『眞の拜する者 靈と眞を以て父を拜する時きたらん 今その時になれり 夫父は是の如く拜する者を要め給ふ 神は靈なれば拜する者もまた靈と眞を以て拜すべき也』(ヨハネ四・二十三、四)
『神の靈に由て役事をなしキリストイエスに由て誇り肉躰を恃ざる我儕は眞の割禮を受たる者なれば也』(ピリピ三・三)
礼拝は人間最高の栄誉であります。人は神と交わるために創造されました。そしてその交わりの最も崇高な表現は礼拝です。宗教的生涯のすべての修練、すなわち瞑想と祈り、愛と信仰、献身と服従は、礼拝においてその絶頂をきわめます。私共は礼拝において、神がきよきと栄えと愛とにいかに豊かなものであるか、それに比して自分が罪深き被造物であって父に贖われた子であることを認識して、自己の全存在を挙げて神の御前に自分をさらけ出します。私共は御名にふさわしい讃美と栄光とを神に捧げます。礼拝とは最も真実に、完全に、そば近くまで神に近づくことです。宗教的生涯におけるすべての情操と奉仕とが礼拝には含まれてあります。礼拝することは人間の至高の到達点です。というのは、礼拝においては神がすべてであるからです。
イエスは、彼が来りたもうたことによって新しい礼拝が始まることを私共に告げます。すべて異教徒やサマリヤ人が礼拝と称していたものも、すべてユダヤ人が知っていたような旧約に暫定的に啓示された神の律法に従う礼拝さえも、全く新たな別の礼拝──霊とまこととをもってする礼拝に場所を譲らなければなりません。これは、イエスが聖霊の賜物よって新たに始めたもう礼拝です。これは今や父なる神を喜ばせることができる唯一の礼拝なのです。私共が聖霊を受けたのは特にこの礼拝のためでした。霊の働きについての学びの始めにあたって、聖霊が私共のうちに宿るその大いなる目的は私共が霊とまこととをもって礼拝することであるという、この幸いな思想を受け入れようではありませんか。『夫父は是の如く拜する者を要め給ふ』。このために父はその子と霊とを遣わしたもうたのでした。
『靈を以て』とあります。神は人を生ける心(soul)を持つものとして創りたまいました時に、人格と意識の座であり器官であるこの心を、一方では肉体を通して目に見える外部の世界と連絡させたまい、他方では霊を通して目に見えない神の世界に通ずるようになしたまいました。この心は、神とその聖旨に結びつくことによって霊に従うか、或いは肉と目に見えるものの誘惑とに服するべきかを決めなければなりませんでした。しかし心は霊の支配を拒み、肉とその欲との奴隷となりました。これが人間の堕落です。人は肉となり、霊は支配者たるその本来の地位を失って眠れる力にすぎないものとなりました。霊は今やすでに支配原理ではなく、囚われて苦悶するものとなりました。そして霊はいま罪の支配下にある肉──それは心と肉体が共有する生命の名称です──に敵対するものとして立っています。
新生していない人を霊的な人と対比させて述べる場合、パウロは新生していない人を、生まれつきの生命しか持っていない身体、心、あるいは動物と呼びました(コリント前書二・十四)。この心が持っている生命は私共のすべての道徳的並びに知性的能力を含むものですから、神の霊によって新たにされなくても、神に属する事柄にそれらの能力を向けることさえできます。この心が肉の力のもとにあるため、人間は肉であるのと同様、肉になったと言われるのです。肉体は肉と骨とから成り、そのうちで肉は特に感覚機能を与えられた部分であって、それによって私共は外界から感覚を得ますから、肉が人間の本性を表します。肉は感覚の世界に従属するものとなっています。こうして心全体が肉の力のもとにありますから、聖書は心の属性をみな肉につけるもの、肉の力のもとにあるものと称します。したがって宗教と礼拝とについては、それらが従う二つの異なる原理が対比されます。すなわち肉的知恵と霊的知恵です(コリント前書二・十二、コロサイ一・九)。肉に頼り肉の栄光を求める奉仕が一方にあり、他方に霊による神への奉仕があります(ピリピ三・三、四、ガラテヤ六・十三)。肉的精神と霊的精神とがあります(コロサイ二・十八、一・九)。肉の意志があるとともに、神の霊によって働く神のものである意志があります(ヨハネ一・十三、ピリピ二・十三)。肉が行なうことのできる力を誇る肉を満足させるための礼拝(コロサイ二・十八、二十三)がある一方、霊において神を拝する礼拝があります。この後者の礼拝を可能にし、私共の内に実現するためにイエスは来られました。それは私共の内奥に新しい霊を与え、さらにその中に神の聖霊を住まわせることによってでした。
