第 二 章  聖霊のバプテスマ



『ヨハネまたあかししていひけるは …… われつかはし水にてバプテスマを施さしめし者われにいひけるは なんぢみたまくだりて其上そのうへとゞまるを見ん 彼は聖靈をてバプテスマをなす者なり』(ヨハネ一・三十二、三


 バプテスマのヨハネがキリストのご人格について宣べ伝えたことに、二つのことがありました。一つはキリストが世の罪を取り除く神の小羊であると述べたことです。もうひとつは、キリストが聖霊と火をもってその弟子たちにバプテスマを施すであろうと述べたことです。小羊の血と聖霊のバプテスマとはヨハネの信条および説教の二つの中心的真理でした。この二つはまた分けることができません。小羊の血が礎石として、または聖霊が隅の首石おやいしとして正しく宣べ伝えられる時にのみ、教会は力ある働きをなすことができ、また挙げられたもうたしゅが教会において栄光を受けたもうのです。

 このことはしかし、聖書を唯一の導きとして心から受け入れている信者の間においてすら、必ずしも常に実行されているわけではありません。神の小羊についての、またイエスの受難と贖罪、彼を通して与えられる罪の赦しと平和とについての説教は、人に容易に理解されてその心情に速やかに影響を及ぼすことができますが、それに比較すると、聖霊のバプテスマとその内住と導きとに関する霊的な真理には受け入れにくいものがあります。血がそそがれたことは地上における出来事で、目に見ることができる外部的な事柄であり、範型が与えられていますから理解することはそれほど難しくはありません。聖霊がそそがれたことは天における出来事であって、神の隠れたる奥義です。血が流されたのが神を敬わない者や神にそむく者に対して示されているものであるのに対して、聖霊の賜物は神に愛されている従順な弟子たちに対して顕わされたものです。贖罪や罪の赦しに比べて聖霊のバプテスマを説教する機会もそれを信ずる人も少なくなれば、教会の状態が主に対する献身という点で熱心ではなくなるであろうことは異とするに足りません。

 神はそのようなままにはしておくことを望まれません。旧約の約束はすでに私共の内なる神の霊について語っています。先駆者たる洗礼者ヨハネもこの要求を受けて、贖罪の小羊について説教する時には、私共の受けるあがないがいかに大いなるものであるかを述べるとともに、私共の内に成就される神の目的がいかに高いものであるかを語りました。彼の言う罪とは単なる罪の意識や罪悪感ではなく、神聖に対する冒瀆であり死でありました。罪は神の寵愛を奪い取り、私共を神との交わりにふさわしからぬものとしました。しかし私共と神との交わりがなければ、人間を創造された神のくすしき愛は満たされることがありません。神は私共を──私共の心と感情、すなわち内的人格、私共の自己を──ご自身のために、神ご自身の愛がとどまる家となすために、神の礼拝のための宮となすために所有することを真実に望まれたのです。ヨハネの宣教は贖罪の始まりとともに終わりをも含みます。小羊の血は神の宮をきよめるためであったとともに、心の中に神の御座みざをふたたび据えるためでもありました。聖霊のバプテスマとともにその内住があるのでなければ、神の心も人の心も満たされることはありません。

 聖霊のバプテスマの意味するところに関しては、イエスご自身が模範となります。イエスが与えようとしたものは、イエスご自身が受けたものだけでした。霊がイエスにとどまっておられたので、イエスは霊のバプテスマを授けることができました。ところで聖霊がイエスにくだってそこにとどまったというのはどういう意味なのでしょうか。イエスは聖霊によってはらまれました。霊の力によって養われてイエスは聖なる幼な子となり青年となりました。そして罪なきままに人となり、悔改の洗礼に身を委ねることによってすべての正義を満たすためにいまヨハネのもとに参りました。いまイエスはその服従の報酬として、また彼がこれまで霊の支配に身を委ねてきたことに対する神からの証印として、天的生涯を送る力を新たに分け与えられたまいます。すなわちイエスがそれまでに経験してきたことにまさって、父なる神の内なる臨在の自覚とその力とがイエスをとらえ、彼を以後の働きにふさわしいものとします。霊の導きと力とがすでに自分のものであることを彼は以前にもまして自覚します(ルカ四・一十四二十一参照)。彼は今や聖霊により力によって油そそぎを受けるのです。

