「わたしが受肉した愛であることを悟りなさい。わたしが肉体を身にまとったのは、あなたがたの心に君臨するためでした。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。そうすればあなたがたはわたしの臨在を失うことはありません。わたしの生涯と受難のすべては、神の愛が人間のあいだに永遠にとどまるようになるためでした。わたしは肉体のうちに現れたように、教会の中にも目に見える形で現れねばなりません。わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい。そうすれば、天に昇るわたしを見て驚いている世の人々は、あなたがたの方を振り向き、あなたがたのうちにキリストを認めて喜び、安心します。愛はかつてなきほどにはっきりと現れようとしています。しかしあなたがたは十字架を見上げる時、特に聖霊があなたがたに見分ける目を与えて十字架を見上げるようにさせる時、あなたがたはそこに現れている愛があなたがたの手本であることを承知しなさい。十字架の上に死なれたキリストがあなたがたのうちに生きています。『之に因て人々知べし』(ヨハネ十三・三十五)。神の子たちのあいだにある愛のしるしこそ、この誰にも抗うことのできない証拠なのです。
「愛は、イエスの人格として私共に共通の人間性の中にひとたび入ってからは、そこから出て行くことを拒み、永遠にとどまるために働きます。キリストの弟子たちが聖霊の注ぎによって十字架上の死から見出すことになるキリストの愛は、どのようなことであれ、彼らはお互いにその見出した愛を示すようにと命じられていました。彼ら一人ひとりがイエスの愛の生涯を継続するように任命されていたのです。
「しかしこのことはどのようにして可能になるのでしょうか。信者はキリストに結合することによって、その心が、救い主自身のその民に対する愛の格納庫となります。各信者の使命は、キリストの愛の分与者となることです。
「『爾曹もし我に居また我いひし言なんぢらに居ば凡て欲ふところ求に從ひて予らるべし』(ヨハネ十五・七)。キリストにある人々の祈りが速やかに成就されないのはなぜなのか、理解するのは難しくはありません。キリストの言葉が彼らのうちにとどまるようにしないからです。彼らはキリストが彼らを愛されたように互いに愛し合うという義務を実際上認めていないからです。キリストの愛を相互に与え合うというこの甘美な命令、それに私共が注意を払わないことによって、父なる神が私共に示す無償の愛の表れがどれほど多く実際上抑制されてしまっているか、わかっているのでしょうか。私共は聖霊の注ぎを熱心に求めていると公言しています。しかしそれならば私共は知らねばなりません、聖霊が私共のうちに作り出そうと意図している第一のものの一つは、兄弟に対するこのキリストの愛なのです。
「わたしの兄弟であるキリスト者たちは救い主を肉体の目で見ることはありません。しかしわたしは、この欠如をある意味で補うものを彼らに与えるようにと救い主から任命されています。わたしはキリストの死すべき人格の中に現れていた愛をいまわたしの生活の中にあらわすようにと命じられているのです。この命令は、もしご自身の愛をわたしのうちに置こうとしておられるのが永遠の愛を持っておられるキリストでなかったならば、完全に無意味で無益なものであります。この命令は実際、まことのぶどうの樹の枝になる以上のことは命じていません。つまり、わたしが自分の力で生き愛することを断念して、キリストの愛のあらわれとなるために自分をささげるということです。」──ジョージ・ボーエン(George Bowen)『啓示された愛(Love Revealed)』
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