『靈と眞を以て』とあります。ここに『靈を以て』とあるのは、外的な儀式に対照する意味での内的な礼拝のことではありません。それは人間の生まれつきの能力がなすことのできる礼拝に対照する意味での、神の霊が私共の内に働く霊的な礼拝を表します。それと同様に、『眞を以て』とあるのは、心からのまじめで正直なものであることを意味しているわけではありません。旧約の聖徒たちも神は礼拝において内面の真実性を求めておられることを知っていました。彼らは全心をもって正直に神を求めたのです。にもかかわらず、彼らはイエスが肉の覆いを取り去ることによって私共にもたらした霊とまことによる礼拝にまで到達することはありませんでした。まことという言葉がここで意味しているのは、実体であり、実在であって、神の礼拝が要求しまた約束するすべてのものを実際に所有していることです。聖書記者のヨハネは主イエスについて、彼は『實に父の生たまへる獨子の榮にして恩惠と眞理に充り』(ヨハネ一・十四)と述べ、さらに『律法はモーセに由て傳り恩寵と眞理はイエス、キリストに由て來れり』(同十七)と述べました。もし私共がまことということを単に偽りでないという意味に解するならば、モーセの律法もイエスの福音も同じように真実なものです。両者共に神に由来するものだからです。しかしもし私共が、律法は来るべき善きものの影に過ぎず、善きものの実体はイエスによってもたらされるということの意味を正しく理解するなら、私共はイエスこそが『眞理に充り』という意味を知るようになります。なぜならイエスご自身が真理なのであり、実在であり、私共に分け与えられた神の真の生命であり愛であり力であるからです。そのことからまた、まことの礼拝がなぜ霊による礼拝でなければならないかがわかります。なぜならまことの礼拝は、霊によって私共の内に啓示され保持される神の力、すなわちキリストご自身の生命と父なる神との交わりを、実際に味わうことであるからです。
真実の礼拝者は霊とまことをもって神を拝します。すべての礼拝者が真実の礼拝者なのではありません。熱心で正直な礼拝でありながら霊とまことによる礼拝になっていない場合が多くあります。精神を尽し、感情を尽し、意志を尽した礼拝であっても、神の真理に立つ霊的な礼拝とはなっていないことがあるのです。聖書の記述に忠実ではあっても、神の働きではなく人間の努力に由来する行為によってなされているならば、その礼拝は神が求めておられるキリストによる聖霊に感化された礼拝とはなりません。霊である神と、霊によって集う礼拝者との間に、一致と調和と連帯がなければなりません。そのように礼拝する者を神は求められます。父なる神であるところの限りなく全き聖霊が、その子らのうちにある霊に映し出されていなければなりません。そしてそれは神の霊が私共の内に住まうことによってのみ可能となるのです。
私共がこのようなまことの礼拝者──霊とまことによる礼拝者──になろうと努めるのであれば、まず私共は肉による礼拝がもたらす危険に気づかねばなりません。信者としての私共は肉と霊という二つの本性を内に有しています。前者は生まれつきのものであって、神の礼拝をなすために必要な事柄の中にいつでも入り込んできて自らそれをなそうとします。後者は霊的な部分ですが、今はとても弱く、どうすればそれに完全な支配権をゆだねることができるかを私共はまだ知らないかも知れません。確かに私共の精神は聖書の学びを喜びますし、私共の感情は聖書に書かれているすばらしい思想に感銘を受けるでしょう。しかし、ロマ書七章二十二節をご覧なさい、私共の意志は内なる人に従えば神の律法を喜ぶとしても、私共はなお律法を行なうには無力であり、自分が望む服従と礼拝とをなすことができないかも知れないのです。