 しかしこの時点では、イエスご自身は聖霊のバプテスマを受けたものの、彼はまだそれを人に与えることができません。彼はまずそのバプテスマの力によって、試練を受けてそれに勝たねばなりません。彼は服従と受苦を学び、神とその御意志のためにご自身を永遠の霊を通して犠牲として献げねばなりません。そののちに初めてイエスは服従の報酬として改めて聖霊を受け(使徒二・三十二)、彼のものであるすべての人々に聖霊のバプテスマを与える力を得るのです。

 このようなイエスのうちに私共が見るものは、聖霊のバプテスマとは何であるかを私共に教えます。それは、私共が神に帰り、生まれ変わって神の子として生きようとするための恩恵ではありません。使徒行伝一・五においてイエスが弟子たちの目をヨハネの預言に向けさせた時には、弟子たちは既にこの恩恵は受けておりました。聖霊によるバプテスマを受けることはそれ以上のことを意味していたのです。それは、彼らの心に住むために天から再びくだって来られた彼らの栄光のしゅの臨在の自覚であり、主の新しい生命の力に参与することでした。それはまた栄光の御座みざにあるイエスとのける交わりがもたらす喜びと力とのバプテスマでした。彼らがこの先の生涯において受けることになっていた知恵と勇気と聖潔とのすべてがここに由来します。イエスが洗礼を受けたもうた時に、聖霊がイエスにとって、父なる神の力と存在との活ける結合となったように、いま彼らにとって聖霊はイエスとの活ける結合となります。聖霊を通してイエスはご自身を顕わされ、御父おんちち御子みことは彼らのうちに住みたまいます。

 『なんぢみたまくだりてその上にとゞまるを見ん 彼は聖靈をてバプテスマをなす者なり』。これはヨハネに対して示された言葉ですが、また私共に対しても示されているものです。聖霊のバプテスマが意味するところが何であり、それを誰からどのようにして私共は受けるべきなのかを知るためには、私共は聖霊がその上にくだってとどまりたもうた方を見なければなりません。聖霊によるバプテスマを受けられたイエスに目を留めなければなりません。どうしてイエスがそれを必要とされ、そのためにどのように備えられ、どのようにそれにご自身を献げられたのか、また聖霊の力によってイエスがどのような死を死に、再び挙げられたもうたのかを、私共は理解しようと努めなければなりません。イエスが私共に与えようとしておられるものは、まずイエスご自身が受け、ご自身に当てはめたもうたことなのです。イエスがご自身のために受け、勝ち取ったところのものは、またすべて私共のためでもあったのです。イエスはそれを私共のものとなしたまいます。聖霊がその人の上にとどまるところを私共が見るその人が、聖霊によるバプテスマを施したまいます。

 聖霊のバプテスマに関しては、私共が簡単には答えを見出せず、人によって答えが異なるかも知れない疑問がいくつかあります。ペンテコステの日に聖霊が注がれたことで約束は完全に成就されたのでしょうか? その時に新しく生み出された教会の全構成員に一度だけ与えられたものが聖霊のバプテスマのすべてなのでしょうか? 使徒行伝四章に記された弟子たちへの聖霊の到来、また八章に記されたサマリヤ人たちへの、十章に記されたコルネリオの家の異教徒たちへの、十九章に記されたエペソの十二人の弟子たちへの聖霊の到来は、『彼は聖靈をてバプテスマをなす者なり』という約束の別の機会における成就と考えるべきなのではないでしょうか? 新生の時に各信者に与えられた聖霊の証印は聖霊のバプテスマと考えることができるのでしょうか? それとも或る人々が言うように、聖霊のバプテスマとはのちの機会に与えられる別の明確な恩恵なのでしょうか? 聖霊のバプテスマは一度限り与えられる恩恵なのでしょうか、それとも何度も新たに与えられることがあるのでしょうか? 私共は聖書を学ぶ中でこうした困難に対して答える助けとなる光を得ることがあるかも知れません1。しかし大切なことは、私共は最初からこのような疑問にとらわれることを自分に許してはならないということです。これらは結局のところそれほど重要な問題ではありません。私共はむしろ神が聖霊のバプテスマの宣教によって私共に教えようとしておられる偉大な霊的教訓の方に心の全体を向けなければなりません。特に、二つの重要な教訓があります。

