神の栄光は神の周囲にあるのでもなければ、神が存在している状況の中にあるのでもない。神の栄光とは神の意志の完全性と権威、神の存在と働きの神的な在り方のことである。神がキリストを彼自身において栄化されたということは、地上に生きておられた時のキリストの境遇を天界での生活の境遇に変えられたというだけでなくて、キリストが完全に新しい存在形式の中に入られたことを意味する。キリストは肉による時間的空間的制約から解放されて、人間として死んで神の生、すなわち霊となられた。地上におられる間は、キリストは弟子たちを彼自身と同じ人間として扱わざるを得ず、言葉と模範とによって彼らの理性と感情に働きかけることで彼自身から区別するほかなかった。彼らの霊を更新することはできなかったのである。天に昇られたキリストは、その神的栄光から聖霊の力によって弟子たちのうちに全く異なる仕方で働きをなし始めることができた。すなわち彼らの隠された生命の中に入り、彼らの心の中に住まうために聖霊を通して来られたのである。キリストは外側からの働きかけだけに制約された生涯のかわりに内的生命に影響を与える力を得たのであって、その力によって彼は万物に満ちるのである。そのような栄光を受けた者として、キリストは聖霊を、栄光の霊を与えられる。この聖霊の働きはイエスに栄光を帰することである。聖霊の働きは、天におけるキリストの栄光について幾分かの認識を我々にもたらすというにとどまるものではなく、我々に個人的にイエスの臨在と力とを分与することであって、イエスはその神的栄光のゆえにその臨在と力とをいま我々の内にあらわすことができる。しかし「栄光の主」をこのように知ることができるのは、聖霊の教えに完全に明け渡された心だけである。
栄光の主が栄光の霊によって我々の内に栄化されるという思想は、いったん理解されればこの上なく単純なものに見える。そしてその単純な外見にもかかわらずそれは深遠な霊的秘義なのであり、そこにはキリストが栄光を受けられた同じ道を踏むことによってしか、すなわち彼の受難に一致しその十字架の交わりに入ることによってしか、到達できないのである。新しく分け与えられることは、そのつど神の栄光の富に従わざるを得ず、また神の聖霊の卓越した力添えによらざるを得ない。この聖霊こそ、心に絶えず与えられ絶えず増大する神の言い表せない恩恵の最も現実的で直接的な働きであり、神の愛の賜物なのである。
この栄光がどのように働くのかを理解するためには、受難と栄光との関係について注意深い目を向ける必要がある。『キリストは此等の難を受て其榮光に入べきに非や』(ルカ二十四・二十六 1)。地上でもキリストは栄光の主であられたが(ヨハネ一・十四、コリント前書二・八)、その栄光は卑しい人間の姿の下に隠されていた。そのように、栄光を受けられた主の霊が我々の内に入り、そこで主の栄光をあらわしても、その栄光は我々の人間本性の弱さと恥の中に隠れているのである。そして我々が肉に苦しみを受ける時にのみ我々は生命を与える聖霊の力を経験する、というのがふつうなのである。
ユダヤ人の致命的な過誤は、彼らが救世主の栄光を何か目に見えるもの、彼らの現世的期待に添うもののように思って探し求めたことである。弟子たちさえもこの思想の影響を受けて主に不満を抱いた。キリストが今その中に入りその中で働いておられる霊なる生命の栄光は隠された秘義、聖なる秘義であって、それは外形的な触知可能なものにおいてではなく、目に見えない内的生命において作用する。我々はキリストが姿を現して心の中に住まわれることについて読む時にはいつでも、王が都に入城する時のような喜びと勝利の観念を心に抱くものである。そしてイエスは天の国は種子のようなものであると語った。種子とは、ほとんど死んだような、そこに生命があるとはおよそ思われない形状のなかに生命を宿しているものである。種子が発芽して成長することをまったく聞いたことがない人が、種子の中に樫の木や松の木が宿っていると想像することができるであろうか。そしてこの見えない生命をもつ種子もまた大地の下に埋められねばならない。天の国は、聖書の言葉という種子の中に入って我々のもとに届けられる。それはとても小さく、死んだもののように見えるので、そこから天国のような力が出て来ると期待する者はない。そしてこの種子もまた埋められねばならない。我々が認識し統制することができる思想や感情の中にではなく、もっと深くにある、霊の暗黒の深みの中に埋められねばならないのだ。そこにおいて、父なる神の霊なる生命のうちにおられるキリストが我々の霊なる生命の隠された深みを見出し、そこに入るのである。キリストこそ生ける言葉、生ける種子であって、聖霊はその種子の生命なのである。
栄光とは何かについての誤った見解は、ユダヤ人や教会の使徒たちや個々の信者たちのつまずきの石であり続けた。神の栄光とは、神の善にして完全なる意志にあらわれた神の聖性である。キリストの栄光とは、この神の意志の中に入り、それを行い、それに従って苦難を受けることを通して神に栄光を帰し、それによって父の栄光の内に入れられたこと、神が住まわれる聖と権威との生命の中に入れられたことである。我々もまた服従によってキリストの意志の中に入り、それを行い、神の力によってキリストの臨在を内に顕していただくなら、キリストは我々の中で栄光を受けることになる。キリストにある弱さやさげすむべき一面、人間的栄誉とは対極にあるもの、十字架の謙遜と受難とは、キリストの神的栄光の隠された種子であった。謙遜と服従、霊の貧しさ、見るべきところも感心すべきところもないこと、肉を殺して忍耐強く神を待ち望むこと、これらの事柄の中にキリストの種子があり、それによって聖霊は我々の内にキリストの栄光をあらわすである。
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