私共は生きるにも礼拝をなすにも同様に聖霊の内住を必要としています。そして聖霊の内住を受けるためには私共はまず何よりも肉を沈黙させなければなりません。『凡そ血肉ある者ヱホバの前に肅然たれ』(ゼカリヤ二・十二)、『凡の肉神の前に誇ことなからん爲なり(That no flesh should glory in his presence =欽定訳)』(コリント前書一・二十九)とある通りです。ペテロにはイエスがキリストであることを既に神が明らかにしておられましたが、彼は十字架の思想を拒みました。それは彼の精神が神の事柄ではなく人間の事柄に同調していたからです。神の事柄についての私共自身の考えや、自分の内に正しい感情を呼び起し作り上げようとする私共自身の努力は、放棄されなければなりません。礼拝するための私共自身の力は取るに足らないものと見なされねばなりません。聖霊に対するはっきりした、そして静かな明けわたしのうちにのみ、神に近づくことをなさねばなりません。自分の望むままに聖霊に働いていただくことはできないことを学ぶにつれ、私共は霊による礼拝をなすためには霊によって歩まねばならないことを知るようになります。『もし神の靈なんぢらに住ば爾曹は肉に在で靈に在ん』(ロマ書八・九)。聖霊がわたしのうちに住み支配するならば、わたしは霊におり、霊による礼拝をなすことができます。
『眞の拜する者靈と眞を以て父を拜する時きたらん 今その時になれり 夫父は是の如く拜する者を要め給ふ』(ヨハネ四・二十三)。そうですから父はこのような礼拝者を求めたまいます。そしてその求める者を見出したまいます。なぜなら父はご自分で私共を召したもうのだからです。父が失われた者を見出して救うためにその独り子を遣わしたもうたのは、私共をこのような礼拝者となすためでした。裂かれた肉の垂れ幕を通って中に入り、霊をもって父を礼拝する、そのようなまことの礼拝者となるという救いの中に私共を入れるためでした。そして父は独り子の霊、キリストの霊を遣わされ、私共の内でその霊が、かつてのキリストご自身と同等の真実となり実在となるようになしたまいました。キリストの霊の臨在は、キリストがかつて生きたのと同じ生を私共の内に分かち与えたまいます。神に祝福あれ! 時は参りました。今がそうです。今まさに私共はその生を生きるのです。まことの礼拝者が霊とまこととをもって父を拝する時が来たのです。父がこのような礼拝者を求めたもうという、その一つの理由のために、聖霊が遣わされ、私共の内に住まっておられるということを信じましょう。聖霊が既に与えられているのですから、私共はまことの礼拝者となることができます。このことが既に達成されていることを確信して喜びましょう。
聖霊が私共の内に住んでおられることを聖なる畏怖のうちに確認しなさい。肉を沈黙させてへりくだり、自分自身を聖霊の導きと教えにゆだねなさい。信仰をもって御前にとどまり、聖霊の働きを待ち望みなさい。そしてまことの礼拝をなしなさい。この礼拝は父なる神を崇める礼拝であって、讃美と感謝と栄光と愛とを神お一人のものとして神に帰するものです。聖霊の働きの目的についての洞察と、聖霊の内住を信ずる信仰の働きと、聖霊のみわざの経験とのすべてを、最高の栄誉であるこの礼拝に向けなさい。
神様、あなたは霊にていましたまいます。あなたを礼拝する者は霊とまこととをもって礼拝しなければなりません。あなたの御名があがめられますように。あなたはその独り子を遣わして私共を贖い、聖霊による礼拝のために備えたまいました。あなたは私共のうちに住まわせるために聖霊を遣わしたまい、また私共をそれにふさわしい者となしたまいました。こうして私共は、御子を通してあなたを知りましたように、いま聖霊によって父に近づくことができます。
いとも聖なる神様、私共の礼拝がいかに肉の力と肉の願いにとどまっていたかを恥じて告白いたします。このような礼拝によって私共はあなたの名誉を貶め、あなたの霊を悲しませ、また私共自身の心に計り知れない損失をもたらして参りました。神様、私共を赦してこの罪よりお救いください。霊によらず、まことによらずしてあなたを礼拝することが今後決してないように私共を諭し導いてくださいますように祈ります。
わたしのお父様、あなたの聖霊が私共のうちに宿りたまいます。どうかあなたの栄光の富に従い、聖霊の力によって私共を強め、私共の内なる人がまことに聖霊の宮となり、いつも霊の犠牲が献げられる場となしてください。私共があなたの臨在の前に出るたびに、自己と肉とを死にわたす方法を教えてください。また私共の内にいます聖霊がキリスト・イエスを通してあなたに受け入れられる礼拝を、信仰と愛とを、私共の内に創り出すことを待ち望みかつ信頼することを教えてください。そして全世界の教会がこぞって霊とまこととの礼拝を求め、それに到達し、日々この礼拝をあなたに献げさせてくださいますように。イエスの御名により祈ります。 アーメン
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