 第一の事は、聖霊のバプテスマはイエスのみわざ全体の冠であり栄光であって、私共はそれを必要とし、真のキリスト者生涯を送るためにはそれを自分が有していることを自覚できなければならないということです。私共はそれを必要としています。聖なるイエスはそれを必要としました。キリストが愛した従順な弟子たちはそれを必要としました。それは聖霊の新生の働きよりもさらにまさる何かなのです。それはキリストの人格的な霊であって、キリストご自身を私共の内にあらわすものであり、すべての敵よりも高く挙げられ栄光を与えられたもうたキリストの本性の力によって心にうちに常に保たれているものです。それはキリスト・イエスの生命いのちの霊であって、私共を罪と死の法則から解放し、キリストが私共のために贖い取られた個人的経験としての罪からの自由のうちに私共を引き上げるものです。それは、新生している多くの人々にとっては、彼らのための祝福として備えられているものの、いまだ所有しておらず味わってもいない経験です。それはあらゆる危険を前にして私共を大胆さで満たし、世とすべての敵に対する勝利をもたらす力を与えることです。これこそ『われかれらのなかやどまたあゆまん』(コリント後書六・十六)との約束で神が意図していることの成就なのです。

 『彼は聖靈をてバプテスマをなす者なり』、その栄光で私共の心が満たされるまで、神の愛の意味するところすべてを父なる神が私共に開示されるように祈りましょう。

 学ぶべき第二の事は、このようにバプテスマを授けたもう者はイエスであるということです。或る人はこのような洗礼を私共は既に受けていて、あとはそれについてのより完全な理解が必要なだけだと思うかも知れませんし、あるいはまたこれからそれを受ける必要があると思っているかも知れませんが、いずれにしても次のことを認めるべきです。それは、聖霊のバプテスマにあずかる生命を受け、それを保ち、新たにされるためには、イエスとの交わりのうちになければならず、イエスに忠実に付き従い、従順でなければならないということです。『われを信ずる者は』とイエスはおっしゃいました。『その腹よりいける水かはごとく流出ながれいづべし』と(ヨハネ七・三十八)。私共に必要とされるただ一つの重要なことは、内住のイエスに対する活ける信仰なのです。そこから活ける水が確実にまたほしいままに流れ出します。信仰とは生まれ変わった人が持つ本能のようなもので、それによって人は神の食物と飲み物とを見出し受け入れます。どうぞ信者一人ひとりの内に宿る聖霊の助けによって私共は聖霊で満たしてくださるイエスを信頼し、愛と服従によってイエスにすがりつきとうございます。バプテスマを授けるのはイエスなのです。イエスにつながり、イエスに身を献げ、彼が私共にご自身のすべてを既に与えてくださっているしこれからも与えてくださることを確信しつつ、聖霊のバプテスマが意味するすべてを彼が与えてくださることを待ち望みましょう。

 またそうする時には、いと小さきことに忠実な者だけが多くの物事を託される、ということを特に覚えねばなりません。聖霊のみわざのうちあなたが既に有しており、知っていることにとりわけ忠実であらねばなりません。あなた自身に対して、神のきよき宮として深い崇敬の目を向けなさい。そしてあなたのうちに語りかける神の霊のしずかなささやきを待ち、聞き耳を立てなさい。とりわけ血によってきよめられた良心の声に聞き従いなさい。単純な子供のような服従によって良心をきよく保ちなさい。あなたの心の中には自分の無力を感じさせるような思い通りにならない罪がたくさんあるかも知れません。現実の罪によって顕在化された生来の腐敗のゆえに、深い謙遜のうちに自分を低くしなさい。このような罪のあらわれはすべて血によってきよめられねばなりません。

