補註10  聖 霊 の 傾 注

第十五章



 わたしはここで、聖霊について、また聖霊が肉なるものの上に注がれたことが信者と教会において、また世界においてどのような意味を持つのかについて、ベック教授(Professor Beck)が『教会倫理学(Christliche Ethik)』の中に書いているもう一つの箇所を引照したい。聖霊がどのような御方であって、我々の内にどのような幸いな働きをなすために来られたのかということについての狭い限られた見解から我々が自由になるためには、聖霊の傾注に備えるためにどのような準備が必要であったのか、その目的は何であったのかについて研究し、聖霊が今それをなすために来られることに思いをめぐらせることに役立つ書物にあたることが有益である。

 「聖霊のキリストに対する関係について言えば、聖霊は、キリストに属しキリストが所有するものの中から受けてそれを我々にもたらす証人であって、それによってキリストを顕彰しキリストに栄光をするのである(ヨハネ十五・二十六十六・七十四)。聖霊のあかしには、聖霊が上よりの力を受けて働くものであること、および聖霊のあかしが与えられるところには神の力による生命が伴うことにおいて、類いない特徴がある。キリストから流れ出るこの生命の力はすべて力動的原理である聖霊の中に集中して担われているのであって、聖霊はこの生命の力を各人それぞれに相応しく賜物また恩恵として分け与えるのである。したがって聖霊は、キリストの内にある真の実在性から個人の生活を生み出し築き上げる形成力なのである。聖霊があかしを行うことから、生み出すということが実現される。聖霊は力動的原理としてまた生成原理でもあるからである。聖霊を通してキリストが我々の内部に生み出され、恩恵として与えられる聖霊の生命と共に我々の内的生命となり、それによって我々は上よりの力、超自然的な生命力を着せられる。我々はキリストという恩恵を、外的対象として持つだけでなく、内に宿る神の力として持つのである。神の恩恵の力が聖霊として我々の内に宿る。その力の中には新しい生涯に必要なすべての力が凝縮されている。それゆえ聖書においては聖霊と生命と力とは密接に関係する概念であって、ちょうど反対の面において肉と弱さと死とが一つであるのと同様である。神の意志によって地上の肉なるものの世界を霊的世界に再び有機的に統合しようとする永遠の生命の体制は、天的な力学の基礎、すなわち天的生命力としての聖霊の働きという基礎の上にのみ、築き上げられることが可能なのである。

 「しかしながらこの聖霊の働きが世界に行われることは、キリストが成し遂げた和解によって、またキリストが栄光を受けることによって初めて可能になる。この和解が遂げられる以前の地上における神の霊の働きは、自然霊としての働き、地上の生涯における力としての働き、もしくは神が政治に介入するための霊の働きとして、個別の目的のために一時的に現れるのみであった。ちょうど預言者たちの場合がそうであった。聖霊はまだ、神的本性に属し父なる神と子なる神に宿る永遠の生命が、人間の人格的生となり人間の内的本性に与えられるというようには、働くことはなかった。この理由により旧約聖書における聖霊はキリストにおいて実現されることの約束に過ぎないのであり、それゆえに約束の霊という名が与えられている。新約聖書において聖霊という約束は成就され、現実に与えられ、所有される。しかし人間個人においてこのことが実現するに先だって、聖霊はまず人性の中に聖霊ご自身を分与するために、拠点を形成し確保する必要があった。この拠点たる人性においてのみ、聖霊は人間の肉の内に存在するその生来の精神と肉体との自由で有機的な結合を実現することができたのであり、また生来の精神と肉体とが聖霊の器官として形成されることができたのである。要するに、まずひとりの人が聖霊の注ぎを受け、聖霊によって透徹された者、油注がれた者とならねばならなかった。その上で、この霊的に完成されたイエス・キリストの中心人格において、自由意志に基づく犠牲の死によって肉が真の神性の霊的存在へと変えられねばならなかった。そして栄光を受けて神の前に上げられねばならなかった。それによって世界と神との和解が達成されるためである。このようにしてのみその調停者たるイエスから出て彼を通して来る神の霊は、正当にまた倫理的に、この目に見える生命の構造、すなわち実際の心と生命との構成体に作用し関与することができるようになる。このようにしてのみ聖霊は新しい資格を得て、キリストの人性から離れてすべての肉なる者の上に、天的生命の力、永遠の生命の力となって傾注されることができたのである。

 「ここで疑問が生じる。我々はどのようにしてそれがこの聖霊の傾注であると知り、また聖霊の傾注として受け入れることができるのであろうか?

