補註2  人格(顔)としての聖霊

第五章



 聖霊が我々の内に住まわれる場所と我々の内でなされる働きについて理解しようとするなら、我々は聖霊が神の中で住まわれる場所と神の中でなされる働きについて知らなければならない。聖霊は我々を神的生命と本性とに参与する者となすべく与えられているのであって、それは聖霊が父なる神と子なる神において存在し働いているのと同じように我々において存在し、同じ働きをなすということなのである。三位一体における父と子との霊としての聖霊について思いをめぐらすこと、地上を歩まれた人としてのキリスト・イエスにおいて聖霊がどのような存在であり何をなしたもうたかについて黙想すること、栄光を受けられたしゅイエスに対して聖霊がもつ特別の関係について観想すること、それは聖霊が我々にとって何者であるかという実践的な問いと無関係ではない。むしろそうすることは、父と子とが共有する賜物であるところの父と子との人格的生命の霊という驚くべき栄光と神秘が、また私共の人格的生命の霊となるという真理を我々が理解することを大いに助けるのである。聖書の中で神が啓示しておられることを理解するためには、最も深く聖書的かつ霊的な神学者であるベック(J. T. Beck)の著書『キリスト教信仰についての講義(Vorlesungen über christliche Glaubenslehre)』からの以下に挙げる引用が参考になるであろう。「神の霊がわたしのうちに住んでおられる」ということを悟り、神が神性、すなわち神的人格を、自分の生命として自分に与えられているということを知るのは、信者にとって確かに一つの祝福である。しかし、いまやその人自身の人格的生命となったそのものが、実は父と子との人格的生命であるところの聖霊ご自身であったと知るようになる時、その祝福はその人にとって千倍も驚くべきものとなるのである。

 「キリスト教における啓示は、自然における啓示のように、神の存在をあかしする個別の証拠としてのみ現れるわけではない。また旧約聖書における啓示のように特殊な律法の体系や観念的な約束という形でのみ現れるのでもない。むしろ生命を与える聖霊の新しい生命の体系として現れるのである。キリスト教は、超自然的なもの、すなわち神性とは、地上の存在としての我々人間に与えられる霊と生命にほかならないことを開示する。このことを踏まえると、神性は旧約時代の形態とは異なった方法で媒介されねばならないことになる。神性が啓示されるためにはより高い媒介者を必要とする。もし神性が実際に人間個人の中に送り届けられる力ある実体的な人格的生であるとすれば、そのような伝達を行うのに適した媒介者は、その啓示ないし神的形成原理が人間存在の中でそれ自体が人格となるような、そのような存在でなければならない。言い換えれば、神性は、一部の人にはいかなる力によってであれ意識という経路を通して自分をあらわすことができるかも知れないが、それだけでは不十分なのだ。それは、神性が霊感によって、または聖霊が預言を通して、理性的生活に影響を与えてそれを高める力を及ぼすだけでは不十分であるのと同様である。意識や霊感は、啓示──完全であるべき啓示──の手段としては十分でないのである。必要なものは媒介者──神がそれによって、人間個人に人格的に適用される原理として神ご自身の固有の霊と生命とを注ぎ込むことができるような、そういう媒介者なのである。啓示においては、神性が実際に個人の人格的性格の中に移されるのであるから、すなわち神の人が形づくられるのであるから、神性はまた人格的生命として、人間性のうちにある人格にまず実体化されなければならないのである。

 「このことは以下のことを意味する。何か新しいもの、いまだかつてその固有性において存在したことがないようなものが現れるところでは、新しい型の生命は、それが多くの実例の中に反映されるより以前に、必ずまず完全な一体性の中に、適切な新しい原理の中にそのすべての要素が結び付けられなければならない。またそれゆえに、人間のうちに神性が人格として形造られるために第一に必要であったのは、神的生命の原理が人格となったひとりの人であった。キリスト教は、啓示のすべての恵みをイエス・キリストという一人の人格に集約する。彼こそはその媒介者である。すなわち聖霊と生命の満たしのうちに新しい神的有機体を創り出す中心原理を、人間の人格的生のうちに、また人格的生のために、もたらす媒介者なのである。キリストが人間個人の中に入ることによって心的生活は我々に内在的なものとなる。それは、単に普遍的な世界の構造としてそうなるというのではなく、人格的原理としてそうなるのであり、それによって人間は単なる神の被造物(poiema theou)でなく神から生まれたもの(teknon theou)となるためなのである。個人がキリストの生の型に変えられていくにしたがって、神から出て神に在り神に向かう人格的生の成長が完成されていく。それは単に道徳的な、あるいは神の支配を受けることによる交わりの成長という意味ではなく、本性そのものの交わりにおける成長なのである。人類の堕落によって神性と人間本性の間が引き裂かれ、この分離が疎外と敵意とを生み出すに至った。人間は神を知らない人格となった。この過程と反対に、キリストの神−人としての人格は、目に見えない神を人間の形であらわすことによって、神性と人性とを和解させて一つにしたのである。