 しかしあなたの意志的な行為に関しては、日々、しゅイエスに対して、それがイエスを喜ばせると分かっていることは何でも喜んでいたしますと申し上げなさい。過ちを犯した時は良心の譴責にゆだねなさい、そして立ち帰り、神に希望を抱いて「神がわたしに望んでいるとわたしが知っていることを行ないます」との誓いを新たにしなさい。あなたが進む道における導きを朝ごとにへりくだって祈り待ち望みなさい。そうすれば聖霊の声がより明確に聞き取れるようになり、聖霊の力を感じ取ることができるようになります。イエスはその弟子たちを彼のバプテスマの準備として三年間を過ごさせ、その後にバプテスマの祝福が参りました。イエスの忠実で従順な弟子となり、聖霊がその上にとどまり聖霊に満たされているイエスを信じなさい。そうすればあなたもまた、聖霊のバプテスマの全き祝福にあずかるべく備えられます。


  さいわいなしゅイエス様、聖霊のバプテスマを与えるために御座みざに高く挙げられたもうたあなたをわたしはいま心のすべてをあげて礼拝いたします。どうかこの栄光のうちにあるあなた自身を示したまいまして、わたしがあなたから期待するべきものを正しく知ることができるようにしてください。

 わたしは聖霊の満たしを受ける準備とはどのようなものであるかをあなたにおいて見させていただきました。このことのためにあなたをめまつります。わたしのしゅよ、あなたがナザレにおいてその働きのために備えておられた生涯の間、聖霊はいつもあなたのうちにありました。けれどもあなたがすべての義を成就するためにご自身を献げられた時、また、あなたの救いの目的である罪人つみびとたちとの交わりに入るために彼らと共にバプテスマにあずかられた時、あなたは父なる神より新たに神の聖霊の注ぎを受けたまいました。それはあなたにとって、父の愛のしるしであり、その内住のあらわれであり、また奉仕の力でもありました。かくて今、聖霊がくだってその上にとどまりたもうことを私共が知っているあなたは、父があなたになしたもうたのと同じことを私共のためになしたまいます。

 わたしの聖なるしゅよ、聖霊がわがうちにもいましたまいますことを感謝します。しかしなお更にあなたが約束したまいました満ちあふれるほどの量をわたしはあなたに願い求めます。聖霊がわたしの心において、天の御座みざにおけるのと同じように、栄光あり力ある完全で途絶えることなき臨在となってくださいますように。主イエス様、どうかわたしに聖霊のバプテスマを施し、聖霊をもって満たしてください。 アーメン


要  点

  1. すべて神の与えたもうところと働きたもうところとは、終わりなき生命の力のうちにあります。そして同じ力によって、私共は日々、『彼は聖靈をてバプテスマをなす者なり』との聖言みことばの恵みの光の中にあるしゅイエスを見上げることができます。新たな求めがあるごとに、イエスは血をもって私共をきよめ、聖霊をもってバプテスマを施したまいます。
  2. バプテスマのヨハネが宣べ伝えた二重の真理に、信仰によって常につながり続けなさい。すなわちイエスは小羊として罪を除き去ること、また油そそがれた者として聖霊によるバプテスマを授けること、この二つです。イエスは注ぎ出すべき聖霊を受けるために、ご自分の血を流さなければなりませんでした。十字架が宣べ伝えられる時にのみ聖霊は働きます。すべての罪からきよめるイエスの貴い血を信じ、血に洗われた良心をもって神の前を歩む時にのみ、私共は聖霊の油注ぎを求めることができます。血と油はともにあって働きます。わたしには両方が必要です。一人のイエスのうちに、御座みざにいます小羊のうちに、わたしはこの二つをともに持っているのです。

  1. 補註1を参照。(→ 本文に戻る


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