『ペンテコステの日に至て …… 彼等はみな聖靈に滿され其聖靈の言しむるに從ひて 言はじめたり』(使徒二・一、四)
聖霊の傾注において、キリストの働きは絶頂に達します。ベツレヘムにおける受肉の神秘、カルバリに実現された大いなる贖罪、復活によってあらわされた永遠の生命の力の中にある神の子キリスト、キリストが昇天によって入られた栄光、これらはみな準備に過ぎません。これらの出来事の目的と栄光は聖霊の降臨にありました。ペンテコステはキリスト者にとっての最後で最大の祭礼であり、他のすべての祭礼はここに実現と成就とを見ることになります。聖霊が教会の中で御子をあらわし、御子がそこで本来もつべき栄光を帰することがまだできていないとすると、それは教会がこのことを認識できていないためです。ペンテコステの栄光が御父と御子との最高の栄光であることを知らないためです。私共はペンテコステの真の意味を理解しているでしょうか。
神は、人が神ご自身と似た者になるようにとの明確な目的を持って、神ご自身のもつイメージに従って人を創造されました。人は神が住む宮となるはずでした。人は神がそこで休むことのできる家庭となるはずでした。最も近く親密な交わり、すなわち愛による内住こそ、聖なる方が望み期待したことでした。イスラエルの人々の神殿という未熟な型として予表されていたことが、ナザレのイエスにおいて神的実在となりました。神はそこに自分がとどまることのできる人物、その全存在が神の意志の支配と神の愛の交わりとに対して開かれている人物をついに見出したまいました。イエスには神の霊によって占有された人間本性がありました。そしてこれこそ神がすべての人に望んでおられたものでした。またイエスとその霊とを自分の生命として受ける人はみなそうなるはずでありました。イエスの死は、罪の詛いと力とを取り去り、人々が彼の霊を受けることができるようになるためでした。イエスの復活は、人間本性が肉のすべての弱さから自由になって、神の地位にある生涯、神の霊による生涯に入ることでした。イエスの昇天は、人として神の栄光のうちに入ることであり、聖霊との結合によって人間本性のままで栄光の神との完全な交わりにあずかることでした。しかしこれらすべてが実現したにもかかわらず、みわざはまだ完結していません。最も重要なことがまだ欠けているのです。いかにして父なる神は、キリストの内に住まわれたのと全く同様に人間の内に住むことができるのでしょうか。これがペンテコステが答えるはずの最大の問題でした。
聖霊は、神性の深みから、それ以前には聖霊が持ったことのない新しい性質と新しい力の中へと送り出されました。創造と生成の時にあっては、聖霊は神から出た生命の霊として現れました。特に人間の創造にあたっては、人間が持つ神性を基礎づける力として聖霊は働きました。人間が堕落した後もなお聖霊は神のためにあかしする者であり続けました。イスラエルの中にあっては聖霊は神の祭事を司る霊として現れ、その働きのために或る特定の人々に明確な霊感を与え、能力を授けました。イエス・キリストにあっては聖霊は、イエスに際限なく与えられてイエスにとどまる父なる神の霊として現れました。これらはみな、程度の違いはありますが、一つの同じ霊の現れでありました。しかし今や最後の、久しく約束されていた、全く新しい神の霊の出現が実現します。イエス・キリストの内に住まわれていた聖霊、イエスの服従の生涯を通してイエスの人間としての霊を聖霊ご自身との完全な交わりと一致との中に引き上げたもうた聖霊が、今や天に挙げられたもうた神−人の霊となりたまいます。キリスト・イエスは人間として神の栄光のうちに入りたまい、神が住みたもう霊の生命という完全な地位を受けたまいます。イエスは父からご自分の霊をご自分の弟子たちに注ぐ権利をお受けになられます。すなわち聖霊を通してイエスご自身が降り、弟子たちのうちに住むという権利です。聖霊は、イエスが十字架につけられて栄光を受けられる以前には不可能であった新しい権限において来られます。すなわち聖霊は栄光を受けられたイエスの霊として来られるのです。御子の働きと父なる神の願いとはここにまったき成就を見ます。今や人間の心は確かに神の家であるのです。
