第 十 九 章  聖 霊 の 導 き



およそ神のれいに導かるゝ者はこれすなはち神の子なり』(ロマ書八・十四


 多くのキリスト者は、聖霊の導きとは私共の思考を導くガイドのようなものとふつうは考えています。例えば意見や義務についての疑問に答えなければならない場合に、または聖書から引用して用いる聖句を選ばなくてはならない場合に、またはキリスト者としての奉仕をするにあたって具体的な指示を聖書に求めなくてはならない場合に、人々は何が正しい選択であるかを聖霊が暗示してくださることを期待します。人々はそういった答えを望み、求めますが、実はそれは無駄なことなのです。時々それが得られたように思われることもありますが、しかしそれは、真に聖霊から来るものであればしるしとして当然帯びているはずの確証や満足や成功をもたらしません。そのような場合には、すべての反論を封じてすべての困難を解決し、満足と力との源泉となるはずだった聖霊の導きという高貴な真理が、かえって混乱のもととなり、何よりも大きな困難となってしまうのです。

 このような誤りは、私共が本書で一度ならず扱ってきた真理を受け入れないところから来るのです。その真理とは、聖霊の教えと導きは最初に精神に対して与えられるのではなく、生命に対して与えられるものだということです。生命が揺り動かされ、強くせられ、生命が光となるのです。この世とその霊に迎合する思いが十字架につけられ死んでいるなら、そして生まれながらの生命と肉の意志を私共が強いて否定し抑制するなら、私共は精神においても霊によって新しく変えられます。そして精神は全くかつ善にしてよろこぶべき神の御旨みむね明らかに知るようになります(ロマ書十二・二)。

 私共の内的生命における聖霊のきよめのみわざと、聖霊が与える導きとの間のこのような関係は、いま読んでいる聖書の箇所に非常に明確に表れております。それは八・十三において『れいより身體からだ行爲はたらきころさばいくべし』と言われたすぐあとに、『およそ神のれいに導かるゝ者はこれすなはち神の子なり』と言われているところです。この肉体の行為を死にわたすというところまで聖霊の導きに従う決断をする者だけが神の子であると言うのです。聖霊とは聖なる生命の霊であります。それはキリスト・イエスのうちにかつてあり今なおあるものであって、それが私共の内にも神的な生命−力として働くのです。聖霊はきよきの霊であって、きよきのうちにのみ導きを与えたまいます。聖霊を通して神はその善き聖旨みむねを行うために私共の内に働き、志を立てさせ事を行わせます(ピリピ二・十三)。聖霊を通して神はその喜ぶところを私共の心の内に起し、私共をしてその御旨みむねを行わせようとすべての善きことにおいて私共を全きものとなしたまいます(ヘブル十三・二十一)。聖霊に導かれるということは、まず最初の段階において、罪を認めさせ、心と体を聖霊の宮とするためにきよめるという聖霊のみわざに明け渡すことを意味します。内住の聖霊が心と生命とを満たし、きよめ、支配する時にのみ、聖霊は光を与え導きたもうのです1

 聖霊の導きが意味するところを学ぶにあたっては、いま述べた思想をそのすべての意味するところとともに把握するということが何よりも大切です。霊的な精神のみが霊的な事柄を見分けて聖霊の導きを受けることができます。霊的な導きを受けることができるようになるためにはまず精神が霊的にならなければなりません。パウロがコリントの人々に語っているところを見ますと(コリント前書三・一)、彼らは新生していたものの、なお肉的な、キリストにある赤子でありましたため、彼らに霊的真理を語ることができませんでした。人が教える場合においてもそのようであるなら、聖霊がすべての真理に導くために直接教える場合にはなおさらそうなのではないでしょうか。聖書に書かれている秘義に関しては、どれほど深い秘義であってもそれが人間の思考によって理解できる限りにおいては、たとえ潔められていない精神であっても学ぶことができ、受け入れることができ、さらに説教することさえ可能です。しかし、幾度繰り返し強調しても足りないことですが、聖霊の導きというのは思考や感情の領域から始まるものではありません。もっと深いところ、生命そのもの、内的生命の隠された作業場、そこから私共の霊における意志をかたどり品性を形づくる力が流れ出る場所、そこに聖霊は住まいを定めたまい、聖霊はそこで呼吸し、活動し、そこから人を動かすのです。