 「聖霊に関していえば、聖霊について聖霊は神であるとか、聖霊はしゅであるとかいうようには決して言われない。むしろ反対に、神は霊である、主は聖霊である、「生命いのちあたふるれいとなる」(コリント前書十五・四十五など)と言われている。すなわち神と主がそれぞれその人格である、つまり神(Theos)であり主(Kyrios)であるのは、聖霊を通してそうなっているのである。しかしこのことは、聖霊は固有の実在性を有しないただ神的存在の属性であるということではない1。聖霊は父と子とは別個の人格であるが、父と子のうちにあって神的人格を自ら形づくるのである。聖霊は神から出て世界と人間の中に神の独立した啓示をもたらす。それは一方では唯一神の隠された深みにまで根ざしており、他方では人間の側において神の生そのものを内的に分与し、それによって神の子の生を生み出すに至るのである。父なる神の神的人格は一つですべてを包含する神的な中心主体であって、その中で子と聖霊とは存在の単一性にありながら固有の自立した実在性を保っている。子なる神は父なる神の人に語りかける自己として啓示され、そのかたちにあらわれたものとして神はご自身をあらわすのである。聖霊は父と子との内的自己として啓示され、その中で神の内的生は神の人格存在の力によって自己を保持し、また分与する。このように聖霊は神の内的生を担うものであるから、聖霊は外に向けて自分をあらわすことをしない──すなわち子のような人としての外見を持たない。子なる神にあってはその外面的な存在のうちに父なる神が外的に開示(原語ではphanerosis)される(ヨハネ十四・十九十二・四十五)。ちょうどそのように聖霊にあっては、父と子との内的存在が内的生命に与えられる。それは完遂されたphanerosis、すなわち我々に開示された神が、我々の内における神の黙示(原語ではapocalypsis)となるためなのである。

 「世と罪のなわめから人間本性が救済されるために、人間本性が本来定められていた超自然的な世界の中に再生するために必要とされることは、このような神的生との結合である。すなわち神的生は、ただ律法や希望として、あるいはただ意志や願望の規範すなわち一つの理想としてのみ啓示されるのでなく、人格的生の現実の必要を実際に満たすものとなるべきであり、つまり神的生が現実の人格的生となるべきなのである。神性は、その本性から来る絶対的価値を有するのであるから、ただ単に我々の個人的な思考や意志や行為の中に一要因として場所を占めるというだけでは十分ではない。ただ単に、我々の心に触れ興味を引くいろいろな事物の一つとして、神性もまた我々の思考と行為の中に場所を占めて、我々はそこから何か人生に望ましい結果を得ることを期待している、というだけでは全く不十分である。これは一見、謙虚で真摯な態度のように見えても、神性を世界の中のさまざまな客体と同一線上にまで引き下げるものである。たとえ神性がすべての客体の中で最も高く価値あるものであると言われるにしても、それでは神性と世のものとの間になんら実質的な区別が付けられていない。神性がしかるべき真の認知を得るのは、それが本来のあり方、すなわち絶対的な世界−原理として受け入れられ、我々の人格的成長における絶対的な生命−原理となる時であり、その場合に限るのである。しかし神性は、世の力によって罪と死とに定められた我々個人に対して何の創造的な力をも発揮しないことがある。このような状況にあって神性を我々の中で人格となすことは、我々自身の霊的力や理性にできることではない。我々に必要なことは新しい本性が形づくられることであり、そして新たに形づくられることは創造者のみわざ──世界を秩序づける神的原理の働きなのである。啓示はここにおいてその完成を見る。すなわち神性が生ける創造的な霊、「生命いのちあたふるれい」(コリント前書十五・四十五)として現れることにおいてである。その結果、聖霊は生産的な生命−原理として、あるいは人格的生の力として、人間の倫理的生活のうちに内在することができるようになる。そこから始まって絶えざる成長により、神性は個人のうちにその人格的生として再生産されるのである。そして神は、その絶対者という観念に相応しく、人間のうちですべてを決定する生命−原理となる──啓示がその最終的な完成を見るのはここにおいてなのである。

 「聖霊が父と子とに固有の内在的な霊として神から出て新しい働きを始めるためには、キリストが人格となった神の言葉として、肉体を持つ最初の神の子として、その特別のあかしととりなしのわざを完成させる必要があった。そうして聖霊は神的な人格的生の原理として、人格形成の原理としてその生命を生み出す働きを開始したのである。神性から流れ出る神的な人格の霊であり、人格を取られた聖言みことばでもある聖霊はいまや、神の国の秘義を把握する霊感の最高原理となり、新しい型の人間──ひとり子の像である人間の、人格的生の至高の形成原理となるのである。

 「キリストの人格の基礎は聖霊の個体化にある。それは最初の創造においても同様であった。すなわち神が人間に生命の霊を吹き込んだ時、人間は生ける魂、すなわち人格となったのである。そのように第二の創造、すなわち新生の場合も、神が聖霊を人間に、人間の意識と行為との中に分与されることによって、一人の新しい人格──神に似たものとされた新しい人格が存在を与えられるのである。」

