しかし次のように問われるかも知れない。神はキリストの内にご自身とその目的とを開示されたのであれば、なぜなお他の光や他の教師を必要とされるのであろうかと。この必要性は、歴史を振り返れば明らかである。不信者たちは自分の知恵によっては神を知ることがなく、キリストが来られた時に彼を拒絶した。彼を受け入れた者たちは、それが超自然の光によるものであること、神の霊によるものであることを告白した。イスラエル人たちは神から霊感を受けた聖徒たちによって教えられ、やがて来るべき神を完璧に描き出している聖書を所有していた。このように特別に恵まれ、十分に教えを受けていたにもかかわらず、モーセと預言者たちが彼らの教えを通して証言していたその到来される神の外見の特徴を、彼らは見分けることができなかったのである。神はご自身の民のところに来たが、民は神を受け入れなかった。民は神を十字架につけた。このこと以上に明白な証拠があるであろうか。キリストご自身は、聖霊が彼を明らかに示すまでは、目に見えない光としてとどまるのである。
しかし我々の主の弟子たちを見よ。彼らは父なる神に引かれてイエスのもとに来た。彼らはイエスがメシアであると知っていたが、それは生来の能力から、肉と血から得られた知識ではなく、上から与えられたものであった。彼らは心からイエスを愛し、深い共感を持って付き従った。しかしそれでも、イエスが共にいる間は、彼らは聖書を完全に理解することがなかった。彼らは誉むべき主の教えを感嘆の念と情熱をもって受け入れたのであるが、それだけでは十分ではなかったのである。彼らはまだ真理の入口に立っていただけなのだ。ただ聖霊のみが我々を真理の中へと導き入れることができる。神はキリストにおられる。しかしただ聖霊のみがキリストを神として顕在化させるのである。
しかし実際の歴史と経験が示すところよりも高みに昇ろうではないか。神はその愛の中にご自身を顕わしておられる。わたしが神を知ることができるのは神の愛の意志によるのである。キリスト・イエスのうちに神はご自身を完全にあらわしておられる。イエスは明晰さと慈愛とに満ち溢れた光である。しかしなおわたしは真の光を見るために別の光を必要としている。それはなぜなのか。
それは、三位一体の神──父と子と聖霊と──をおいて他に神はないからである。神は聖霊においてご自身を知られる。神が光であるのは聖霊においてである。したがって神が世界に、またその子たちの心の中に光を送られるのは、聖霊によってなのである。
神はご自身をあらわされる。しかしあらわされた神とは誰なのか。子なる神のほかの誰かなのか。そして誰によって父なる神は子なる神を知り愛するのか。神が聖霊によって人にご自身をあらわされる、その同じ聖霊によって、知り愛するのである。聖書は、父なる神のものであり、子なる神に実体化され、聖霊によって啓示される。啓示する神も啓示された神もお一人のまことの神である。すなわち父と子と聖霊なのである。
そして贖罪においてもその通りである。我々は父と聖霊とを忘れていると、主イエス・キリストを神として崇めることはないし、キリストに近づくこともない。父をあらわし、聖霊のバプテスマを授けることが、キリストの栄光である。父と子と聖霊は主権と栄光において一つであり、愛と恵みにおいて一つなのである。
思い起しなさい、この世界から栄光の地に至る橋はなく、地上から天上へ昇る階段はない。ただ三位一体の神ご自身が降り来り、此岸から天国へと我々を救い入れるのである。古代の人々は「愛が降る (Amor descendit)」と表現した。愛が天国からくだるのである。無限の愛と知恵と力とともにある神がキリスト・イエスのうちに取っておかれたものを、キリストは自ら聖霊の力によって我々に与えなければならない。このことによって我々は、何ものも我々を神の愛から引き離すことはできないと知り、また確信をもって信じるのである。キリストは我々のものである。しかしそれは、我々の理性によるのではない。また我々の活力によるのでもなければ信仰によるのでもない。ただ聖霊ご自身によるのである。聖霊こそ神ご自身、永遠なる神であって、我々を主イエスに結び付け、いつまでも彼のものとなすのである。
父と子との本質的で完全な一致のうちにある聖霊が、我々に永遠の現実を開示する。聖霊だけが、神が我々を愛されたその無限の愛を知ることができる。聖霊だけが、この愛が発する神の深みを測り知ることができるからである。聖霊が開示し分与するものは、このように神の内にある永遠の現実を知る知識なのである。
聖霊がもたらすものは生ける知識であり、聖霊の光は生命の光である。それは単なる情報ではなく、諸真理の間の関係についての洞察でもなければ、諸真理の美と崇高を顕彰するものでもない。こうした広く深い知識をたとえ人が持っていても、それだからと言って彼は神の恵みをもっているわけでも、神の霊の内住も受けているわけでもない。神と神が遣わされたイエス・キリストとを知ることは永遠の生命である。神を知ること、神とキリストとを見上げることは、聖霊が我々のうちに形造られる霊的な終わりなき生命なのである。死せる知識は聖霊の働きではない。そのような知識は不活性な沈黙のうちに孤立してとどまる。それに対して聖霊の与える知識は交わりなのである。我々は父と子とを見るが、父と子もまた我々を見ておられる。我々が聖霊の啓示を通して父と子とを見上げる時、それは同時に我々も無限の愛を通して見られていることであり、恵みの祝福が我々に与えられていることなのである。我々は知られているがゆえに知る。「父よ、子よ、あなたがわたしを見られる (Thou Father, Thou Son, seest me)」──神を霊的に知る時、心はこのように直接的に意識する。別の面から言えば、崇敬と愛と祈り、神の声を聞くこと、キリストの愛と平和を受けること、そして霊の交わりは、すべて神をこのように知ることから出て来るのである。
それゆえこのように神を知ることは神を経験することでもある。このように知る時に我々は神とその賜物を所有し、受けるのだ。我々は父を知っており、それは実際に我々の父である。我々はキリストを知っており、我々はキリストの執り成しを理解する。我々は新しい契約の血に参入し、それによりキリストを所有する。そして彼の死と復活が力と実効性を持つものであることを経験する。我々は天のところにある霊的祝福を知っており、それを知ることによって我々はそれを所有するのだ。我々は単に神的実在の図像を所有するのではなく、その実体を所有するのである。
教え光を与える者は聖霊ご自身である。真理それ自体には、福音を宣べ伝えることにも、聖書を読むことにも、知識を心に伝える力が宿っているわけではない。これらは道具に過ぎず、主体は聖霊である。これらは剣に過ぎず、それを行使する腕と力とは聖霊にある。これらは神から教えられなければならない。神が福音の光で我々の心の中を照らすのである。この慰めと励ましに満ちた真理を我々はあまりにも知らないのではなかろうか。聖霊が用いる賜物と手段とを見ていながら、我々はその中におられる生ける聖霊を忘れがちなのではなかろうか。神がおられるべき地位に、父なる神ではないとしてもキリストがおられるべき地位に、もしくはキリストでもないとしても聖霊がおられるべき地位に、自分を据えることを我々は好むのではなかろうか。
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