補註17  聖霊のおとずれ

第五章



 「聖霊の働きについてのイエス・キリストの驚くべき教えを聞くと、次のような疑問が出て来る。神の子が地上で働いておられた間、聖霊はいったいどこにいたのであろうか。池の水のおもてを動かした聖霊は、イスラエルの上に注がれた聖霊は、いったいどこにいたのか。聖霊の働きは中断されていたのであろうか。当時の教会には聖霊の満たしはまだ実現されていなかったと言われるかも知れないし、それは確かに真実であろうが、そうであるとしても、聖霊の降臨が神の新しいおとずれ、新しい祝福として扱われるのはなぜであろうか。その答えはおそらく、当時は聖霊はイエス・キリストご自身のうちにおられたのであって、神の子の昇天によって最初の受肉の期間が終わるまでは教会にははっきりしたキリストの賜物としてくだることができなかったことにある。キリストの中には神性のあらゆる豊かさが肉体をとって宿っていた。その神性の力が教会の上に注がれる時には、それはまさにキリストの中心から注がれたのであって、受肉の神秘と恩恵を構成していたすべての要素を含むものとして注がれたのである。」──『慰め主(The Paraclete)』



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