 ドーナー博士(Dr. Dorner)はその著書『キリスト教教理体系(System of Christian Doctrine)』の中で、キリストによる神の啓示と聖霊による神の啓示との間の違いについて次のように書いている。

 「品性においてキリストのようになるということは、決して人格を否定することでも抑圧することでもなく、むしろ人格を新たに生み出すことである。キリストは、彼につく者たちが信仰によって引き寄せられる豊かな霊的生命がキリストご自身の内に存在するというだけでは満足しない。信者たち自身が自由な人格として生き、愛するべきなのである。キリストによる贖罪の目的には、聖霊による新しい人格の創造、その中でキリストが確固とした存在としての立場を得る人格の創造ということが含まれるのである。この創造によって神は信者たちの中に新しい仕方で存在するようになる。それは、キリストの内なる神の存在が贖罪の力であるからというだけでなく、キリストがこの新しい生命の原理であり続けるものの、その生命は自由のうちにキリストとは別個のものとして自分自身を形成するという意味において新しいのである。このような自由を根拠として、キリストと人間との間の結合は双方向的なものとなり、それだけより強固なもの──相互的な愛の関係になることができるのである。同時に、聖霊の豊かな光と生、恩寵と真理は、客体的なものとしてキリストの内に宿っているものであるが、それはいまや世界にとって単に客体的なものではなくなり、救済の生ける富として世界の中に生き、自らを展開するようになるのである。キリストによって与えられた駆動力が単に人間のうちに継続し拡張するというだけでなく、それが人間自身の固有の駆動力となり、肉体に宿る神の力の新たな拠点を形成する、そういうことが聖霊を通して起るのである。新しい神的原理として、聖霊は新しい意志と知識と感情とを創造する。それらは能力としては実体的に新しいわけではないが、新しい意識となる。要するに聖霊は新しい人格を創造するのである。それらの能力の古い結び付きを無効化して新しい純粋な結び付きを生成させる。新しい人格は、第二のアダムと内的に似たものとして形成されるのであって、言わばそれは同一の家族関係のうちに形成されるのである。その新しい人格が独立の存在として帯びているすべての特徴は、聖書では聖霊という第三の神的原理にせられるものとされている。聖霊は信者に、神において自由とされた聖なる生命の力と感化とのうちにある新しい人間として自己自身を意識させる。聖霊は喜びと自由の霊なのであって、書かれた律法の文字とは反対の性質を持っている。その神的感化に従うことは、単に受け取るばかりであった受動性を、自発性、生産性、独立性へと変える。聖霊は個人の人格を完成された霊的人格へと昇華させる。こうした方法すべてを使って聖霊はひとつの相対的な独立性のたねを蒔き、養い育てる。それは、教会ができた初めから神が定めていたこと、すなわち新しい信仰する人格のことである。」

 神の霊は神的人格の霊であってわれわれの人格の生命−原理となるというこの思想は、極めて重要であり無限の実りをもたらすものである。聖霊はわたしのうちに孤立的に住んでいるのではなく、わたしが自己として意識できる内的自我の中にだけとどまっているのでもない。聖霊は新しい人格を生み出す神性による新しい生命−原理となるのである。キリストの内にかつてあり今もとどまっている同じ聖霊、キリストの内奥の自己自身であるところのものが、わたしの内奥の自己自身となるのである。この思想は『しゅあふものは一靈ひとつのれいとなるなり』(コリント前書六・十七)という言葉に新しい意味を与える。また『神のみたまなんぢらのうちいますをしらざる』(同三・十六)との呼びかけに説得力を与える。聖霊はわたしのうちに人格的な力としてとどまっておられるが、それは聖霊ご自身の意志と目的を伴うことなのである。この聖霊の意志と目的にわたしが自分の人格を明け渡しても、わたしは人格を失うことにはならず、新しくされてそれが持ちうる最高の力にまで強められた人格をそこに見出すであろう。我々は以前は肉が掌握していたところを、今は聖霊が完全に掌握しているさまを見る。以前は我々は自分が自由であると思っていたが、実際は奴隷であった。今は聖霊はわたしのうちにご自身の意志と目的を策定し、わたしがそれを実行するように教え導き、それによってわたしを自由にするのである。


  1. 『キリスト教信仰入門(Leitfaden der christliche Glaubenslehre)』229ページを見よ。「聖霊は我々のような単なる存在、神に属する存在なのではない。というのは、神は霊であるとかしゅは霊であると言われているからである。それは、神が神としての人格を得ているのはただ聖霊を通してであるという意味である。聖霊は単に我々と同じように父なる神と子なる神とに属する、その中にある存在なのではない。むしろ父と子が聖霊によって神として現れるような、そういう存在なのである。聖霊は父と子とにおける神としての人格なのである。それゆえに聖霊はきよいものであると同時にきよめる者であり、力であると同時に力を与える者でもあるのだ。聖霊によって、父と子との固有の人格的存在が人間のうちに孕まれる。聖霊においてのみ、神の人格的生命が中心に置かれている。したがって聖霊は非人格的な存在ではあり得ない。」→ 本文に戻る


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