第 十 七 章  霊 の 新 し さ



されども今われらをつなげる者においしにたれば律法おきてよりゆるされ儀文ぎぶん舊樣ふるきよられい新樣あたらしきよりつかふ』(ロマ書七・六

爾曹なんぢらもしみたまに導かるゝときは律法おきてしたあらざるべし』(ガラテヤ書五・十八


 内住の聖霊の働きは、キリストに栄光を帰し、キリストを私共のうちにあらわすことです。預言者、祭司、王というキリストの三つの役職に対応して、信者における内住の霊の働きも三つの様相、すなわち知恵をもたらすこと、きよめること、力を与えることという三つの面から私共に対して備えられていることを見ます。知恵をもたらすことに関しては、キリストは特に告別説教において、聖霊を真理の霊として与えることを約束したまいました。すなわちキリストのあかしをもたらし、すべての真理へと導き、キリストに属するものを取って私共にあらわす真理の霊です。きよめることに関しては、聖霊の働きはロマ書とガラテア書に特にはっきりと記されてあります。これこそ異教の深みの中から引き上げられたばかりの教会にとって必要なものだったからです。知恵が探求され重視されていたコリントの教会に宛てた二つの書簡の中では、これら二つの面が結び付けられております。すなわち聖霊はきよめを与えたもう時にのみ知恵をもたらすことができると教えられています(コリント前書二章三・一〜三十六コリント後書三章)。働きのために力を与えることに関しては、期待されるとおり使徒行伝において、迫害と困難の中で大胆で祝福に満ちたあかしをするためにキリストが用意される力の霊という形で前景化します。

 世界の中心であったローマの教会に宛てた書簡において、パウロは神の福音とあがないの経綸とを完全にかつ系統立てて開示するように神から命じられました。この書簡は聖霊が働くべき重要な場所でありました。パウロは『義人は信仰によりいくべし』(一・十七)とその主題を提示することから、信仰を通して義と生命いのちとの両方がもたらされるということを詳細に説明し始めます。この書簡の初めの部分(五・十一まで)でパウロは信仰による義とは何かを教えます。続く五・十二〜二十一で、パウロはこの義が第二のアダムたるキリストとの私共の生きた関係に根拠を有すること、キリストが義とせられることによって生命が得られたことを立証します。この生命は、個人においては、キリストが罪に対して死に神に対して生きているという事実を、私共自身のこととして信じて受け入れること(六・一〜十三)、また神と義とのしもべとなるために自分自身を進んで差し出すこと(同十四〜二十三)を通して参ります。そしてパウロは私共がキリストにあって罪に対して死んでいるだけでなく、その罪の力の源泉である律法に対しても死んでいることを明らかにすることによって、キリストの福音が古い律法に代えて定める新しい律法、すなわちキリスト・イエスの内にある生命の霊の律法へと自然に進んでいくのです。

 ご承知のように印象は対照を際立たせることによって強調されます。六・十三〜二十三ではパウロは罪の奉仕と義の奉仕とを対照していますが、七・四以下では聖霊の力と働きとを明らかに示すために、律法のもとに拘束された古い儀文に基づく奉仕に対して、イエスが聖霊を通して与える自由と力とに基づく新しい霊の奉仕を対照させます。続く七・十四から八・十六までの部分ではこの対照がさらに展開されます。この対照によってのみ、二つの状態の違いが正しく理解されるようになるのです。それぞれの状態に対応するキーワードがあり、それぞれに属する生命の特徴を描き出します。ロマ書七章には、律法という言葉が二十回も現れるのに対して、聖霊という言葉は一回だけです。対照的に八章では、前半の十六節の中に聖霊という言葉が十六回現れます。この対照は、律法のもとにあるキリスト者生涯と、聖霊の下にあるキリスト者生涯との間の対照です。パウロは大胆に申しました。あなたがたは神に対して義のしもべとなるために罪に対して死に、罪から自由な者とせられただけでなく(六章)、『爾曹なんぢらもキリストの身により律法おきてついて殺されしものなり …… 今われらをつなげる者においしにたれば律法おきてよりゆるされ儀文の舊樣ふるきよられい新樣あたらしきよりつかふ』(七・四)と。ここでは六章に比べて二つの点で前進しています。六章には罪に対する死と罪からの解放がありましたが、ここには律法に対する死と律法からの解放があります。六章には『新しき生命いのち』(四節)があり、それはキリストにある私共に与えられた客体的実在でありました。それに対してここには『れい新樣あたらしき』(七・六)があります。これは聖霊の内住によって私共に与えられる主体的経験です。聖霊にある生命を全く知りかつ味わう者は、また律法にある生命がどのようなものであるのか、聖霊によって得られる律法からの自由がどれほど充全なものであるかを知っているはずであります。

