聖霊の啓示の必要性についてパウロがコリントの信徒たちに教えていることの全体は、聖書の真理の人間による表現を信仰箇条とすることに伴う危険性を示唆している。そのことは、真理をその神的な力と現実性を伴うものとして保ち、その中に我々がさらに深く導き入れられることを妨げるからである。そのような信条には、教会の信仰を一時的かつ補足的に明文化するものとしては高い有用性があるとは言え、それは理論的には神の言葉にのみ与えられるべき地位を、実践面において容易に簒奪してしまいがちなのである。そのような信条が、神の言葉によって教えられなければならない事柄の完全で最終的な表現であるかのように見なされると、とりわけ危険なものとなる。我々は無意識のうちに、聖霊からさらに深く教えられることを期待しないようになり、神の言葉に啓示されている事柄をいっそう明確かつ完全に教えられることから心を閉ざしてしまうということがあり得るのである。聖霊は教会をすべての真理に導き入れるために教会全体に与えられている。最初の五世紀の間に、人間的な論争と弱さの中にありながら、神から啓示される極めて偉大な真理のいくつかが獲得され明文化されている。我々はこの過程には注目しなければならない。我々はまた宗教改革に時代に、当時見失われて誤謬で覆われていた真理が回復されたことを、神に感謝しなければならない。しかし改革派の信条が確立されたことによって、多くの信徒たちにとって聖霊の導きがそれほど必要ではなくなってしまったと思われてしまう危険がないであろうか。多くの信徒たちは、聖霊がまだ他にも教会に教えるべきことを持っておられるとは認めたがらず、我々の信条にある基準以上に明確かつ完全に神の真理が語られる可能性を考えることに耐えられなくなっている。聖霊とその教えに対するこのような態度が一つの大きな危険なのである。期待して待ち望む教えられやすい霊に対してのみ、神の霊は神の真理を権威をもって開示するのである。しかしこのような態度は自分のそのような霊に対して心を閉ざしてしまい、その代わりに自分の正統信仰の正しさに自己満足する霊を育成する。同時に我々はその正統信仰に対して忠誠を宣言するのだ。そのような態度はキリストの時代のユダヤ人たちの姿に似ている。彼らは自分たちにとっては神の言葉がすべてであると思い込みたがったが、実際に彼らが熱心であったのは神の言葉を彼らが人間的に表現したものに対してであり、神の真理の人間によるイメージに対してであった。我々は我々の神学においてもっと聖霊を信頼することを学ばなければならない。聖霊はなお我々に教えるべき多くのものを持っているのである。教職者の生活と働きとはもっと聖霊の力のもとに入らなければならない。各信者は聖霊の導きを必要かつ特権として認めなければならない。そうするにつれて我々は聖霊が教会を真理に導く事実を当然と考えるようになり、我々が事前には気がつかなかったような仕方で聖霊が働いてくださることを信頼して期待するようになるであろう。
多くの人々にこの真理を受けることを期待しないようにさせる事柄は、それに関連した目に見える危険である。今日、啓示された真理を人間精神の直観や時代の霊や科学の要求に調和させようとする働きに従事する非常に多くの人々を見る。こうした人々はみな信仰箇条からの解放を目指しているが、それはより純粋な霊的神学を再興することを志してのものではなく、人間理性の宗教的良識を満足させるためにある宗教システムのさまざまな制約事項から解放されることを目論んでのものなのである。これら二つのそれぞれの目的を担う人間集団は、いずれも信仰箇条に対してはそれから解放されることを求めているものの、互いに遠く隔たったものであることは理解に難くない。一方の集団は判断の自由を求めている。すなわち我々の中の賢者たちが語る理性の要求に従う自由を求めている。もう一方の集団は霊の自由を求めている。すなわち聖霊が彼固有の方法で教会に啓示する教えを受けてそれに従う自由、聖書の内容を聖霊が啓示するのを待つ自由を求めている。この二つの集団を注意深く区別することが教会のために有益である。教会と信仰とにとって真実の友であるのは、宗教改革において真理の偉大な基礎が築かれたことを認めつつ、いっそう高い体系を築くためになお聖霊が働かれる必要があることを信じている人々である。教会が聖霊の導きを聞いて従う用意ができているならいつでも聖霊は聖書の真理を完全な姿で開示するために働くことを望んでおられると承知している人々なのである。