 聖霊は私共に生命と品性を吹き込むことによって導きたもうのであり、その性質から正しい目的と決心とが生じてきます。『ねがはくは爾曹なんぢらみたまあたふるすべての智慧と頴悟さとりとをことごと神旨かみのむねしり』(コロサイ一・九)という祈りは、神の意志を知る知識が与えられるのは霊による理解に対してだけであることを私共に教えています。そして霊による理解は、霊的人間の成長、霊的生命に対する忠実さとともにしか与えられません。聖霊の導きを得たいと思うなら、自分自身を献げてその生命を聖霊に完全に所有し満たしていただかなければなりません。聖書を見ますと、キリストは聖霊のバプテスマを受けたのちに『聖靈にみたされて …… みたまに導かれゆきて』(ルカ四・一)、『聖靈のちからてガリラヤに歸り』(同十四)、『しゅみたまわれにいます』という言葉をもってナザレでの宣教を始められました(同十八)。

 聖霊の導きを受けるためには教えられやすいしもべの精神が必要であることは容易に理解されます。聖霊は、罪を犯させる力であるところの肉によって妨げられるだけでなく、むしろそれ以上に、神の役に立ちたいと願わせる力であるところの肉によって妨碍されます。聖霊の教えを聞き分けることができるようになるためには、耳に割礼を受けなければならないと聖書は教えます(エレミヤ六・十)。それは手による割礼ではなく、肉のからだを脱ぎ捨てるというキリストの割礼です。肉の思いと知恵とを恐れなければなりません。十字架につけなければなりません。拒絶しなければなりません。自分自身を通してであれ、または周囲にいる人々を通してであれ、肉とそれがもつ知恵が語るすべての事柄に対して耳を閉ざさねばなりません。私共が神について思う時、神のことばを学ぶ時、礼拝に臨む時、神のために奉仕する時には、いつでも必ず、自己に対する信頼を棄てて自己を否定し続けること、神が聖霊を通して教え導かれるのを堅い決心をもって待ち望むこと、これらがなければなりません。神の導きによって知識と義務との光が与えられることを日々絶えず待ち望む心は、必ずそれを受けることができます。聖霊の導きを得たいと思うなら、あなたの意志と知恵だけでなくあなたの生命と存在の全体を日々差し出しなさい。そうすれば火がくだって犠牲を焼き尽くします。

 聖霊の導きとは格別に信仰の問題であるはずです。それは二つの意味においてです。まず聖霊の導きは、聖霊がわたしの内におられ働かれるという確信をきよい畏れのうちに養い、その確信に基づいて行動することを学ぶ時に、最初に現れます。聖霊の内住は神のあがないのわざの完成であって、神性の秘義の中でも最も霊的かつ神秘的な部分をなします。ここにこそ信仰が求められます。信仰は見えないもの、神的なものを認識する心の能力であり、神が近づかれる時にその神の臨在を感じ取り、神という存在が私共にもたらし与えようとしておられるところから信仰の量りに従って受け入れます。聖霊の内には神にある生の中でも最も親密な交流があり、そこでは信仰はもはやその感じるところや理解できるところに従って判断することをやめ、単純に神に服従して神が言われたところをなされるに任せます。信仰は黙想して礼拝し、祈って新しく信頼し、救いぬしの言葉、『かれ爾曹なんぢらうちをればなり』(ヨハネ十四・十七)という言葉に対して崇敬と感謝を抱いて心全体をゆだねます。信仰は、神の大能なる聖霊が聖霊ご自身の道に従ってわが内に住まわれ、わたしは聖霊に頼ることができ、聖霊はわたしを導かれるという確信のうちに喜び安らいます。

