我々の主が聖霊のバプテスマを授けられるであろうという幸いな約束は、その成就を期待する道について深刻な意見の相違を引き起こしている。このことは、我々がその成就を完全には経験していないことの証拠でもある。聖霊が十分な力を及ぼしているならば、われわれがそのバプテスマを得ていることと、またそれが意味するところとについて、聖霊が独自の証明をもたらすはずである。近年において多大な関心が向けられてきた二つの異なる見解がある。その一つは、信者は誰でも新生の時に聖霊を受けているのであるから、改めて聖霊のバプテスマが求められると想定する余地はないとするものである。約束はペンテコステの賜物によって成就されたのであって、各信者はキリストを信じた時に、この教会の遺産から自分の分け前を得ることができるとするのである。これに反対する第二の見解は以下のようなものである。すなわち、キリストの直接の弟子たちや、ピリポがサマリヤで得た回心者たちや、エペソの十二人の信者は、真の信者であったけれどもなお約束の聖霊を受けることを必要とした。それとちょうど同じように、現代の信者も、回心に続いてこのバプテスマを求めるべきであるし、期待することができるとする。そして第三の見解がある。それは両者の間に立つもので、聖霊はすべての信者にとどまっているとする第一の見解を受け入れつつ、次のように主張する。すなわち、信者はなお時に応じて聖霊の臨在と上からの力とに対する新しい意識を特別に授けていただかなければならず、それを新たな聖霊のバプテスマと理解することができるとするものである。初めの二つの見解を比較対照するにあたっては、次の二つの代表的な著作から要点を引用するのが最適である。それは、アーネスト・ボーイズ師(Rev. Ernest Boys)の『聖霊に満たされよ──聖霊についての聖書研究(Filled with the Spirit; or, Scriptural Studies about the Holy Ghost)』、およびアサ・マハン師(Rev. Asa Mahan)の『聖霊のバプテスマ(The Baptism of the Holy Ghost)』の二著である。
ボーイズ氏はその著書の中で新約聖書全体の中から聖霊に関するすべての章句を引き、信者たちは既に聖霊をそのあらゆる完全性と力とにおいて、永遠の内住する臨在として所有しているのか、それとも「聖霊のバプテスマ」と呼ばれる特別な経験が与えられるように励むべきであるのか、という問題に答えることを試みている。彼は、新約聖書を注意深く学ぶならば、すべての信者は聖霊の満たしを知ることを待つように召されているのではなく、既に輝かしい特権を与えられていると信じる資格を与えられていて、それに従って行動するべきであるという結論に至ると考えており、次のように述べる。「信仰と新生を実現する聖霊のわざは、心の中にというよりも心の上に聖霊が働きかけることであると我々は信ずる。聖霊が実際に心の中にまでは入るということがそのわざの中に含まれるかどうかは、我々の力で決められることではない。しかしこのことについては、ひとたび人を神の子とする信仰が生まれたのなら、誰の場合であっても、聖霊が実際に心の中に入り、恒久で永続的な聖霊の内住が実現するものと断言できる。信者のキリスト者生活と日常経験の諸問題において聖霊に対する信者の姿勢とかかわりがどのようであろうとも、信者は聖霊のさらなる内住を求めて時間を費やしたり祈ったりするべきではない。この聖霊の内住は、そのすべての豊かさを伴って既に与えられている、誇るべき事実なのである。信者はただ、今現在存在している方についてのより完全な知的ならびに霊的認識に入るように努めるべきなのである。」
ペンテコステの日に言及する中で、ボーイズ師は、その時の聖霊の降臨以後、聖霊は恒久的に地にとどまるようになったとして、次のように強く主張している。「使徒行伝二章において我々は聖霊が地上の教会にその住まいを設けるために人格として降られたことを見る。それはヨハネ十四章十六節に『窮なく爾曹と偕に在しむべし』と言われていることの成就なのである。神の子が現実の人間の肉体に結合することによって受肉が実現したのと同様、聖霊はキリストを信じる男女の現実の肉体に自らを結合させ、それによってペンテコステの日にある意味で受肉を実現させたのである。聖霊はそれ以来、キリストのからだである教会にとどまっているのであって、それはただ、聖霊が教会の実際の会員である個々人の心に内住し、その人をかしらなるキリストに結合させるということによって実現しているのである。聖霊が信者において、また信者を通して働かれることによって、この霊的なからだの新しい会員に新たにご自身を分かち与えるのは、天から改めて聖霊が降臨するということが仮にあり得るとしてもそのようにしてなされるのではなく、この地上の住まいである教会によってなされるのである。そのようにいま我々は信じている。各信者は、単に聖霊が他の人々に対してご自身をあらわして神的真理の現実性を身近に感じさせるための媒体であるだけでなく、ある意味では聖霊が他の人々の心にご自身を人格的に分かち与える際の源泉でもある(ヨハネ十五・二十六、二十七;七・三十八、三十九)。」
彼はさらにエペソ三・十四〜二十一の祈りを引いて次のように書いている。「聖書を研究する限り、ペンテコステ以後、明確に信者らが聖霊をまだ受けていない賜物として求めるように勧告されている場面というものは見当たらない。むしろ既に彼らに内住している聖霊がその多様な職務を内なる人において力をもって継続することを祈り求めるように勧められているのである。」そして結論として彼は次のように述べる。「言葉に意味があるとすれば、霊感を受けた著者たちがたびたび次のことを保証していることを我々は読む。すなわち聖霊の内住はすべての真の神の子にとって現在の現実であるということだ。…… しかしまた同時に次のことも事実であると告白しなければならない。すなわち信仰を告白している極めて多くのキリスト者の生活と行為の中に、聖霊の内住のあらわれをなかなか認めることができないということである。キリスト教会の現状を鑑みると、信者たちが癒やされることを求めて答えを得ようと聖霊に向かうこと自体は驚くに当たらない。むしろ驚くべきことには、その秘訣が明白であること、すなわち癒やしは彼らのすぐ近く、というよりも彼らの中に既にあることに、人々が気がつかないことなのである。我々に欠けているのは、我々の内なる聖霊の人格を信じる単純で子供のような信仰なのであって、それはキリストが我々のために成し遂げたすべてのみわざを信ずるために用いるように教えられてきた、その同じ信仰なのである。…… あらゆる霊的経験は、初めに、事実を信じる単純な信仰から湧き出る。その事実とは、我々がすべての感情と視覚に逆らってでもそれを単純に信じるようになるまでは、我々の意識に現実とは見えないような事実である。聖霊が我々の心の中に住まいたもうという真理の上に、この単純で子供のような信仰を置きなさい。そしてこれまでの章で述べてきたような聖書の勧めをはっきり覚えて、聖霊の導きにゆだねる生活を新たに始めようではないか。そうすれば我々は幸福と、聖潔と、日々常に聖霊に満たされるという霊力との、真の秘訣を見出すであろう。」
ここでわたしは意図的に長文を引用した。それは一つには、ここに現れている真理の一面の深い重要性を強調したいためであり、また同時に、それが実際に真理の一面に過ぎないことの意味を明らかにするためでもある。このうち前者に関連しては、今年実施された、二十七名の教職者が会して聖霊の働きに関する祈りと学びのために六日間を献げた会合のために、その数週間前にすべての参加者にボーイズ氏の本のコピーが送られていたことを述べてもよいであろう。その会合ではその本を読むことで受けた恵みをあかしする者が一人ならずあった。特に次に挙げる一節は、ひとりの参加者がそこから大きな恵みを受けたことをあかしし、他の人々もまたそれによって我々が聖霊に対して立つべき位置が明らかになったという印象を受けたものである。そこに立たない限り、聖霊の働きを求める我々の祈りがほとんど無益になってしまうのである。ボーイズ氏は次のように書いている。「もし聖霊に満たされるということの真意を手短に説明するように求められたなら、次のように答えるべきである。それは我々が聖霊をより多く持つということではなく、聖霊が我々をより多く所有するということであると。この二つの間には大きな相違があり、しかも聖霊の満たしを熱心に求める多くの人々がそれを見過ごしている。彼らは神がより多くのものを彼らに賜わることを望み、待ち、祈っているのであるが、『聖霊に満たされる』ために必要なことは、彼らが既に献げたよりも多くを聖霊に献げることなのである。」その集会のあとほどなく、集会に参加できなかったある人物から同じようなあかしを受け取った。その人は本書が自分にとって新しい啓示であったと述べている。自分が必要としている、ないしは持つことができる聖霊のすべてを自分が既に所有していることをその人は悟ったのである。確かに、どんな時にも自分の内に聖霊が宿っておられるという生ける信仰を持てずに、もっと完全な所有と支配を与えられることをただ待ち続けているようなキリスト者や教職者がキリスト教会に数多くいることは、わたしも承知している。福音的な牧会の中では、新しい回心者の一人ひとりにこの事実を十分に知ってもらう必要がある。すなわち受け入れられていることの生ける確信、潔く生き果を結ぶための力、キリストの臨在と内住の恵みの経験は、ただ内住の聖霊の信仰からのみ得られるということをである。
しかし今われわれはもう一つの面を検討しなければならない。マハン博士の『聖霊のバプテスマ』という本では、聖書における神の思いがどこにあるのかだけを知ることを同じくらい熱心に追求しているもう一人の人から、神の真理の全く異なる一面を我々は学ぶことができる。新版への序文に記された文章がこの人の立ち位置を明らかにするであろう。ヨハネ十四・十五〜十七を引いて彼は次のように書いている。「聖霊は弟子たちに罪を認めさせて、キリストを信じ、愛し、そのいましめを守るように彼らに勧告した。聖霊は彼らが回心した時から彼らと共にあったのであり、彼らの身体は聖霊の宮であった。弟子たちがエルサレムで父の約束の成就を待っていた十日間の間も聖霊は静かに彼らのそばに留まり、完全な従順と強化された期待と心の一致とに彼らを導いた。それは、来るべきバプテスマの結果としての内的啓示と力を賦けられることとに、彼らを完全に備えさせるためであった。ペンテコステに先立つこれらすべてのことはこのバプテスマのための準備であって、バプテスマそのものの一部なのではなかった。弟子たちの回心とそれに続く備えとは、バプテスマと同様の聖霊の別の働きであって、それらはバプテスマのために不可欠な働きであった。もし使徒たちがバプテスマの経験の準備段階にいつまでもとどまっていたなら、あるいはもし彼らが約束の聖霊を受ける前に働きに出てしまっていたなら、世界が彼らの影響を受けることは決してなかったであろう。しかし実際には使徒たちは『父の約束』を待ち、キリストがそうされたように『聖霊の力によって』働きに就いたため、ほどなく彼らは世界を動転させることになったのである。
「この同じことは、現在の時代、すなわち聖霊の時代に生きるすべての信者、最も小さな者から最も大きな者まですべての信者にとって真である。使徒たちや彼らの協力者たちにおいてそうであったのと同様、イエスを信じるすべての者において真なのである。聖霊は信者のうちに神に向かう悔改と我らの主イエス・キリストに向かう信仰を起した後も信者のうちにとどまって働き続ける。ペンテコステ以前からそうしていたようにである。そしてこれには唯一の目的がある。それは、信者の愛と服従を完成に導くことであり、『斯て我かたり始しとき聖靈はじめに我儕に降し如く彼等にも降れり』(使徒十一・十五)ということが実現するように内的備えをなさせることである。もし回心者がこの完成の域に至らないままとどまってしまうなら、すなわち回心者が回心の時に既に聖霊のバプテスマを受けたという信念のもとにそこにとどまってしまうなら、その人はほとんど不可避的に、古い時代の弱さと暗黒の中の生活に閉じ込められたままになるであろう。新しい時代にふさわしい力と霊的光を賦けられる生涯に進んでいくことはその人には期待できない。
「ここでこの偉大な教理に対立する教理について見てみたい。それは、すべての新生した魂はその回心の時に、約束された聖霊のバプテスマを受け、それに伴うすべての力を賦けられる、とするものである。その典拠として、次のように明確に語られている聖書の箇所が引用される。『我儕みな一靈に在てバプテスマをうけ一の體となり』(コリント前書十二・十三)、すべて『爾曹の身は …… 聖靈の殿にして』(同六・十九)とあるくだりである。我々も教えているとおり、このことは現在の回心者すべてに真実であり、また楽園追放以後のすべての回心者に真実であったことである。使徒たちはキリストの霊を持っていたに相違ない。そうでなければ彼らはキリストのものとなることはできなかったであろう。しかしそうであっても、新約聖書における言葉の意味では、ペンテコステが来るまでは『靈いまだ降ざればなり』(ヨハネ七・三十九)、『未だ …… 聖靈
聖書的真理に関するこの言明には、先に挙げた言明と完全に一致する大きな一致点が一つある。それは信者は誰でも内住の聖霊を持っているということであり、信者はそのことを知って、彼がさらに成長して力を得るために必要なすべてを聖霊がなしてくださると信じなければならないという点である。一方、相違点は次の所にある。すなわち信者が聖霊の内住の意味する完全な経験に達するための方法が問われる場合である。この問いに第一の言明が与える答えは、「聖霊があなたのうちにあることを信ぜよ、あなたの全存在を聖霊に対して開いてゆだねよ、そうすれば聖霊はあなたを満たすであろう」というものである。一方、第二の言明は、「聖霊の満たしが特別の新たな賜物として、父の約束の成就として与えられるまで、御座
今この第二の見解の方をさらに考えてみたい。もしそれが主張するように、信者はみな、聖霊のバプテスマを新たな特別の経験として意識的に求めて得なければならないとするならば、この見解は聖書が教えているところとは異なるように見える。しかしこの見解は次のようにも解釈できるであろう。すなわち、神の霊による満たしをこれまで多くの信者が信仰の祈りに対する答えとして受け入れた時、また今後それを求める人々がそれを受ける時には、それは彼らから見ると、聖霊の新たなバプテスマ以外の何ものでもない、というようにである。そのように考えるならば、わたしはこの見解が聖書の教えと一致していることを認めざるを得ない。ボーイズ氏の著書に基づく第一の見解に関しては、わたしはその真理性と積極的価値に深く共感するものであることはこれまで書いてきたとおりである。しかしボーイズ氏が聖霊を求めて我々がさらに祈る必要性に対して否定的である点に対しては、わたしは承服することができない。わたしの考えでは、ボーイズ氏の見解は聖書の真理のいくつかの面においてなお補完されなければならないのである。このことを次に指摘しておきたい。
ボーイズ氏がいくぶん見落としていると思わざるを得ない一つの真理がある。上に引用した文章中において彼が強く主張しているのは、聖霊は既に地上に来られ、キリストのからだである教会にその住まいを定めたという点であり、したがって聖霊はいつでも信者から未信者へと分与されるということである。これはとても重要な真理の一面であり、しかも十分に実現されているとはとうてい言えない一面である。しかし我々が見落としてはならない別の一面がある。それは、聖霊は神の霊であるということである。聖霊は教会の中におられるだけでなく、父なる神と子なる神の中にもおられるのだ。父なる神と、子なる神と、そのからだなる教会、聖霊とはこの三者が相互に交わりを有するところの一つの生命なのである。神は、聖霊をご自身から切り離して信者たちにお与えになったわけではないし、またそれ以降何も与える必要がないようにと与えたわけでもない1。決してそのようなものではない。神の賜わるものは、永遠の生命の力のうちに、神からキリストを通して神の子らにいつまでも流れ続ける生命の力のうちに与えられるものなのである。したがって聖霊の内住を完全に認めていることと、信者がさらに聖霊を求めることとは矛盾なく両立するのである。わたしは、多くの祈りにおいて聖霊の臨在が忘れられたままになっている、さらには無視されてさえいることに気づき、残念に思っている。その結果として教会がどれほど多くを失っているかをわたしは深く感ぜざるを得ない。しかし、神が既に聖霊を与えられ、我々はそれを受けたのだから、もはや神に対して祈る必要はないと考えるなら、それはまた逆の極端に陥ることになるのである。
「すでに持っているものをさらに求めるということがいったいできるのでしょうか」と問われるかも知れない。その答えは至って単純である。例えばわたしがいまペンを握っているこの指は、正常であるなら血液で満たされているはずである。それでもなお、指が口をきくことができるなら、指が心臓に向かって絶えず「もっと血液を送れ、そうしないと我々は生きていけない」と求めている声が聞こえるであろう。葡萄の実をたくさん付けている枝は樹液で満たされる限り満ちているはずであるが、それでもなお葡萄の樹に向かって、樹液が足りず必要としているので絶えず送り続けるようにと求め続けるのである。そうしなければ実が熟することができないからである。肺は空気で満たされているが、それでもなおいつでも新しい空気を必要とする。聖霊は信者が自由に使ったり処分したりできる力なのではない。また信者をキリストから独立して歩むことができるようにする人格なのでもない。そのことを理解している信者には、上に述べた譬えと同じことが当てはまる。聖霊は我々にキリストとの生ける結合をもたらすものであり、我々をますますキリストに依り頼むようにさせるものである。真の信仰は、聖霊が既に与えられていることを認めるとともに、聖霊が満ち充ちてとどまっているキリストの中からいっそう完全な聖霊の流れを受けることをいつも待ち望んでいる。我々の祈りの生活はそのような信仰と一体のものでなければならないのである。
子なる神の生涯の中にも、既に持っていることと新たに求めることとがこのように一つに結びついていることを我々は認めることができる。彼は父なる神が自分に万物を、父なる神ご自身をさえ与えられていることを知っていたが、それでもなお祈りの必要を感じていた。彼は生まれつき内住の聖霊を持っていたのであるが、それでもなお、バプテスマを通して上から聖霊を受けるということ、彼が祈った時に天が開かれて聖霊が降
以下の覚え書きは、聖霊のバプテスマを求める祈りを献げ、その答えを期待するにあたって、聖書的基準とは何であるとわたしが考えているかを理解する一助となるであろう。
我々が求めているものをどう言い表すかという点でどれほど相違があるとしても、我々の父はその子らの一人ひとりを彼ら自身よりももっとよく理解しておられるということを知らねばならない。表現の問題はさておき、神がその聖霊と火のバプテスマの約束をもって示しておられるところのもの以下では満たされない希望が、神につく人々の間に広がっているのは喜ぶべきことである。聖霊は我々の内に住まいたもうのであるから聖霊に忠実であろうではないか。自分自身を励まし、またお互いどうしで励まし合い、我々の願いと思いを超えてなすことができる神がすべての信者の中に力をもって働かれ、我々の想像を超えた満ち溢れる豊かさの経験をくださるのを待ち望もうではないか。
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