以下の引用文は熟考に値するものである。これは、上記の第二の方向性に忠実な者であり、聖書に対して深い洞察を有していることに疑問の余地のない一人の人物によるものである。『キリストと教典(Christ and the Scriptures)』の中でサフィール博士(Dr. Saphir)は次のように書いている。
「われわれの内には不安な感情、何かがうまくいっていないというひそかな意識がある。人間の心と経験とに対して神の力をあかしした福音に対して、明らかに反するような教理を築くことは、こうした警戒感のゆえである。改革派の信条と神学のとりでの中に逃げ込むことは自然な防衛反応である。しかしこのことに対しては考えなければならないことが二つある。第一に、後ろを振り返りそこに立ち戻るということはイスラエルがしてはならないことである。神ご自身(神の投影像ではなく)が、われわれを取り囲む炎の壁なのである。死の誤謬に抗うことができるのは生のみである。第二に、しかし信仰箇条が生命を保ち永続させることができないとすれば(事実それができないことを歴史が証明している)、信仰箇条は消えかかった火を燃え立たせることも、死者に生命を与えることもさらにできないであろうということである。現在の状態は、まさにその信仰箇条から──それを発展させようとする、あるいはそれに反対することの中から──生まれているのである。我々の目的は、こうした信仰箇条に何らかの聖書の要素が欠けていること、または何らかの聖書の要素が誤って表現され強調されていることが、現在現れている症状の根源にあるのではないかと吟味することであるべきなのだ。
「ここで明らかに、二つの本質的かつ根源的に異なる人々の集団が現れる。一方の人々にとっては信仰箇条はあまりに多くの聖書的要素を含んでいるが、他方の人々にとってはそれはあまりにも少ないか、もしくは聖書的要素を十分に純粋な形では保っていない。人々は信仰箇条があまりにも図式的だと言って、あるいは十分に図式的でないからと言って、それに反対している。」
別の人の言葉も聞いてみたい。のちに「ピルグリム・ファーザーズ」という名前で呼ばれるようになる、メイフラワー号でニュー・イングランドへ旅立つ亡命者の集団に向けて、ライデンのピューリタン地下教会の牧師であったジョン・ロビンソン(John Robinson)が告別説教を行っているが、その中で彼は次のような忘れがたい告別の辞を述べている。「わたしはあなたがたに命じる。あなたがたは決して、わたしが主イエス・キリストに従っておこなったこと以外の点で、わたしを見ならってはならない。主はもっと多くの真理を持っているが、それは主ご自身の聖なるみことばから出て来るであろう。改革派の教会はたいへん嘆かわしい状態にある。それは宗教となるべき時期に来ているのに、現状では宗教改革のための手段という段階から先に進もうとしない。ルターとカルヴァンは彼らの時代にあっては偉大な輝く光であった。しかし彼らには神のご計画全体が分かっていたわけではない。にもかかわらずルター派の後継者たちはルター自身に理解できていたところを超えて進もうとはしないし、またカルヴァン派の人々もこの偉大な神の人が彼らを連れてきたところにとどまったままなのである。わたしはあなたがたにお願いする。神のみことばから学ぶ真理は何であれあなたがたは受け入れいなければならない。これがあなたがたが教会と行った契約の条項である。」
学ぶべきこと全体は深い重要性を持っているが決して難しいことではない。教会は、その信者の生活の中に働く聖霊に対するたえず新たにされる信仰と止むことのない期待とがある限りは安泰である。このような信仰と期待から聖霊に対する強い献身の思いが育ち、この聖霊が教会に、聖書の真理全体を受け入れてそれを生活の中に生かし、聖霊が教える言葉によって真理を証言する能力を授けるのである。
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