わたしはペンテコステが教会の祭礼の中で最大のものであると言わなかったでしょうか。ベツレヘムにおける受肉の秘義は確かに理解を超えた栄光あることです。しかしひとたび信じるなら、不可能で予期不能に見えるようなものは何もありません。聖霊の力によって一つのきよい聖なる肉体が用意されて神の子に与えられること、その肉体に聖霊ご自身が宿りたもうことは、確かに神の力の奇跡です。しかし、その同じ聖霊がいま罪深い人間の肉体に来りて住みたもうということ、さらに人間の内に父なる神がその住まいを定めたもうということ、これはあらゆる理解を超えた奇跡の恵みです。神に栄光あれ、これこそペンテコステがもたらし、そして受ける祝福なのです。神の御子がベツレヘムで人の肉体の形を取られたこと、私共の身代わりに罪の詛いと死を受けたもうたこと、人間の本性を持ったまま死者の中から最初に生まれた者として永遠の生命の力のうちに入られたこと、そして父なる神の栄光そのものの中に入られたこと、これらはみな準備段階に過ぎませんでした。他のすべてのことがそのために成し遂げられてきた、その最終段階が今ここにあります。『神の幕屋人の間にあり 神人と共に住 ……』(黙示録二十一・三)。いまこの言葉が成就しようとしています1。
この聖霊の傾注という物語を理解するためには、ペンテコステに先立つ出来事すべてがもたらす光のもとに見る必要があります。すなわちかの偉大な犠牲についてです。神はご自身が罪深い人間の内に住むことができるようになるためには、この犠牲でも大きすぎるとは思いたまいませんでした。聖霊の傾注は、キリストが天に挙げられたもうたことの地上における反映であり、キリストがいま父のもとで持っておられる栄光にその友なる人々を参与させることです。完全な理解のためには霊的な啓示の光が必要です。この短く語られている物語は、神の国の最深の秘義の開示であるとともに、主が再臨される時まで教会に与えられている聖なる遺産の保証書でもあります。ここで強調すべき三つのことがあります。それは、この聖霊とは、1.信者と教会とにとって何であるべきなのか、また2.みことばの伝道者とその働きにとって何であるべきなのか、そして3.不信仰の世にとっては何であるはずなのか、この三点です。
1.キリストは弟子たちに、やがてキリストご自身が慰め主として彼らのところに戻って来るであろうと約束したまいました。キリストの地上における生涯の間は、その目に見える人格的な臨在は、目に見えない父なる神を啓示するものとして父が人間に与えたもうた大いなる賜物でした。この賜物こそ、弟子たちが望み必要としていたただ一つのものでした。この賜物は今や以前よりも大きな力によって彼らに与えられるはずでした。キリストが栄光に入られたのはまさにこの目的のため、つまり『彼よろづの物に滿んとす』(エペソ四・十)ということが今、神の道によって成就するためでした。とりわけキリストの肢体である人々をキリストご自身とその栄光の生命によって満たすためでした。聖霊が降った時に、聖霊は彼らの中に一つの人格的な生命を与えたまいました。それは以前にも彼らの近くにありましたが、なお彼らの生まれつきの生命の外側にありました。神のひとり子の霊が、この地上に生き、愛し、従い、死に、天に挙げられ、そして全能の力により栄光を受けたもうたことにより、いま弟子たちの人格的な生命となるはずでした。彼らの友であり主である方を天の玉座に据えるという驚くべき裁定が天において行なわれました。聖霊が来られたのはこのことをあかしするためであり、またこのことを天的な現実として弟子たちのうちに分け与え、共有するためでした。その聖霊が父のもとから栄光を受けられた御子を通して来られたのですから、弟子たちの本性全体がイエスの臨在によって満たされて天的な喜びと力とがそこから溢れ出すようになったのは異とするに足りません。彼らの口から神の不思議なるみわざにたいする讃美が流れ出るようになったのはまったく不思議ではありません。
