『若なんぢら我を愛するならば我誡を守れ われ父に求ん 父かならず別に慰る者を爾曹に賜て窮なく爾曹と偕に在しむべし 此は即ち眞理の靈なり』(ヨハネ十四・十五〜十七)
『神おのれに從ふ者に賜ふ所の聖靈』(使徒五・三十二)
これらの言葉が表現する真理はしばしば、ほんとうにそんなことが可能なのだろうかという疑問を呼び起します。私共は従う者になるために聖霊を要します。私共が聖霊の力を求めるのは、自分の内に見出す不従順を悔いて、そうではない生き方をしたいと望むからです。とするとこれは何を意味しているのでしょうか。救い主は御父が聖霊を与え私共がそれを受けるための条件として従順を要求していたもうのです。
この問題を解くためには、私共がいま持っているものはかつて私共が見ていた以上のものであることを思い起す必要があります。すなわち聖霊の顕現には、旧約聖書に対応するものと新約聖書に対応するものの二通りがあるのです。前者においては、聖霊は神がイエス・キリストの父としてご自身を顕わすための道を整える神の霊として働きたまいます。この仕方では、聖霊はキリストの弟子たちのうちに回心と信仰の霊として働きたまいました。彼らがいま受けようとしていたのは、それよりももっと高いものです。すなわち高き所から働く力とイエスによる完全な救いの経験とを分ち与える、栄光を受けられたイエスの霊でありました。現在、新約聖書の世にあるすべての信者にとっては彼らの内にある霊はキリストの霊ですが、しかしこれら二つの世に対応するものがなおともにあります。聖霊の働きに関する知識が十分でない場合、または教会なり個人なりにおける聖霊の働きがいまだ弱い場合には、その信者たちは聖霊が彼らの内に道を整える以上の高い経験を持つことができないでありましょう。キリストの霊が彼らの内にいたもうにしても、彼らはその霊を栄光を受けられた主の霊としての力のうちに知ることはないのです。霊は彼らを従順にするために彼らの内にとどまりたまいます。この聖霊の初歩的な働き、すなわちキリストの誡命のうちに保つという働きに対して彼らが従順になった時、その時に初めて彼らは聖霊が栄光のイエスをあらわすものとして内に宿りたもうことを自覚するというより高い経験へと入ることが可能になるのです。『若なんぢら我を愛するならば我誡を守れ われ父に求ん 父かならず別に慰る者を爾曹に賜て』と。
これは私共が最も注意して学ばなければならない学課です。天国では、また天使たちの間では、また神のひとり子の御前では、神の存在との関係を保ち、その愛と生命を親しく経験することを許されるために必要なことは、従順であり、かつ従順だけなのです。私共に示されている神の意志は神の見えない完全性と実在との現れです。この神の意志を受け入れて実行すること、すなわち私共自身の意志を神が所有して神に喜ばれるように使っていただくべく完全に献げることによってのみ、私共は神の臨在の内に入るに相応しいものとなるのです。神の御子においてもそうであったのではないでしょうか。御子は聖なる謙遜と従順のうちに三十年を過ごされた後に、彼は『すべての義き事は我儕盡す可なり』(マタイ三・十五)との完全な献身の言葉を述べられ、彼に属する人々の罪のためのバプテスマにご自身をゆだねられました。その結果、彼は聖霊のバプテスマを受けたのです。聖霊は彼の従順のゆえに参りました。その後、彼は再び受難のうちに従順を学びたまい、十字架の死に至るまで服従し、その後で彼の弟子たちの上に注ぐために御父から改めて霊を受けられたのです(使徒二・三十三)。彼のからだである教会が聖霊によって満たされることは従順の報酬なのです。この聖霊来臨の法則は、教会のかしらなる主に現れているのと同じように、その一人ひとりの肢にも当てはまります。従順は聖霊の内住のためのなくてはならない条件です。『若なんぢら我を愛するならば我誡を守れ …… 父かならず靈を爾曹に賜て』。
キリスト・イエスは聖霊の来られる道を準備するために来られました。あるいはむしろ、彼が肉のからだで外的に来臨されたのは、神の内住の約束を果すために彼が聖霊として内的に来臨するための準備であったと言うこともできます。外的な来臨は、精神と感情を持つ心に対して現れることであり、心に働きかけるものでした。外的に来臨されたキリストを受け入れ、愛し、服従する時にのみ、内的な、より親密な顕現が与えられます。イエスを個人的に慕いまつること、すなわち彼を愛と服従の対象たる主また師として個人的に受け入れることは、弟子たちが聖霊のバプテスマを受けるための準備でした。今日でも、良心の声に心から聞き従い、イエスのいましめを守ろうと誠実に努めることが、私共のイエスに対する愛を実証するのであり、私共の心が聖霊で満たされるための準備をするのです。私共の達成は期する所には及ばないかも知れませんし、しようとしたことをしていないということを認めざるを得ないかも知れません。しかしもし主がその御意志に対する心からの献身を認め、私共が既に得ている聖霊の導きに対する誠実な服従を目にするなら、完全な賜物を与えてくださらないはずはないと私共は確信することができます。
