補註9  教会における聖霊の臨在

第十四章



 「現在における聖霊の恵みは、きたるべき聖霊の盈満に対する見本、前金、ないしは抵当である。パウロはロマ書八・二十三で『聖靈のはじめて結べる實をもて我儕われら』について書いており、同様の表現は彼のほかの書簡にも見られる(エペソ一・十三四・三十コリント後書一・二十二五・五)。これらの言葉が意味するところは、霊的生活とは絶えずいっそう包括的な能力といっそう豊かな知恵と聖潔とを神から受けつつ継続的に成長する過程であるということではなかろうか。教会は霊的恵みの標準から言えばまだ幼年期にある。教会には多くの論争が残っているために聖なる約束の完成のために自ら備えるということができない。教会は、あたかも祈りの可能性をすべて尽してしまったかのように、部分を全体と取り違えることで、真の満足に至らないままの状態に安住してしまう危険にさらされている。ある分派に属する者をほかの人々よりも重んじたり、一時的な便宜に過ぎないさまざまな慣例を執念深く守ろうとするなどは、教会が陥っている最悪で腐敗的な世俗性であると言えば苛酷に過ぎるであろうか。聖霊の完全な注ぎを妨げているものは何であろうか。もっと容赦のない問い方をすることもできる。それは感情を伴わずには口に出せないが、そうかと言って黙っているのは不正直であろう。教会における聖霊の臨在は、使徒時代に比べて今日では後退してしまっているのではないであろうか。現代のキリスト教にペンテコステ的霊感の現れがあまり見られないのは事実である。千八百年を経た教会が最初の世紀の教会ほどにも聖霊のあかしを十分に実感できないとはどういうわけであろうか。教会は既にそのすべての目的を達したので、その光と美との最盛期は過ぎて二度と戻らないということなのであろうか。」──『慰め主(The Paraclete)』



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