 次に、信仰を、聖霊の内住をただ信じるというところを超えて、その個々の導きに対して働かせることが求められます。例えばわたしがしゅの前に一つの問いかけをしているとしましょう。そしてわたしは心をまったく空にして、神が聖書を通して聖言みことばを与え、または御心みこころを示され、それを当てはめてくださることを待ち続けているとしましょう。その時にはわたしは信仰をもって、神は導きを与えられることを差し控えられることは決してないと信頼しなければなりません。ただ以前にも申しましたように、私共はよく言われるような聖霊の介入、例えば突然の衝撃とか強烈な印象とか、天からの声とかあからさまな干渉などを期待すべきなのではありません。確かにそのような導きが疑いなく与えられている人もあります。私共の本性がもっと霊的になり、目に見えない存在との直接的な交流の中に生きることができるようになれば、私共の思考や感情が神の貴い聖声みこえを私共の意識の内に直接に伝える媒体となることができるでありましょう。しかしこのことは神にゆだねて、神が私共の霊的能力を成長させてくださるのを待たねばなりません。階段の最初の何段かは最も弱い者でも上がれるように十分に低く作られています。神は神の子がひとり残らず、毎日聖霊の導きを受けられるように配慮していたまいます。聖霊の導きに従うことを、まず信じることから始めなさい。ただ聖霊があなたの内にいますことだけを信じるのではありません。たとえ以前にはあなたはそのような祝福を求めたことも味わったこともないとしても、あなたが神に求め託しているみわざを聖霊は今すぐに始めてくださると信じるのです。あなた自身を余すところなく神にゆだねなさい。そして、あなたの思いを神が受け入れてくださるのだからあなたは既に聖霊の支配下にあると、無条件の信任をもって信じなさい。そうすれば聖霊を通してイエスがあなたを導き、統御し、守りたまいます。

 ところで私共には、自分自身の心の想像によって導かれて、実際には肉による惑わしであるものを聖霊の導きと勘違いしてしまう危険があるのではないでしょうか。このような過誤に対する安全策はあるのでしょうか。この後半の問いに対する通常の答えは、聖書にある神の言葉がそれであるというものです。しかしこの答えではまだ真理の半分です。これまでに多くの人々が異端的思想に対抗しようとして聖書の言葉を用いてきましたが、しかしそれを人間理性や教会の解釈に従って適用したため、彼らが反対していた異端と同じくらいの誤りを含むものとなってしまうことがありました。正しい答えは、神の霊によって教えられた神の言葉がそれである、というものです。この二つの完全な調和の中にこそ私共の安全があります。まず第一に、神の聖言みことばはすべて神の霊によって与えられたものなのですから、どの聖言みことばも私共にとっては同じ霊によって解釈されなければならないことを思い起しとうございます。繰り返すまでもないことですが、この解釈は内住の聖霊からのみ参ります。内的生活が聖霊の支配下にある霊的な人物のみが、言葉の霊的意味を悟ることができます。第二に、聖言みことばはすべて聖霊がもたらしたものなのですから、聖霊はその聖言みことばの栄光をあらわすために、その聖言みことばに隠された豊かな神的真理を開示するために、その偉大な働きをなしたもうという事実を堅く握りとうございます。聖霊の導きに従う私共の安全の保証は、ただ聖霊の中にあるのではなく、ただ聖言みことばの中にあるのでもなく、聖言みことばと聖霊の両方が私共の内に豊かに内住したもう中にあるのであって、この二つは無条件の服従に対して与えられるものなのです。

 この事実は最初に強調した題目へと私共を引き戻します。それは、聖霊の導きは聖霊によるきよめと分かつことができないということです。聖霊に導かれることを求めている方はどなたもまず、自分が知っている限りの聖書の言葉から導きを受ける者として自分自身を差し出しとうございます。まず聖書の命令に従うところから始めとうございます。『人もし …… 從はば …… しるべし』(ヨハネ七・十七)とイエスはおっしゃいました。『わがいましめを守れ …… 父かならず別になぐさむる者を爾曹なんぢらたまひて』と(同十四・十五、十六)。すべての罪を捨てなさい。何事においても良心の声に従いなさい。すべてを神に献げて神のなされるままにゆだねなさい。霊によってからだの行為を殺しなさい(ロマ書八・十三)。あなたは神の子なのですから、霊の導きに従ってあなた自身を完全に霊の裁断にゆだねなさい(同十四)。そうすれば聖霊ご自身が、すなわちそれによって罪を殺し、子として導かれるためにあなた自身を献げたその同じ聖霊が、それまであなたが知らなかった喜びと力とを伴ってあなたの霊のために証人となり、あなたがほんとうに神の子であって、父の愛と守りのうちに子に与えられたすべての特権を享受することができるという事実を証言したまいます。