 律法になお束縛されていて律法を満たそうと努めている信者の生活を描き出すために、パウロはそういう状態の特徴がよく表れている三つの表現を用いています。第一は肉(flesh)という言葉です。『われは肉なる者(carnal)にして罪のもとうられたり …… 善なる者はわれすなはちわが肉(flesh)にをらざるをしる』(七・十四十八)。この『肉』という言葉を理解するためには、パウロがコリント前書三・一〜三で述べていることを参照する必要があります。パウロはそこでこの言葉を、新生はしたものの、霊的な者となるために聖霊に自分自身をまだ完全に献げてはいないキリスト者を表すために使っています1。その人々は聖霊を持っているのに、肉に勝たれてしまうのです。すなわち肉的なキリスト者と霊的なキリスト者の間には、彼らにおいて何が最も強いのかという点に相違があるのです。人々が聖霊を有していても、何らかの理由のために彼らが聖霊による全き救いを受け入れず、自分自身の力で戦おうとしている限り、その人々は霊的なキリスト者とはなりませんし、なることができません。パウロはここで、その人自身としては既に新生している人について語っています。その人は聖霊によって生かされているのですが、しかしガラテヤ書五・二十五にあるような意味では聖霊によって歩んではいないのです。その人はエゼキエル書三十六・二十六の意味で『新しき靈魂たましひを …… さづけ』られた者ですが、理性においても実践においても神ご自身の霊をその新しい霊魂の内に住まい支配するものとしては、神の生命そのものとしては、受け入れていないのです。その意味でまだ肉的(carnal)なのです。

 第二の表現は、ロマ書七章十八節です。『願ふ所はわれにあれども善を行ふことを得ざればなり』。パウロは十五〜二十一節で、律法とそれを満たそうとする努力とが人間を閉じ込める、完全に無能力な痛ましい状態を描き出します。『が願ふ所のものわれこれをなさにくむ所のものわれこれをなせばなり』(十五)。願うけれども行わない、これこそ古い儀文による奉仕であり、ペンテコステ以前の生涯における奉仕の有様でした(マタイ二十六・四十一参照)。新生した人の心は神の意志を受け入れ、それに同意していますが、それを行う力の源泉、すなわち内住の神の霊をまだ知りません。対照的に、聖霊にある生涯とは何であるかを知っている人の内には、神が願いを起させそれを実践させるために働きたまいます。そのようなキリスト者は『われわれに力をあたふるキリストによりすべての事を爲得なしうるなり』(ピリピ四・十三)と証言します。これは信仰と聖霊を通してのみ可能となる状態です。人は『これを行ふ者これによりいのちべし』(ロマ書十・五)と告げる律法から自由にされていることを自覚できていない限り、神の意志を行おうとするその人の努力に絶えず失敗がつきまとうことになります。その人の内なる自己は神の律法に喜びを見出すとしても、それを行う力がありません。人は『信ずる者は …… わざなさん』(ヨハネ十四・十二)と告げる信仰の法則に身を委ねる時、もう一人の人、すなわち聖霊を通してその人の内に働かれる生けるイエスにつながれるために律法から自由にされていることを知るようになりますから、その時にのみ人は必ず『ゆきて神のためを結ぶ』ことができます(ロマ書七・四)。

 記憶すべき第三の表現は七・二十三です。『わが肢體したいほかのりありてわが心ののりと戰ひわれとりこにして肢體したいうちにをる罪ののりに從はするを悟れり』。この『とりこ』という言葉、あるいは『罪のしたうられたり』(七・十四)という表現は、売られて拘束され、自分の意志を行う自由も力もない奴隷という観念を示します。この言葉はこの七章の初めの部分でパウロが語った事実、すなわち私共は既に律法から解放されているという事実を想起させた上で、なおここにその自由をまだ知らない者として自分がいることを明らかにしています。またこの言葉はさらに先の八・二でパウロが語る言葉、『いかれいのりはイエスキリストによりて罪と死ののりよりわれゆるせばなり』ということにつながっています。信仰に従って与えられるキリストにある自由は、律法の精神が残っている限り、完全に受け入れられることも経験されることもありません。完全な自由はただ私共の内なるキリストの霊によってのみ実現されます。古い儀文においても、また新しい霊においても、客体的な関係と人格的な関係との二重の関係が存在してます。律法は私共の外にあって上から支配するものであるとともに、また私共の肢体に内から働く罪と死の法則でもあって、後者の力は前者から来ています。同じように律法から自由にされるにあたっても、まず信仰に従って与えられるキリストにある客体的な自由があります。それとともにまた、ちょうど罪の法則がそうであったように、聖霊が私共の肢体に住んでそれを支配することによってのみ実現される、完全性と力とを備える同じ自由の主観的、人格的な所有があります。この自由の所有だけが、奴隷の叫び、『あゝわれ困苦人なやめるひとなるかな この死のからだよりわれを救はん者はたれぞや』(七・二十四)という叫びを、贖われた者の歌、『これわれらのしゅイエスキリストなるがゆゑに神に感謝す …… そはいかれいのりは …… われゆるせばなり』(七・二十五八・二)という歌に変えることができるのです。

