サフィール博士(Dr. Saphir)による著書『十字架につけられたキリスト:コリント前書第二章講解(Christ Crucified: Lectures on 1 Corinthians II)』からの以下の引用文の中では、キリスト者生涯の初期段階にある信者の場合は、その信仰とキリスト者生涯を送る力とを聖霊の直接の働きに負っているという事実を知るのが通常たいへん難しいという見解が明確に記されている。それを知らないことの結果として、その人はしばしば暗黒の時に遭遇することになる。したがってその人は自分の失敗の原因を探り、そこから立ち直って成長し続けるための力を求めるために、覚醒させられなければならない。キリストにあるすべてを継続的な経験として実際に自分のものとすることができることを知るために、その人が必要としているものは、第三位格である聖霊の働きと内住とを発見することである。以下に示すような、キリスト者が知識に進むことの必要性についての博士の明確な教えと、神の子のうちで最も弱い者においても聖霊の内住はその人の特権であり力であるという宣言とは、まさに今日の教会が必要としているものであって、多くの人に光と祝福をもたらさずにはおかない。
「使徒パウロがエペソにおいて弟子たちを見出し、彼らに『爾曹信者と爲しとき聖靈を受しや』と問うたこと、それに対する弟子たちの答えが『我儕は聖靈の有ことだに聞ざりき』であったことを読んだ(使徒十九・二)。主イエスはピリポに『我かく久く爾曹と偕に在しに未だ我を識ざるか』(ヨハネ十四・九)と問うているが、同じように聖霊は真実で実直な信者に対して『我かく久く爾曹と偕に在しに』──そしてあなたにイエスにあるとおりに真理を示し、あなたに信仰を与え、神の愛をあなたの心に注ぎ、罪を悲しむあなたを慰め、あなたの祈りの弱さを補い、聖書に記された奇蹟にあなたの理解を開かせてきたのに──『未だ我を識ざるか』と問うのではないだろうか。信者が聖霊を知らない理由の一端は、聖霊が自分をではなく父なる神と子なる神とをあかしするものであるという事実にある。キリストに栄光を帰するのが聖霊の任務なのである。夜の闇の中で明るい光がある一点を照らしているなら、その光を持っている人は誰にも見えないままとなる。そのように頌むべき聖霊は、覚醒した罪人に気づかれないままに、すべての光を十字架の救い主と愛である父とに注ぐのである。心は声を上げて神の愛の大いなることとイエスの恵みの驚くべきことをたたえる。しかしその光を照らした者、心の目を開いた者、心を生まれ変わらせた者については、相変わらず知ることも見ることもできないままとなる。バプテスマのヨハネは自分を新郎の友にたとえて、外に立って新郎の声が聞こえれば自分は大いに喜ぶと語っているが、同じように聖霊は信者の心をキリストに向け、イエスを信じる喜びで彼を満たしながら、自分自身の愛と働きをあらわさないままでいるのである。
「信者になったばかりの人が聖霊について知ることのないもう一つの理由は、聖霊があまりにも柔和であるからである。聖霊はきわめて穏やかに近づき、我々の性格的な特徴に完全に合わせて、とても深いところまで透徹する影響を及ぼすので、我々はあたかも自分の理性や想像力や意志や意識によって自分の思いに従って自発的に動いてきたかのように思い込んでしまう。
「聖霊が我々のあらゆる能力と感情と精神の働きに影響を及ぼしてきたことを我々はほとんど感じることがない。ちょうどソロモンの宮殿を建てている間は何の音も聞こえなかったように、聖霊は音もなく静かに、愛情を込めてひそやかに働かれる──建築のために必要なすべての石を準備し、形を整え、しかるべき位置にはめ込むのである。完全な知識と無限の愛をもって聖霊はわれわれの霊を取り扱う。創造を命ずる声は、ちょうど地震や嵐や大火事の後にエリヤに語りかけられた声のように、静かなかそけき声であるのが通常なのである。
「だが信者は自分が神による恵みと力とを経験したことを知っている。神は自分にキリストをあらわされた。神は自分を新たに創られた。それは超自然の作用であって、その人はそれに気づいている。それは唯一無二のものであるので、その真理性に対する確信をもたらす。今やまことの光が照り渡っているというあかしがその人の心に与えられている。『われ我が信ずる者を知』(テモテ後書一・十二)、そのように我々はいまや自ら知っている。しかし我々が自ら知っているのは、その知識が我々自身によるのではなく神からの知識だからである。このため我々は自分がキリストを知っていることを知っている。聖霊によってキリストが我々に与えられているのである。そしてこの光は甘美である。父と子とを知るこの知識は幸いなものであり、そこには心を満ちたらせ不死の生命を満たす平和と喜びがあり、それによる完全な安息がある。どうしてか。それは神である聖霊が、神から我々に無償で与えられるものを開示したからである。聖霊によってわれわれはアバ父よと叫び、イエスを主と呼ぶからである。