 「聖霊の傾注は、聖霊が個人のうちに内住しているという状態のことではなく、そのための普遍的前提である。というのは、使徒行伝二章十七および三十三節に書かれているとおり(ここで用いられているekcheo(われそゝがん)およびexecheen(彼はそゝげり)という動詞は指向性のある動作を意味している)、それはすべて肉なる者に向けての傾注なのであり、個々人が聖霊で満たされている状態はその結果に過ぎないからである。個別的に人に聖霊が入るということは、普遍的に聖霊が傾注されることによっているのである。この関係は普遍的な和解と個人的な和解との関係とちょうど同じであって、個人的なものが普遍的なものによって実現されるのである。世界の和解も聖霊の傾注も、いずれもすべての者のために一度限り達成された包括的事実として存在している。両者とも、主観的な現実性という意味でそれに参与する者は一部であるとしても、それ自体は客観的な普遍性を有するものである。したがってすべての肉なるものに対する傾注ということは、すべての肉なるものの中に注ぎ込まれたという意味ではないし、また一部の個人の中に注ぎ込まれたことを単に修辞的に表現しているわけでもない。そうではなく、それがすべての人に向けられた、すべての人のためのものであることを表しているのである。しかし再度明確にしておきたいことは、これは旧約聖書の場合とは異なって単にあるべき理想を告げているのではなく、新約聖書ではそれは既に起った事実である(使徒二・三十三)。父の約束を受けてしゅはこれを既に注ぎ出されたのだ。すべて肉なるものに向けて傾注されたことに対応して、聖霊の作用もまた全世界を包括的に対象としている。聖霊の到来と傾注について我々の主ご自身が語っているとおり(ヨハネ十六・八)、主は不信仰な世界全体に重荷を負っておられる。たとえ人々が個人的には主を受け入れていないとしてもである。したがって聖霊の傾注はそれを個人が受け入れるかどうかには依存しない、司法的な働きなのである。

 「したがって我々は物事をこの光の下に理解する必要がある。発出され傾注された聖霊は、以前の天的存在から地にくだられた存在となることにより、世を覆い世界全体に影響する力として、またキリストに由来する新しい普遍的な力として、キリストにより和解が実現された地上に存在しているのである。たとえ聖霊がごく一部の人にしか、個人的賜物また主観的所有物として人格に内在化するということが実現していないとしてもである。傾注されたものとしての聖霊の世界における存在と働きは、特別な個人における聖霊の内住とは別のことであって、ちょうど天に挙げられた者としてのキリストの存在と働きが普遍的な力を持つしゅとして天地を満たすものであることと対応している。すべての肉なる者の上に聖霊が傾注されることによって、新しい生命の力が天から解き放たれて、今や目に見えない聖霊として世界というシステムの上に固有の法則に従って君臨している。それは、それまで普遍的な力として世界を支配していた虚偽と破壊の霊に対する、聖なる普遍的な力である聖霊の応答である。この虚偽と破壊の霊もまた個々の人間の中に内在する霊として存在しているだけでなく、この世の霊という独立の力としても存在している。このように、新しい聖なる霊的世界の力は、一方では一般的に世界全体に作用するとともに、他方ではキリストの教会の中での働きとして特殊的、個人的に作用する。世界における聖霊の一般的な働きとして、世界を裁くという働きがある。聖霊の働きは天から地に投じられた火であって、それは心の世界だけでなく物理的世界に対しても選別し裁く力として働くのである(ルカ十二・四十九五十一;バプテスマと焼き尽くす火については同三・十六参照;また黙示録四・五も見よ)。

 「この一般的な作用は、より特殊的な作用の基礎となり準備となるものであり、後者においては聖霊はしゅに結ばれている個人の心の中に天からの新しい生命の川となって流れ込むのである(ヨハネ三・五七・三十八;また同四・十十四参照)。聖霊はその裁く力としては火に結び付けられていたように、ここではその生命を与える力として水に結び付けられている。創世記一・二に記された水と霊と光との関係、マタイ三・十一における霊と火と水との関係、また黙示録四・五十五・二二十二・一に記された火と水の描写とも比較せよ。

 「このように聖霊が火と水として表現されている箇所では、聖霊は自然の力として──神的で霊的な自然の力として、物理的世界の中で普遍的な力として現れる。その力は世界に関係した日々の労働のための力ではなく、神の国に関係した特別な場合の労働のためにある。この普遍的な力として、注がれた聖霊は世界をそのあがなぬしに結び付ける管となり、肉の世界をその生来の状態から救い、現実の霊的身体へと変換するのである。このように聖霊の傾注は、それを即座に可能にしたキリストによる和解とともに、この地上の世界に聖霊の影響を貫徹させる計画の実現であり完成である。この計画を通して、汚れた霊の影響に抗して、天的な霊的生命の実体が人間性の中に(エペソ一・三ヘブル六・十四)、そして最終的には自然界全体の中に(ロマ書八・十九)、働きかけて内在するということが実現し、サタンの力の完全な破壊が達成されるのである(ヨハネ一書三・八ヨハネ十二・三十一同十六・八十一)。」



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