補註11  宣 教 の 霊

第十六章



 スコットランドにおいて大きな国際宣教大会が最近開かれ、続いて宣教復興運動(Missionary Crusade)と呼ばれる出来事が起った。多くの人々と共にわたしはその集会にしゅが臨在してくださることを祈り、またそこで与えられた成功のゆえに主に感謝し、その結果を讃美した。しかしそれにもかかわらず、わたしは一言申し述べる気持ちを抑えきれないことを感じる。この大会に先だってA. ピアソン博士(Dr. A. Pierson)が『キリスト者(The Christian)』と題する論文を発行し、わたしはそれに大きな興味を覚えた。その論文では、このような集会からどのようなことを期待すべきかを論じた上で、次のように結論されている。それは偉大な祈りのバプテスマに至り着くのでなければ、なお比較的に失敗であったと1。牧会にあずかる神のしもべたちによる他の大きな集会においてわたしがかねて感じてきたこともまた同じ印象を与える。すなわち我々が聖霊の力を必要とし、期待し、信じていることを心を合わせて告白することに、あまりにもわずかな時間しか取られていないということであった。機関車が重い列車を引っ張るのには蒸気が必要であり、大砲には火薬と弾丸に加えて火が必要であるように、教会の働きと伝道には聖霊が必要である。このことを我々はみな認めているにもかかわらず、なぜ我々は八日から十日も続く集会の中でより多くの日々を、聖霊が神の僕たちの中に臨在し、または現れ、力をもって内住して働いてくださることを祈る、粘り強い一致した祈りのために充てないのであろうか。集会において聖霊の全能の力があらわれることを祈らないのであろうか。また必要なただ一つのことは聖霊によって顕わされる内住のキリストの臨在であることを全教会が深く確信できるように祈らないのであろうか。祈りのために集まることは小さなことではなく、最大かつ最重要なことなのである。かの脆弱であった弟子たちの群をエルサレムとローマとに抗してそれらに打ち勝つための闘いに備えさせたものは、天に挙げられた主の足台の前に心を合わせて祈り求めた十日間であった。我々もまた何にも増して、神の霊によって大いに力づけられることを祈り続けられるように、相互に励まし合わねばならないのである。

 このような集会においてもし我々が神を待ち望むことを最優先とするなら、その時に居合わせた人々に祝福があるばかりでなく、個々の信者個人を満たす聖霊によってわれらのむべきしゅは世界を祝福しようと待っておられるという、計り知れない価値のある幸いな真理を示す生けるあかしとなるであろう。わたしはそのように確信している。

 スコットランドの宣教復興運動に関する感動的な報告には、同じことが別の形を取って現れているのを見ることができる。宣教の聖なる情熱に満ち溢れた一人または幾人かの人が大勢の聴衆に説教すれば、彼らの内に燃える炎の幾分かを聞く者に分かち与えることができる。彼らの内なる聖霊が彼らの影響下にやってくる者たちに深く触れるのである。ただその場合でも永続する結果はごく小さいことが多く、同じ課程を絶えず繰り返さなければならない羽目になるのだ2。教会が必要とするもの、そしてわれらのしゅが与えようと求め願っておられることは、それ以上の何かなのである。弱く力に欠けるキリスト者生涯を生きているキリスト者は絶えず励ましを受けなければならないが、それだけでは十分ではない。宣教に召されている個々の信者の願いが主を喜ばせる者となること、世に対して霊的に真に力ある者となることであるとすれば、それは外部からの絶えざる励ましによってそうなればよいというものではなく、キリストの霊が住まわれる心の中から自然に湧き上がるものでなければならない。ぶどうの樹の枝が実を結ぶためには、生命を与える樹液が直接そこに流れ込まなければならない。この樹液とはすなわち聖霊である。これまでの年月の間の落ち度と不信仰──我々はいわば宣教ごっこをしていたようなものであった──について罪を認めて告白することは意味があるとしても、我々がともかく努めねばならないことは、半ば忘れかけていた真理を回復することである。その真理とは、信者は誰でも聖霊に満たされることが期待されているということである。聖霊が住み支配している場では、キリストのために犠牲を払うことと、キリストの関心に完全に合わせて個人的に献身することとは、健全なキリスト者生涯から出る自然な結果以外の何ものでもない。いつもこのことを確認した上で、教会は宣教のための援助と祈りを募らなければならないのである。キリストは教会の上に聖霊の力が臨むことを約束した上で、初めて教会に全世界に対する彼の証人となる召命を与えたのである。

 もしこの同じ思想をわたしがあまりにも執拗に繰り返していると読者に見えるのであれば、わたしは読者に許しを請わねばならない。わたしは大切なことを伝えたいのだが、自分が口ごもっていることを意識していて、聞き手に正しく理解されていないのではないかと恐れている人のようになっている。我々は自分が聖霊の存在を信じていること、また聖霊の働きが不可欠であると理解していることを確信している。しかしそう確信しているだけにまた、我々は全能のしゅイエス・キリストが聖霊によって一人ひとりの信者の内に働こうと待っておられるという、深い霊的真理に注意を向けようとしない。我々の内に働くこの力によって、キリストは我々の願いや思いをはるかに超える偉大な働きを、その約束に従って、その教会を通してなされるのである。聖書の言葉を取り次ぐ日常の牧会活動から変化が始まらねばならない。一人ひとりの信者は、真に実りある神を喜ばせる生活を送るためには、聖霊に満たされることが絶対的に必要であることを完全に意識するように教えられなければならない。滅びるままに我々が放置している何億人もの人々がいる。どうかこの事実が求める宣教へのあらゆる呼びかけとあらゆる努力とが、教会を罪の認識に導き、その栄光ある召命に対する献身に導くようになさせたまえ。聖霊こそ教会のあらゆる働きと任務のための力なのであって、その力は、キリストの霊に所有され、導かれ、用いられるために献身する信者個人の数が増えるに従ってのみ活動するようになるのである。どうかすべて教会で語られること、書かれること、祈られること、また教会で行われる集会と審議とを通して、この事実についての確信がますます深まるように導きたまえ。


  1. 「我々には期待すべきある一つの結果があり、それに伴う他のいかなる結果にも増してそれは大きな確信と希望とをもって求められなければならない。教会が他の何ものにも増して必要としているものとは、祈りのバプテスマである。…… もしロンドンでの集会が祈りのバプテスマをもたらさないのであれば、それは至高の結果に到達したとは言えない。キリスト教会全体は一つの力ある感動を与える祈りにおいて一致しなければならない。その祈りとは、これらの後の日々に神がその霊をすべて肉なる者の上に注ぐということが起ること、かくてヨエルの預言が完全な成就を見ることを祈る祈りである。」→ 本文に戻る
  2. ピアソン博士は前出の論文中で次のように書いている。「人間の集団ではしばしば相互影響が支配する。そこで呼び起される一過性の熱情は夜明けの雲や朝露のようなものであって、同じようにすみやかに消え去る。」→ 本文に戻る


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