キリストの教会の誕生はこのようにして起りました。教会の成長と強化もこのようにして進むはずでした。ペンテコステ的な教会が真に継承されていくための第一の不可欠な要件は、教会員が聖霊と火によるバプテスマを受けているということです。それは、栄光の主の臨在の体験によって満たされている心をもっていることであり、神がイエスをその御座の栄光にまで挙げ、そしてその後に弟子たちにも同じ栄光を注がれたという驚くべきみわざを、ことばと生活によってあかしするということでであります。説教者のために与えられるような力のバプテスマを私共が必ずしも必要としているわけではありません。私共が求めなければならないのは、キリストのからだを構成するすべての人々が、内住のキリストの臨在を聖霊によって知り、所有し、あかしできるようになることです。このことがイエスの力に対して世の関心を惹き、世に認めさせることになるのです。
2.喜びと讃美に溢れた信者たちが集まる光景は多くの人々の関心を惹き、何が起きているのかを知りたいという欲求を呼び起しました。ペテロが立って説教を始めたのはこのような関心の高まりの中ででした。ペンテコステの物語は、伝道者が立つべき真の位置と力の秘訣とについて私共に教えます。聖霊に満たされた教会こそが、無関心な人々を呼び醒まし、すべての正直で熱心な心を引き寄せる神の力なのです。説教が力をもって届くのは、信者のあかしによって呼びさまされたこのような聴衆に対してなのです。聖霊に満たされた男女から成るこのような教会から、聖霊に導かれた大胆で自由な説教者が起されるのです。それは、信者一人ひとりをその説教が真理であることの証人として、また彼らの主の力のあかしとして指し示すことができるからです。
ペテロの説教は、聖霊の説教がすべてどのようなものであるはずなのかを教える最も注目すべき教材であります。彼はキリストを聖書から説教いたします。彼はキリストを拒んだ人間の思いとの対照において、キリストを送り出し、キリストを喜び、ついにその右にキリストを挙げたもうた神の思いを宣べ伝えます。聖霊の力による説教というものはみな同じことをします。聖霊はキリストの霊であり、キリストの人格的生の霊であって、私共の人格を領有し、私共の霊とともに立ってキリストが私共のために勝ち取られたものが何であるかを証言します。聖霊はキリストが地上で始められた働きを継続するという目的のために来られました。それは人々をキリストの贖いとキリストの生涯にあずかる者となすことでした。それ以外ではあり得ませんでした。聖霊はいつでもキリストをあかしいたします。聖書においてあかししましたように、信者たちを通してあかしをなしたまいます。信者たちのあかしも必ず聖書に従ったものであるはずです。キリストにある霊、聖書にある霊、教会にある霊、この三根の縄が織り合わされている限り、それは毀たれることがありません(傳四・十二)。
3.この説教が及ぼした効果は驚くべきものでしたが、それは期待されたところでもありました。イエスの臨在と力とは弟子たちの間では現実でした。上からの力、御座から来る力がペテロを満たしていました。神の右に挙げられたもうたキリストを見る彼の目とキリストの経験とが霊的現実であったために、力が彼から現れました。『爾曹が十字架に釘し此イエスを立て神これを主となしキリストとなし給しことを確に知』(使徒二・三十六)と、彼の説教がその実践面に及びました時、何千人もの人々が砕かれた心をもってひざをかがめ、十字架につけられた者を自分の主と認めようといたしました。聖霊は弟子たちに来り、彼らを通して不信仰な聴衆の心に罪を認めさせました。罪を悟った人々はペテロに尋ねて、悔い改めて信じなさいという命令を聞いてそれに従い、そして聖霊の賜物を受けました。キリストは弟子たちに彼らがもっと大きな働きをなすと約束したまいましたが、それをキリストは果したまいました。生涯つきまとっていた偏見と憎悪とが一瞬にして献身と愛と讃美とに取って代わられました。栄光の主から出た力がペテロを満たし、さらにペテロから出て勝利と救いとももたらしたのです。