これらのことから、聖霊の臨在と力とが教会においてなぜほとんど実感されないのかには、大きな理由が二つあることが分かると思います。私共は愛の服従が聖霊の満たしに先立たなければならないことを知っていながら、聖霊の満たしがやってくるのを待たなければならないということを理解しません。服従する前に聖霊の満たしが来ることを望むのは誤りですが、それと同様に、服従が聖霊の満たしが与えられていることのしるしであるかのように考えることも誤りなのです。
服従は聖霊のバプテスマに先立たねばなりません。洗礼者ヨハネはイエスを真のバプテスマを授ける者、聖霊と火によるバプテスマを授ける者として宣教していました。イエスは彼の弟子たちを、このバプテスマにあずかる候補者として三年間の訓練に導きました。まず初めにイエスは彼らがご自身に個人的につながるようにさせました。イエスのためにすべてを捨てるように彼らに教えたまいました。彼はご自身を彼らの師また主と呼び、彼の命ずるところを行なうように教えたまいました。後にイエスはその告別説教の中で、彼のいましめに服従することがすべてのさらに進んだ霊的祝福を受けるためのただ一つの条件であることを、繰り返し告げたまいました。教会はこの服従という言葉に、キリストが与えたもうたような優越した地位を与えていないのではないでしょうか。そのようになる原因は、自己の義ということの危険性に対する不十分な理解と、無償で与えられる恵みが高調されるべきであることを正しく認識できていないことにあります。それは罪の力であり、聖潔の高い標準を受け入れることに対して肉が抱く自然な拒否感情でもあります。無償の恵みと単純な信仰が説教される場合でも、服従と聖潔との絶対的な必要性が同じように強調されることはありませんでした。聖霊に満たされた者だけが服従することができると広く信じられていたのです。服従が最初のステップであることを私共は確認しなければなりません。そして聖霊のバプテスマ、すなわち栄光を受けられたキリストを、私共の内にまた私共を通して神の力あるみわざをなす内住の主として完全に啓示することは、神の裁量の内にあることであって、キリストの臨在は服従する者だけに与えられるということを確認しなければなりません。一つひとつの良心の命令と聖書の教えとに素直にかつ完全に従うこと、言い換えれば『凡の事主を悅ばせんが爲その意に循ひて日を送』ること(コロサイ一・十)は、内心における主の絶えざる臨在を保証する聖霊にある完全な生涯に入るための通行証のようなものなのですが、このことが理解されていませんでした。
このことが理解されない当然の結果として、それに相伴うもう一つの真理も忘れ去られました。それは、服従する者は聖霊の満たしを求めなければならないし、また求めることが許されているということです。現実として意識に認られる、活力ある聖霊の内住の約束が、服従する者にこそ与えられているという事実を多くのキリスト者は知らないままでいます。多くのキリスト者は自分に服従が不足していることを嘆いたり、聖霊の力が不足していることを嘆いたり、また聖霊が服従を助けてくださるように祈る祈りが不足していることを嘆くことにばかり時間を消費していますが、真になすべきことは、私共の内に既に与えられている聖霊の力によって服従に進むことであります。実際そうすることは可能であり必要でもあるのです。事実は、聖霊はすでに服従する者に与えられているのであり、それは聖霊がその人々のうちに偉大なみわざをなすため、それこそ御父が聖霊を通して働かれたようなみわざをなすために、イエスの臨在を永久的な実在としてその人々に与えたということであるのですが、その事実に彼らはなかなか思い至りません。イエスの生涯は私共にとっての実例であるということの真の意味をなかなか悟りません。イエスが試練と服従との目に見える卑賤な生涯を送られたのは、力と栄光との目に見えない霊的生涯を準備するためであったということは明瞭なことなのではないでしょうか。この霊的生涯こそ、私共が栄光を受けられたイエスの霊の賜物としてそれに参与するようにさせられたところのものなのです。ただ、その賜物に内面的に個人的にあずかるためには、私共はイエスが私共のために備えられた道を歩まねばなりません。私共は肉を十字架につけることによって自分自身を神の御意志にゆだねるのです。それは神がその望むところを私共の内になしてくださるようにであるとともに、また私共が神の望まれるところをなすことができるようにでもあります。そうすれば私共は神はその意志のうちにこそ見出されるべき方であるということを経験するようになります。キリストにある神の意志を、キリストがそれを実行された時と同じ心をもって私共が受け入れて実行する時に、その意志が聖霊のとどまる家となります。御子にあらわれているその完全な従順こそ、聖霊を受けるための条件でした。この御子を愛と服従のうちに受け入れることが聖霊の内住への道であります。