 ロマ書七・十四〜二十三八・一〜十六とにそれぞれ提示されている二つの状態をどのような関係にあるものと考えるべきでしょうか。相互に行ったり来たりできるものなのでしょうか、それとも順次に起ることなのか、あるいは同時的に起ることなのでしょうか。

 多くの人はこれらを、信仰生活における移り変わる経験を描いているものと考えてきました。人は神の恵みによって善を行い、神を喜ばせる生き方をし、その結果八章の恵みを経験することもしばしばあるものの、罪と欠点についての意識がその人を再び七章の希望のない状態に追いやってしまう、というようにです。ある時には一方の経験が、また別の時には他方の経験が前面に現れますが、日々両方の経験をいたします。

 しかしこのような生活は神が信者に与えたもうものではないと感じる人々もありました。信者のために神が恵みにより備えていたもう生活はこのようなものであるはずがないというのです。そのような人々は、キリストが私共を解き放ちたもうたその自由にあずかる生涯が、聖霊が私共の内に宿りたもう時に私共のものになることを知っています。また彼らは実際にそのような生涯に入っております。それなのでその人々にとってはロマ書七章の経験は、現在もまたいつまでも、はるかかなたに過ぎ去った経験であるように思われたのです。彼らはそのような経験を、もう二度と戻ることがない荒野あれののイスラエルの経験であると見なします。律法のなわめから聖霊の自由へと進む恵みを経験した時にどれほどの啓示と祝福がやってきたかを証言できるたくさんの人がいるのです。

 しかしこの見解には大きな真実が含まれているとしても、それだけですべてを尽しているわけではありません。その信者は『善なる者はわれすなはちわが肉にをらざる』(七・十八)という言葉もまたどこまでも真実であると感じます。その人は自分が喜びをもって神の意志のうちにとどまっている時でも、また神の意志が実現されることを望むだけでなくそれを行う力が与えられている時でも、それは自分自身ではなくて神の恵みであることを承知しています。『善なる者はわれをらざる』のだからです。したがってその人は、上記の二つのことは別々の経験ではなく、同時に存在する二つの状態であることを認めるようになります。すなわち、人は自分を自由にしたキリスト・イエスにある生命の霊の法則をこの上なく完全に味わっている時でも、その人はなお罪と死のからだを身体にまとっているのです2。聖霊によって自由にされること、罪の力からの解放、神への感謝の歌というこの三つは、キリストの霊によって保たれる終わりのない生命の力の一連の経験です。聖霊に導かれているなら、律法の下にはありません。律法に囚われた精神、律法が肉を通してもたらす弱さ、罪のとがめとそれに由来する絶望とは、聖霊の自由によって排除されるのです。

 聖霊の全き内住を得たいと思っている信者が学ぶ必要のある事柄が一つあるとすれば、それはこの箇所でパウロが特に力を込めて教えていること、すなわち私共が神に仕えるためには律法も肉も自己努力も全く役には立たないということです。キリストが私共を解放した自由へと私共を導くものは、外なる律法ではなく内なる聖霊です。『しゅみたまのある所には自由あり』(コリント後書三・十七)。


 愛するしゅなるイエス様、へりくだってあなたに願い求めます、聖霊の生命の隠された祝福をわたしに顕してください。律法に対して死ぬということがどういうことかをわたしに教えてください。それによって私共の神への奉仕がもはや古い律法の文字に従うのではなく、別の方、天に挙げられたもうたあなたご自身に私共が結合せられ、聖霊の新しさにおいて奉仕しつつ神のためにを結ぶことができるようにしてください。