ペンテコステは待たれていた日の輝かしい夜明けであり、また預言者たちと私共の主がたびたび語られた来るべき日々の最初の日であって、教会の歴史がそこに進むべきことを約束され保証されていたところの日です。教会がその進むべき道を誤ったこと、そのために十八世紀を経た今もなおその栄光ある特権の高みにまで到達していない事実はあまねく認められます。教会は、その召命を受け入れようとし、地の果てまでも主の証人になろうと努める時にも、なおそれをペンテコステの霊に対する信仰と聖霊の全能の力をもってなすことをいたしません。教会はしばしば、ペンテコステを夜明けではなく正午であったかのように言いなしまた行動します。日はまもなく傾き始めるはずだと思っています。教会はペンテコステに立ち帰らねばなりません。そうすればペンテコステが教会に参ります。神の霊は、信者がそれを受け入れる能力を超えて信者を領有することができません。約束は成就されることを待っております。聖霊はいま、満ち溢れるべく待っております。私共の受け入れる能力を広げなければなりません。信者たちが讃美と愛と祈りの一致にとどまり(その時には成就の遅延はただ待ち望みと期待の心を強める結果になります)、信仰によって約束を堅く握り、主が主にある人々のただ中に力をもって自らをあらわされることを確信して昇天の主を見上げ続ける時、そこが御座の足台であって、そこにペンテコステが臨むのです。イエス・キリストは今なおすべての者の主であって、力と栄光の冠を戴いています。彼が初めに御座に上られた時と同様に今でも、キリストは弟子たちのうちにその臨在をあらわしたいという新鮮な希望──キリストご自身が生きておられる栄光の生に弟子たちをあずからせたいという希望──に満ちておられます。私共はこの足台の前に自らの立場を定めとうございます。聖霊に満たされてイエスをあかしするという強い期待に満ちた信仰に我が身を献げとうございます。内住のキリストに私共の生命、私共の力、また私共の証人となっていただきとうございます。このような教会から、キリストの敵たちをその足もとに服させる力を持った、聖霊に満たされた説教者が起されます。
主なる神様、私共は御座の前に礼拝いたします。そこでは御子があなたとともに座し、栄光と誉れの冠を戴いておられます。この御座が人の子らである私共のために備えられていること、あなたがそれを成し遂げてくださったこと、あなたが喜びをもって迎える御子が天にあるのと同様に地にもあられること、あなたに対しておられるのと同様に私共に対してもおられること、そのことのゆえに私共はあなたに感謝しあなたをほめたたえます。神様、あなたの愛をあがめます。あなたの聖き御名を讃美いたします。
私共のお父様、あなたに願い求めます。私共の頌むべきかしらなるキリストが私共をご自分のからだと思ってくださり、ご自身とともにその生命と力と栄光とにあずかるべき者と思ってくださっていること、またその生命と力と栄光とをもたらす聖霊がそのことを私共のうちに知らしめようと私共の中で待っておられることを、どうかあなたの教会に示してください。どうかあなたにある人々の目を醒させて、聖霊が意図するところ、すなわち聖霊が彼らのうちに栄光の主の現実の臨在となること、彼らの地上での働きのために上からの力によって彼らを蔽うことを、彼らに知らしめてください。彼らの全存在を開いて栄光の王を受け入れ、彼らが受け入れられる限界まで聖霊が彼らを満たしてくださるまで、栄光の王に目を留め続けることを、あなたにある人々に教えてください。
私共のお父様、あなたの教会を再び生かしてくださることをイエスの御名によって願います。一人ひとりの信者を聖霊に満たされた宮となしてください。すべての教会を信者たちにとっての聖別された交わりとなしてください。臨在のキリストをいつまでもあかしする、上からの力によって満たされることをいつまでも待ち望む、そのような交わりとなしてください。みことばを語るすべての説教者を聖霊にある奉仕者となしてください。全世界においてペンテコステが、イエスが統治されていること、贖われた者たちはキリストのからだであること、キリストの霊が働いておられること、そしていつかすべての者がキリストの前にひざまずくようになることの、しるしとなしてください。 アーメン
| 総目次 | 祈禱と序文 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
| 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |