第 十 八 章  霊 の 自 由



『そはいかれいのりはイエスキリストによりて罪と死ののりよりわれゆるせばなり …… れいより身體からだ行爲はたらきころさばいくべし』(ロマ書八・二十三


 パウロはロマ書六章において私共がキリスト・イエスにおいて既に罪から解放されていることを告げています(十八二十二節)。キリストにあって罪に対して死んだことにより、私共は罪の支配から解放されました。信仰によってキリストを受け入れた時に、罪はもはや力でも支配者でもなくなり、私共は義のしもべ、神のしもべとなりました。続く七章においては、パウロは私共が律法から解放されたことを告げます(一〜六節)。『罪のちから律法おきてなり』(コリント前書十五・五十六)とありますように、罪からの解放と律法からの解放とはともに参ります。律法から解放されているのですから、私共は生けるキリストに結ばれて、今やキリストと共にあって霊の新しきのうちに奉仕することができるようになります(七・四〜六)。ここまでの箇所(六章七・一〜六)ではパウロは、罪と律法からの解放を客体的な実在として、つまりキリストにおいて準備され、信仰によって受け入れられ保たれるところの生命として示しております。キリスト者生涯における成長の法則に従うとすれば、信者はこの後、信仰によって信者が印せられているところの聖霊の力によって、このキリストとの結合の中に入ってその内を歩むはずであります。しかし経験から言えば、ほとんどすべての人は、この教えを知って受け入れた後でも、なお自分の生活は期待していたようなものにはなっていないことを証言することができます。彼らはロマ書7章後半に記されているような経験に陥ることが悲しむべき現実であることに気がつきました。それは、このような経験を通ってしか、次の二つの事実を学ぶことはできないからです。第一の事実は、服従を強いる律法に従うことで神の義を人生に実現しようとする人間の意志は無益であるということです。第二の事実は、ただ意識に現れる聖霊の全き内住だけが、神の子としての生涯を送るために必要で十分な力であるということです。

 ロマ書八章の前半では私共はこの二番目の事実を読みます。この書簡で示されているキリスト者生涯の神による説明では、信者の成長にははっきりした進歩の段階があります。この八章は、六章から八章に至る信仰生活の発展について述べられる中で聖霊が初めて登場する部分ですが、ここで私共は次のことを教えられます。すなわち聖霊が私共の生命と歩みとを決定的に動かすならば、また私共が聖霊をそのようなものとしてはっきりと知り受け入れるならば、その時にのみ私共はキリストにあって私共のものとなっている満ち充ちた恵みを完全に享受することができるということです。罪に死んで神に生きること、罪と律法から解放されること、死者の中から挙げられたキリストに結ばれること、それはどのようなことなのかを知りたいと願う方々は、どなたも来て、自分が必要としている力が聖霊の中にあることを見出しとうございます。この聖霊を通してキリストとの結合が神的体験となり、キリストの生命が私共の中で力と真実をもって生きられるものとなります。

 八章前半部分の中心は二節にあります。この節は、罪と律法から私共が解放されているという事実がどうして生きた永続的な経験となるのか、その驚くべき秘密を開示しています。人は自分が自由であると知っていても、実際の体験上は希望のない隷属状態にあることを認めざるを得ないことがあります。自由とは完全にキリスト・イエスに属するものであり、またキリスト・イエスとの生ける結合が維持されるのはただまったく神の力によるのです。そうですからキリストが私共を解き放ってくださった自由の中に私共が現実に完全な状態で立つことができるのは、ただ聖霊がまさにそのために私共の内に宿ってくださることを私共が知り、聖霊がそれをなされるのを受け入れてゆだねることを知るようになる時だけなのです。ロマ書六章七章一〜六節にある生命と自由は、私共が『いかれいのりはイエスキリストによりて罪と死ののりよりわれゆるせばなり』と言えるようになった時にのみ、完全に私共のものとなります。『爾曹なんぢらの信ずる如く爾曹なんぢらなるべし』(マタイ九・二十九)、これが全キリスト者生涯を貫いて支配する原理です。聖霊は信仰の霊として、神の偉大な復活の力が私共のうちに働いていることを開示します。また内住の霊に対する信仰によって、私共はその神の力を完全な形で受けることができるようになります。その時に、キリスト・イエスにおいて私共に与えられているすべてのことが、私共の日々の個人的経験の中に現れて参ります。この節と先立つ七章六節までの教えとの間にある違いに私共が気づき、この節の方が明らかに優れていることを理解する時に、聖霊が神として贖罪の計画と信仰の生涯の中に持っておられる固有の地位、この上なく栄光ある地位が、私共の目に開かれて参ります。それと併せて私共は次のことを学びます。すなわち、キリスト・イエスにある自由の生命が神的完全性を備えているのとちょうど同じだけ、私共が聖霊にある自由の中を歩むことを可能にする生命の力もまた神的完全性を備えていることです。聖霊の内住の生ける保証と経験とは、私共にとって新しい生涯を始めるために第一に必要なこととなります。それは、私共のしゅイエス・キリストの人格と臨在とから切り離せないものなのです。

 『いかれいのりはイエスキリストによりて罪と死ののりよりわれゆるせばなり』。パウロはここで二種類の法則を対照させています。一つは四肢に宿る罪と死の法則、もう一つは死すべき肉体をも支配して生かすことのできる生命の霊の法則です。前者の法則のもとで、希望のない奴隷の地位に嘆息する信者を私共は見ます。そのような人にパウロは、ロマ書六章後半で、罪から解放されているのですから、自発的な献身によって神と義とのしもべとなるべきことを説きます。その人は罪のために働くことをやめましたが、それでもなお罪はしばしばその人を支配します。『罪は爾曹なんぢらしゅとなること(一瞬たりとも)なければなり』(六・十四)という約束は実現したためしがありません。意志はあっても、どうすればそれを実践できるのかをその人は知りません。『あゝわれ困苦人なやめるひとなるかな この死のからだよりわれを救はん者はたれぞや』(七・二十四)、これは律法を守ろうとするすべての努力が無益であったことを伝える叫びです。『これわれらのしゅイエスキリストなるがゆゑに神に感謝す』(七・二十五)、これはその隷属させる力からのキリストによる解放を求める信仰の答えです。律法からの解放がここにあります。肢体に働く罪と死による支配としての律法と、その罪を生き返らせる現実の力からの解放があります。この解放は新しい律法であり、古い律法よりも力があり、罪から自由にする実効力を持つものです。私共の肢体に働く罪のエネルギーが実在していたように、私共のからだに住む聖霊のエネルギーも実在し、しかもいっそう強い力を有します。生命の霊がキリストにあります。このキリストにある生命は、キリストの復活と昇天の時と同様に全能の神の力に満たされてあります(エペソ一・十七二十一)。また御座みざに就いて永遠の霊として神の全能を有する者とせられました。そのキリストにある生命から、自身が神である聖霊がくだりたまいました。このキリスト・イエスにある生命の法則と力と支配とが、私共を律法から、肢体に働く罪と死の支配から解放したのです。その自由はそれ以前の隷属と同様に現実のものです。この新しい生涯の最初から、キリストに対する信仰を私共に吹き入れたのは聖霊でした。私共が最初に義とされた時に、神の愛を私共の心に注ぎ満たしたのは聖霊でした。私共の生命であると共に私共の義であるキリストに私共を導き出会わせたのは聖霊でした。しかしこの最初の段階ではほとんどの場合、聖霊が臨在されることと、その全能の力が与えられる必要の大きさとについての認識が伴っていませんでした。救われた者は、ロマ書七・十四〜二十三にあるように、古い人間本性に深く根ざした律法主義とその絶対的な無力さとの気づきに導かれるにつれて、聖霊の真理とその全能の力、すなわち私共を罪と死の力から現実的な意味で解放してくださる聖霊の力とを、全く新しく理解するようになります。こうしてこの書簡は至高の信仰とそれに結びつく経験との宣言に至ります。『いかれいのりは …… 罪と死ののりよりわれゆるせばなり』。肢体に働く罪の法則がそうであったのと全く同様に、同じ肢体に働く生命の霊の法則もまた現実であり、力があり、自発的に活動するものなのです。

 このようにキリスト・イエスにある生命の自由の内に全く生きることを願うようになった人々にとっては、その生き方を学ぶ道がどこにあるかを理解するのは容易なことです。ロマ書六章七章が準備してきた道の目的地がロマ書八章にあります。彼らはまず六章七章において、キリスト・イエスにおいて自分の存在がどのようなものとされているかについて教えられているところをすべて学び、受け入れなければなりません。すなわち罪に対して死に、神に対して生きていること、罪と律法とから解放されていること、キリストに結ばれていること、これらを受け入れなければなりません。『爾曹なんぢらもしわがことばをらば …… 眞理まことしら眞理まこと爾曹なんぢらに自由を得さすべし』(ヨハネ八・三十一、二)。この神の言葉を、あなたとキリストとの結合とはどのようなものであるかをあなたに教えるものとして、あなたの信仰と生涯とが日々そこに根ざす生命の土壌となしなさい。そこにとどまり、その中に住み、それをあなたの中に住まわせなさい。この福音書の言葉について瞑想し、それをしっかり握り、心の中に隠し、信仰と忍耐の中に同化すること、それが信仰を向上させ、聖書が教えるいっそう高い真理にあなたを到達させる道なのです。もし私共が律法の要求を満たそうとすることによる肉的で奴隷的な経験を通してはいかなる進歩も期待できないことが明らかとなったならば、自己に対する完全な絶望においてのみ、聖霊に対する完全な明け渡しが実現し強められるということをぜひ思い出しとうございます。肉と律法による希望をすべて断念することが聖霊の自由への入口なのです。

 この新しい生涯への道を進むにあたっては、聖書にはっきりと記されている『れいに從ふておこなふ』(walk after (原語:kata) the Spirit; ロマ書八・四)という表現が何を意味しているかを思い起すことが必要になります。聖霊は導きを与える者、進むべき道を決定して教える者であります。したがってこの言葉は明け渡すこと、従うこと、指導を待つことを意味します。聖霊は支配する力であるはずです。私共は何事にあっても聖霊の法則と禁制と主権に従って生き、行動するものであるはずです。聖霊を悲しませないようにとのきよい畏れ、聖霊の導きを知ろうとする繊細な気遣い、聖霊の隠れた臨在を信ずる日々の信仰、聖霊を神としてあがめる謙遜な崇拝の念、これらが私共の生活が帯びるしるしでなくてはなりません。このくだりの結論に向けてパウロが使っている次の言葉は、私共の目指すべき目標を表しています。『れいより身體からだ行爲はたらきころさばいくべし』(ロマ書八・十三)。私共の霊と心を所有し、生かし、動かす聖霊は、また肉体にも入り、私共が肉体の働きを殺すことを可能にします。これこそ私共が次の言葉から期待すべきことなのです。『いかれいのりはイエスキリストによりて罪と死ののりよりわれゆるせばなり』と。これこそ私共が召されているところの『れいきよめかうむることによりすくひを得』るということなのです(テサロニケ後書二・十三)。

 『れいに從ふておこなふ』歩みに関連させて思い起す必要がある特別な言葉は『信仰によりて歩む』(コリント後書五・七)です。私共の目に見えるキリストの生涯と働きとは、私共の内部における聖霊の顕現に比べるとはるかに容易に知覚できる事柄ですから、聖霊の導きを求めるにあたっても、この知覚に基づく信仰が何よりも必要になります。聖霊の全能の力は、私共の弱さと実際に結びつくことによって姿が見えなくなっています。そのため私共は、聖霊が内住してくださることと、聖霊が私共の生きるために必要なすべてをなしてくださることを完全に意識できるようになるまでに、忍耐強い信仰と服従を必要とします。私共は父なる神の働きを待つ間、油そそがれた者であるキリストとの交わりにおいて、聖霊から日々新しく直接の油そそぎを受けなければなりません。『ただ信ぜよ』(マルコ五・三十六)という命令はこのためにこそ必要になります。父とその約束を信ぜよ、御子みことその生命はあなたのものであると信ぜよ。『なんぢらの生命いのちはキリストとともに神のうちかくをるなり』(コロサイ三・三)。イエスの生命と臨在とをもたらし、分かち与え、保ってくださる者として聖霊を信じなさい。すでにあなたのうちにある者として聖霊を信じなさい。聖霊が力とまこととをもってあなたの内に神のみわざをあなたの理解を超えてなされることを信じなさい。『いかれいのりはイエスキリストによりて罪と死ののりよりわれゆるせり』と信じなさい。神のみまえに深い心の沈黙のうちに頭を垂れ、神が聖霊によってあなたのうちに力あるみわざをなされるのを待ちなさい。自己がひくくされた時に、神はその祝福と親愛のみわざをなしたまいます。神はイエス・キリストをあなたの内なる聖霊の生命として啓示し、分け与え、臨在させ、そして神の力によって保ってくださいます。


 永遠にほめたたえられるべき父なる神様、あなたの霊という驚くべき賜物のゆえにあなたを讃美いたします。この霊によってあなたと御子みことが私共にきたり住みたまいますゆえに讃美いたします。また永遠の生命という驚くべき賜物のゆえにあなたをほめたたえます。あなたの愛する御子がこの生命をもってくだられ、ご自身の生命を私共にお与えになったので、私共はイエスご自身の内にこの生命をもつのです。そして、このキリスト・イエスにある生命の霊の法則が、私共を罪と死の法則から解放してくださいますゆえにあなたに感謝いたします。

 わたしたちのお父様、へりくだってあなたに祈ります。この自由のまったき法則がどれほどのものであるかを豊かな祝福された経験のうちに私共にあらわしてください。この内なる生命の法則が喜びに溢れた自発的な力によってその祝福されたな完成へと成長していくことを教えてください。この法則が永続的で弱ることなく存続する力を持った永遠の生命の法則であることを教えてください。この法則が生ける救いぬしなるキリスト・イエスの生命の法則であり、イエスご自身がそれを私共の内に生かし保ってくださることを教えてください。またこの法則がキリスト・イエスにある生命の霊の法則であり、この霊がキリストを私共の内に内住する臨在としてあらわし栄光を与えるものであることを教えてください。どうか私共の眼を開き、信仰を強めて、この霊の法則が私共の肢體の中に働く罪の法則よりも実際に強く、私共をそれから解放することを信じることができるようにしてください。聖霊を通して私共が肉の行いに対して死に、キリストの生命を生きるものとしてください。

 父よ、すべての子らにこのことを教えたまえ。 アーメン


要  点

  1. ここでいったん立ち止まって次のことが私共の経験となっているかどうか顧みとうございます。『いかれいのりはイエスキリストによりて』わたしがそこからの解放をもとめて苦悶してきた『罪と死ののりよりわれゆるせり』ということがです。この自由の祝福の中にわたしは生きているでしょうか。
  2. そのように顧みる者は誰でも、パウロによって用意されたキリストの福音の道が私共の前に敷かれていることを思い出しとうございます。私共はすでに御子みこの死によって神と和解いたしました。そして今は御子の生によって救われることを得ているのです(ロマ書五・十)。この御子の生がそのすべての力とともにあなたのものとなっていることを、信仰によってあなたは知っています(同六・一十一)。その力によってあなたは自分を神のしもべとなるべく献げました(同六・十五〜二十二)。しかしそのしもべとしての奉仕は律法の下の遵法精神によってつかえるものではなく、新しい霊によってつかえるものであるはずでした(同七・一〜六)。けれどもあなたはこのことを十分に理解していなかったので、新しい生命によって自分を満足させる律法の成就を求めてしまい、そして完膚なきまでに失敗しました(同七・十四〜二十五)。聞きなさい、ここにおいてこそ聖霊が参ります(同八・一〜十六)。イエスとその生命を信ずることが、あなたの内なる聖霊の生命に至る道を用意します。聖霊が律法から解放して、キリストの生命をその生ける臨在の力のうちに保ちます。ロマ書八・二は祝福の生涯へ至る鍵であります。
  3. 「アダムの生が人類の家族全体に再生産されているように、神−人の新しい生は彼につくすべての人々にいつまでも流れ続ける。私たちの生はキリストの霊的生が彼につく人々のうちに再生産されたものなのである。この新しい生が私たちを第二の人に結び付ける。この第二の人は、聖霊によって、自分を分け与えるという行為によって彼につく人々を彼のもとに集めるのである。」──スミートン
  4. このような生をあなたは生きたいと思いますか。私共が従うべき一つの偉大な教訓を思い起しなさい。あなたの内に住まわれる聖霊を認めなさい。キリストとその生命をあなたのうちに開示する者として聖霊の臨在を信じる信仰に満たされることを、他の何にも優先させて学びなさい。聖霊の支配に身を委ねなさい。とどまって聖霊の働きを待ち、聖霊に従って歩むべく備えなさい(申命記十三・四)。聖霊の律法、内なる生命の力ないしは動力、キリスト・イエスにある生命の霊の法則は、わたしを罪と死の法則から解き放ちました。


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