この真理は、完全な明け渡しと全ききよめという言葉で描写されるもので、近年何人もの人々の心に住むべく、力をもって帰って参りました。その人々は、主なるイエスが絶対的な服従を求めたもうたこと、主とその意志にすべてを献げることが絶対的に必要であること、またそうすることは主の恵みの力ゆえにほんとうに可能であることを、理解するに至りました。また主の力を信ずる信仰によって彼らは実際にそれをなすに至りました。そうした時に、彼らはそれまで知られていなかった平和と強さの生涯に入る入口を見出したのです。この学課を多くの人々はまだ自分が完全には学んでいないことを認めつつありますし、認めねばなりません。この原理の適用範囲は私共の認識を超えていることを知らねばなりません。私共が既に所有している聖霊のすべてを覆う力によって私共の生活の一挙手一投足がみなイエスに対する忠誠を示すものとならなければならないことを知り、また信仰によってその力に自分自身を明け渡す時に、栄光の主の霊が、私共の求めまた思い描くことのできる範囲をはるかに超えて、私共のうちにまた私共を通してその臨在をあらわし、その力あるみわざをなしてくださるということを私共は知るようになります。聖霊の内住が教会に与えられること、私共が既に知っているよりもはるかに豊かにもたらされることは、神とキリストの御心です。いかなる物事をもイエスのために犠牲にする愛と服従のうちに自分自身を明け渡そうではありませんか、そしてイエスが私共のために用意されている祝福の満たしを受け入れられるように心を広くしていただきましょう。
私共は神の教会と神につける人々とがこれまで述べてきた二重の真理を身に着けることができるよう、神が彼らを呼び醒ましてくださることを心から真剣に叫び求めねばなりません。一つは内住の全き経験のためには生ける服従が不可欠であること、もう一つは愛のある服従は内住の全き経験を正当に要求することができること、この二つです。今すぐにでも一人ひとりが主に申し上げましょう、私共は主を愛しており、主のおきてを守ることを切望していることを。いかに弱々しく、言葉にならない声であっても、それを私共の心の決意としてなお主に申し上げなさい。主はそれを受け入れたまいます。私共が信仰による服従のうちに自分自身を主に明け渡す時、聖霊の内住を既に私共に与えられているものとして信じましょう。全き内住が、その内に顕されるキリストとともに私共のものとなることができると信じましょう。神の霊が私共のうちに住んでいるのであるからには私共は生ける神の宮です。このことの自覚、愛のある敬虔な自覚、畏れを伴いながらも幸いな自覚以下のもので、私共は満足すべきではありません。
さいわいなる主イエス様、わたしはここに述べられたあなたの教えを心全体をもって受け入れます。そしてこの真理を御国の法の一つとしてわたしの心深くに刻みつけてくださることを、心よりあなたに願い求めます。愛のある服従は、愛をもって受け入れられること、聖霊の力のいやまさる経験によって印せられることを期待することができるという真理をです。
あなたの御弟子たちの愛と服従がいかなるものであったかをあなたはみことばを通して教えたまいました。このことを感謝します。彼らの愛と服従がたとえ不完全なものであったとしても──彼らは皆あなたを見捨てたのでした──あなたは愛の衣をもって彼らの欠けを蔽いたまい、『心神は願なれど肉體よわき也』とおっしゃって、弱いままに彼らを受け入れたまいました。救い主よ、わたしは心を尽してあなたを愛し、あたたの戒めの一つひとつを守りたいと願っていますことをあなたに申し上げます。
そのためにわたしは今新しく自らをあなたに委ねます。あなたはわたしの霊の奥底に、みこころの天に行なわれるごとく地にも成させたまえというただ一つの願いを見られます。
すべての良心のとがめにわたしはうち伏してそれを受け入れます。あなたの霊によるすべての指導に、わたしは無条件に服従いたします。わたしの意志と生命をあなたの死にゆだねます。それによってあなたとともに挙げられ、別の生命、わたしのうちに住んであなたをあらわす聖霊の生命が、わたしの生命となるようにです。 アーメン
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