慰め主(Comforter)という名称がparakletosという原語の意味を完全に表し切れていないことは諸方面から認められている。能動相のpalakletorという言葉になら慰め主という訳語は適切である。しかし受動相のparakletosという言葉は、それに対応するラテン語のadvocatusと同じように、援助を要請された者、ある案件を引き受けるように、あるいは訴えを弁護するように求められた者という意味がある。慰め主ではなく弁護者(advocate)という言葉を正しい訳とする人々の間では、この語の複数の解釈が見られる。或る人々は、聖霊はキリストが弟子たちと世に対して持っている義をキリストに代わって引き受けるように求められた者であるがゆえにこの名前を帯びていると考える。別の人々は、聖霊は弟子たちが助言や力添えを必要としている時に彼らが依り頼むことができる者であるがゆえにそう呼ばれると考える。弁護者と訳することで主が言おうとしていたことを完全に表せると考える人々の間にも、さまざまな見解が見られる。オーウェン(Owen)は「聖霊は世にあって、世とともに、また世に抗して、教会のために弁護する者(advocate)である」と述べている。ハウ(Howe)もまた「世に対してキリストとキリスト教を擁護する任務を引き受けるadvocate、偉大な弁護者」と呼んでいる。この見解ではしかし信仰者の個人的必要を満たすという聖霊の役割が判然としない。他の人々は聖霊をキリストと各信者との間を弁護する者と考えている。例えばボウエン(Bowen)は次のように表明している。「キリストは私共を父なる神に対して弁護する者であるように、聖霊はキリストを私共に対して顕彰する者である。キリストが恵みの御座の前で私共のためにとりなすように、聖霊は私共の心の中にキリストをあらわす。聖霊はキリストを人間の無益な思考の中から救い出し、キリストをすべての者のかしらとして、まったく愛される者として顕すのである。」
こうした見解はしかしながら幸いな慰め主の働きを部分的にしか表していない。ケリー(W. Kelly)は『聖霊のみわざ(The Work of the Spirit)』の中で次のように書いている。「この言葉は『弁護者』という言葉が意味するものとも、『慰め主』という言葉が意味するものとも異なる、比較を絶する大きな意味を有している。それは両方の意味を含むとともにどちらよりもはるかに大きな意味を帯びているのだ。このことばが意味する者は、私共の利益と同一視される者であって、私共のすべての申し立てを引き受ける者であり、あらゆる困難の中にある私共を見守ることを約束する者であり、あらゆる方法を尽して私共を代表する者、私共の職務を私共に代わって実行する偉大な個人的代理人となる者なのである。」
これでもなおすべての面を尽してはいない。確かに弁護者は代理人でもある。しかし聖霊の働きの最も包括的で最も高貴な面とは、聖霊がイエスの代理人となるはずであったということなのである。聖霊はイエスが常に我々と共にあるようにするはずであった。弟子たちが主を失おうとしていることは、彼らにとって悲しみであった。彼らが別の者を受けてその中に主が再び現れるであろうということは、イエスが約束した慰めであった。聖霊が既にイエスによって呼び入れられてイエスを代表する者、イエスの臨在を彼らにとって現実ならしめる者として与えられていること、また主が我々にとって何であるかを余すところなく開示し分与する者として与えられていること、それが聖霊を別の弁護者とするのである。イエスが別の慰め主について語る時には聖霊がそれであることを暗示しており、またヨハネ十四・二十六において聖霊がこの名を与えられているのであるから、聖霊が父なる神によって神と我々との間を取り持つ媒体となって神からその祝福を受けて分かち与えるように定められ、与えられているものと我々は認めねばならない。聖霊は神の生命と愛とを我々に取り次いで、父が我々に与えようとして持っておられるすべてを我々のために確保するとともに、我々が献げようとして持っているすべてを父のもとに持っていく者でもある。慰め主あるいは弁護者という言葉には、そのような聖霊の働きと人格のすべてが含まれるのである。これが弁護者としてのキリストの働きの真実で完全な意味であって、とりなしのわざはその一面に過ぎない。そしてキリストが慰め主を別の弁護者としてお与えになる時、慰め主が我々の内で生命となり現実になるということは、慰め主がキリストのみわざをそのすべての広がりにわたって自分の働きとして引き受けるということなのである。ちょうどキリストが弁護者であり父なる神との間を取り持つ者であられたように、聖霊はキリストとの間を取り持つ者であって、キリストが弁護者として我々のために確保されたすべてのものを現在の継続する経験として、終わりのない生命の力によって開示するのである。聖霊は別の弁護者であって、天にあるキリストが我々の心の中にもう一つの自分(alter ego)となったものなのである。
英語訳において慰め主(Comforter)という言葉を使うのをやめることは難しいであろう。現世におけるイエスが失われた時には弟子たちに悲しみがあったが、イエスが彼らのための神の弁護者としていっそう大きな力をもってその存在を回復された時には弟子たちに慰めが与えられたという事実を考慮するならば、この言葉の使用をやめる必要性は感じられない。聖霊が別の弁護者であり慰め主でもあるのは、聖霊が天にある弁護者たるイエスの内住の代理人であるからであって、常にイエスを心の内にあらしめる者だからである。
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