 天のお父様、すべて神の霊に導かれる者はこれすなわち神の子なりとの教え(ロマ書八・十四)のゆえにあなたに感謝いたします。あなたはあなたの子たちがあなたの聖霊以外のいかなるものによって導かれることも望みたまいません。聖霊が御子みこのうちに住まわれて導かれたように、私共をも神的な至福の導きをもって導きたまいます。

 お父様、私共がこの聖なる教えを十分に知らず完全に従うことができないために、しばしば聖霊の声を聞き分けることができず、聖霊に従うという思いが喜びではなく重荷になってしまうことを、あなたはご存じです。わたしたちを赦してください。今よりのち、私共が全心を挙げてあなたにゆだね、聖霊の導きの内を歩んで行くことができますよう、その導きの純真さと確かさに対する私共の信仰を懇ろに育んでください。

 お父様、わたしはあなたの霊によって導かれるべきすべての事柄において自分自身をあなたの子として、今ここにあなたに差し出します。自分の知恵、自分の意志、自分なりのやり方をすべて放棄します。日々、上からの導きに深く依り頼んで待ち望みます。聖霊がわが内に働かれるのを待つ間、わが霊をあなたの聖なる臨在の前に沈黙のうちに静まらせてください。聖霊によってわたしが肉の行いに死に、あなたの善きかつ全き御心みこころを知ることができるように、わたしの精神を新しく生まれ変わらせてください。わたしの全存在を内住するきよめの霊の支配のもとに置いてくださり、御心みこころに対する霊的理解が確実にわたしの全生活を統御するものとなるようにしてください。 アーメン


要  点

  1. 次の三節の順序によく注意してください。ロマ書八・十三にある内住の霊によって肉の行為を死にわたすということは、十四節に言われる聖霊の導きを受けることに先行しています。そしてこの二つのことは、十五、十六節に言われる、聖霊が生ける力をもって私共が神の子であることをともにあかしするための前段階となるのです。
  2. し靈により身體からだ行爲はたらきころさばいくべし』──これは聖書にあるきよめに関する最も深い教えの一つです。罪への誘惑は終わりまで残ります。しかし個々の罪のあらわれである肉の行為は死にわたすことが可能です。これをなすのは、聖霊を通して与えられるキリストの臨在と生命です。聖霊に身を委ねる者は聖霊を通してこれをなすことを得ます。罪を絶えず死にわたし続けることができるのです。これをなすためには、私共はキリスト・イエスにある生命の霊によって単純に満たされねばなりません。私共の内なるキリストの生命が、生命とともに罪の死を持ちきたられるのです。
  3. 罪が死にわたされていることは、三通りの方法で見る必要があります。まず、人が現実の罪悪を犯してしまった時には、聖霊はキリストの血をそこに当てはめて罪を消し去ります。また、人が自分の内に湧き上がってくる、自分を裏切ることになるかも知れない悪しき傾向にさいなまれる時には、聖霊はキリストの死の力によってその人を罪から遠ざけることができます。しかし記憶しなければならないことは、聖霊を通して肉の行為が死にわたされるのは、イエスがその死だけでなく生命の力において現れて心を満たすことによる、ということです。聖霊の導きはこの聖霊にある生命によって初めて可能になるのです。
  4. 「安全な導きというものは必ず永続するものである。一年かけて獲得したことを一時間のうちに失ってしまうこともある。もし小さなことでも聖霊によらずに行うなら、大きな物事において私共は聖霊を見失ってしまうであろう。」──ボウエン

  1. 本書では聖霊によるきよめ、またはきよめの霊としての聖霊について特別に扱う章がありません。本書に先行する『キリストにおけるきよさ(Holy in Christ)』の中で、聖霊の属性としての聖、聖霊のみわざにおける聖が何を意味するかについて述べる機会があったためです。本書はそれを受けて書かれています。→ 本文に戻る


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