。この現実の存在──真理による生命の王国とは、どこにあるのであろうか。この問いに向かうためには、正直な探求者であれば、孤立した自己の中から出てこざるを得なくなる。そしてこの客体的世界(それは内的世界も含む──そこに客体的存在が実際にある限りにおいて)の中に真理のあらわれを探し求めざるを得なくなる。自分の霊をその真理に対して開いて、真理がその人に示すものを再生産するためである。そしてキリスト教の真理の本質は信仰である。信仰は人間の中に入ってその霊的所有となり、生きた力となってその人に内在する。信仰としてのキリスト教は観念でも法則でも情緒でもなく、ひとつの生命──深く、貫徹する、すべての呑み込む生命なのである。」
イエスは、この神的真理から成る生命の王国、この実在する神的生命を実体化するものとして地上に来られた。聖霊はこの真理を作動させる原理、すなわち真の生命なのである。そして『我は眞なり (the truth)』(ヨハネ十四・六)とおっしゃったキリストから聖霊が現れる時には、聖霊は、キリストの中にあってキリストを我々の内に『眞』とする──現実の生ける所有とする──すべてのものをもたらす者として現れる。キリストをこのようにして『眞』として所有する時にのみ、我々の持つ教義上の真理についての知識もまた活きたものとなり有益なものとなる。真理の霊は我々の内に生命なる真理をまず与え、そこから品行と品性の真理へと導く。われわれがこの意味で聖霊に服従する時にのみ、我々が持つ教義上の真理は現実に我々に対する神の真理となるのである。教会も個人も、神の聖霊を所有する分だけ神の真理を保持するのである。
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