「信者が成長して複雑な道に踏み入るようになるにつれて、信者は聖霊についてより多くのことを教えられる。慰めと成長のために信者はますますこの教理を必要とするようになるからである。その人の信仰はまだ自分で思っているほど強くはなく不安定である。愛の情熱はほどなく萎えてしまう。罪の力は当初は完全に毀たれているように思っていたが、やがてまた感じられるようになる。祈りは無気力になり、喜びはどこかに去ってしまったかのようだ。言い換えれば、神がその人を谷間に導かれ、その人が自分の信仰をキリストのように、あるいは無尽蔵の泉のように思いなさないように、自分自身についての認識を与えられるのである。キリスト者生涯のこの第二段階が当初は痛みを伴うものであり、人を謙遜にさせ、その心を途方に暮れさせるものであることは、知られているとおりである。このようにして我々が学ぶことは、我々の心を新たにする聖霊はまたその新しい生命を保つことをしなければならないこと、我々はキリストに来るためだけでなく、キリストの内に保たれるためにも、ただ神の恵みと力とに頼らなければならないということである。
「このように、神による介入にはいつでも、よりいっそう大きく、広く、深くなりゆく循環的向上が伴うのである。信者は回心の時に学んだことを、より大きなより深い形で再体験する。人間は罪深く無力であること、それゆえ我々を愛する父と、血を流して我々を救いたもうた救い主と、心に生命と悟りを与えて神の愛で満たす神の霊とに、完全におまかせするしかないことを、その人はますますはっきりと知るようになる。救いが神によること、神の恵みが土台を作り、キリストの日まで我々の内に善きわざをなすことを、その人はいまやより深い謙遜とより真実な喜びとともに悟るようになる。その時にその人は聖霊の賜物とその内住を目にするようになるのである。最初の弟子たちにおいても事態はこのようであった。彼らはイエスと共にある平和と喜びに満ちた子供のような時期を過ごした後、救い主を失った。それとともに心の庭にあったもの、木々も花々も小鳥の歌声も消えた。すべては冬に──寒さと沈黙と死に覆われた。そしてその後、イエスは再び彼らに帰ってきた。それは彼らを二度と置き去りにはしないためであった。そしてペンテコステの日にイエスは慰め主の人格をもって天からくだり、すべてを新しくした。それは香りと光に満ちた夏であった。彼らはしばらくの間イエスを失わなければならなかったが、それは聖霊を待ち望むため、聖霊の到来を喜ぶためであった。
「父なる神はその愛する子なるイエスのゆえに、そして我々がイエスを愛し、イエスが神から来られた方であることを信じているがゆえに、我々に対する愛を抱いておられる。聖霊の賜物はその愛による最も高貴な賜物なのである。それは我々に対する神の御目的がそこにおいて成就し完成を見るところの賜物なのである。
「救世主と聖霊とはいつもともに進む。そして聖霊の賜物は救世主の到来の偉大な目的であり、救世主の働きの初穂なのである。」
H. C. G. ムールもまた次のように書いている。「わたしは自覚的な信仰と和らぎとに覚醒した時のことを決して忘れないであろう。わたしの個人的経験では、それは十字架につけられた方の幻を、罪人が神との和らぎを回復するための犠牲として、決定的に自分に当てはまるものとして認めた時にやってきた。それは聖霊の人格をよりはっきりと理性によって把握した後にやってきたのであって、その聖霊の憐れみによりわたしの心はこのような十字架の幻を見ることができたのであった。それは、神の愛についての高度な洞察を新たに獲得することであり、贖いの恵みの内的で永続的な働きに新たに触れることであり、また神の豊かな備えを新たに発見することであった。感謝と愛と崇敬の気持ちは新しい理由を得、その源泉と休み場とを見出した。覚醒と回心を与えた方は、人格的な永遠の優しさと友情のほほえみをもってわたしの心に輝いていた。その方は、苦しみを受けて贖いを達成された方と、その子を賜わった方、永遠の恵みの計画を立てられ無限の慈悲によってその実現を求められた方とともに、言葉にできない秩序ある一致をもって並び立っていた。」
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