 聖なるしゅよ、わたしは自分の生まれながらの罪を深い恥をもって告白します。『善なる者はわれすなはちわが肉にをらざる』こと(ロマ書七・十八)、『われは肉なる者にして罪の下にうられ』ていること(同十四)を告白します。『この死のからだよりわれを救はん者はたれぞや』(同二十四)との叫びにあなたが賜いました答えのゆえにあなたをほめたたえます。あなたはこのように答えるべきことをわたしに教えられました、『これわれらのしゅイエスキリストなるがゆゑに神に感謝す …… そはいかれいのりはイエスキリストによりて罪と死ののりよりわれゆるせばなり』と(七・二十五八・二)。

 むべき師よ、どうか今わたしに、新しい生命と自由をもって、聖霊にあるいつも新しい喜びをもってあなたに仕えることを学ばせてください。心に満ちる全き信仰をもって聖霊に自らをゆだねることを学ばせてください。そうしてわたしの生活が、神の子らの栄光ある自由のうちにいつもあるように、ちょうど救いぬしの中に父なる神が働いておられたのと同様に、わたしの内に働いて望みを起させ実現に至らしめる内住のしゅの力のうちにあるようにしてください。 アーメン


要  点

  1. 人が仕える支配者に二通り、すなわち神と罪とがある(ロマ書六・十五〜二十二)と知って、そのうちの神にのみ仕える、というだけでは十分ではありません。神を唯一の師として仕えるにしても、そこには二通りの方法、すなわち古い律法による方法と新しい霊による方法とがあるのです(同七・一〜六)。心がこの違いを理解し、前者がロマ書七・十四〜二十五に描かれているように危険でしかも無益であることを告白し、それを完全に放棄するまでは、人は霊の新しさと喜びにおいて仕えるということがどういうことかを完全に知ることはできません。肉に対する信頼に基づく古い生き方が滅びたあとにのみ、新しい生き方が生じるのです。
  2. 信仰問答では必ず問いに対して適切な答えが用意されています。しかし『あゝわれ困苦人なやめるひとなるかな この死のからだよりわれを救はん者はたれぞや』(ロマ書七・二十四)という問いには、それを繰り返し問いながら、勝利ある答えを見出せないでいる人々がたくさんおります。その答えはこれです、『これわれらのしゅイエスキリストなるがゆゑに神に感謝す …… そはいかれいのりはイエスキリストによりて罪と死ののりよりわれゆるせばなり』(同二十五八・二)。そして八・一〜十六にその詳しい説明があります。問いを出したなら答えも出しとうございます。
  3. 律法(法則;law)という言葉は二通りの意味で使われます。ひとつは、物事の内に働く内的な法則であり、自然界の万物はそれに従って動き、その法則の力を昔から表している、そういう法則です。もう一つは外部的な律法の意味であり、人は自発的には行わないようなことをもそれに従って行うように教えられます。外的な律法があるということは、そこには内から支配する法則が欠如しているということを意味しています。内から支配する法則があるならば外から律法を定める必要はありません。『爾曹なんぢらもしみたまに導かるゝときは律法おきてしたあらざるべし』(ガラテヤ五・十八)。このように内住の聖霊は律法から解放します。
  4. 聖潔の秘義全体は『われわが律法おきてをかれらのうちにおきその心の上にしるさん』(ヱレミヤ三十一・三十三)という新しく与えられた契約の中に含まれています。植物はいずれも、神がその内部に与えられた法則に従って自然に成長します。同じように信者も、この新しい契約をそのままに受けているなら、心に記された律法の力に従って歩みます。内なる聖霊は外なる律法から自由の身とするのです。
  5. われ新しき心を汝等なんぢらに賜ひ』(エゼキエル三十六・二十六)と『わがれいなんぢらのうちに置き』(同二十七)という二つの約束は、それぞれロマ書七章八章に対応しています。七章では神の律法を喜んでいますが、それを実行する力がありません。八章では救いを施す神の力である聖霊が内に働いて、志を立てて事を行なわしめたまいます。

  1. 本書二十三章も見よ。ギリシャ語ではこの十八節で使われている言葉(sarx)と二十三章で使われている言葉(sarkinos)の間に小さな違いがありますが、本文の妥当性に影響を与えるものではありません。(→ 本文に戻る
  2. 状態と経験との違いに注意してください。状態としては、信者は神に敵対する肉を身体にまとっているので(ロマ書六・六八・十三)、ロマ書七章の段階を超えることはできません。一方、経験においては、信者はそこにとどまる必要はありません。なぜなら聖霊の力が瞬間ごとに解放と勝利とをもたらすからです。(→ 本文に戻る


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