『われ父に求ん 父かならず別に慰る者を爾曹に賜て窮なく爾曹と偕に在しむべし 此は即ち眞理の靈なり 世はこれを接ること能ず 蓋これを見ず且しらざるに因 されど爾曹は之を識 そは彼なんぢらと偕に在かつ爾曹の衷に在ばなり』(ヨハネ十四・十六、十七)
『爾曹の衷に在ばなり』。この単純なことばの中に、私共の主はその贖いの御業の果であり冠である聖霊の内住のくすしき秘義を示しておいでになります。人間が創られたのはこのためでした。神の霊はこのため、すなわち神が人間の心に主となりたもうために、過ぎにし時代を通してむなしく人間に働きかけたまいました。このためにこそ主イエスは地上の生涯を送り、また死をも味わいたもうたのです。このことなくしては天の父の御目的も御業も達成されることがありません。このことがなかったために、主イエスと弟子たちとの活動には思わしい結果が伴いませんでした。主は彼らがこのことを理解し得ないことをご承知でしたから、それまではこのことを彼らに述べることを敢えてなしたまいませんでした。しかし今は最後の夜です。残る時はわずかとなりましたから、主は弟子たちにこの神的秘義を打ち明けました。彼らが主に取り残されて後に受ける損失は、主が肉体をもってともにありたもうた時よりもさらに大いなる恵みをもって償われるべきことを告げたまいました。すなわちイエスに代わって別の者が来りて、彼らとともにいつまでも在して彼等の内に宿りたまいます。その別の者は彼らのうちに宿り、彼らの主ご自身とともに父なる神をも受け入れることができるように彼らを備えます。『爾曹の衷に在ばなり』。
父なる神は私共に二重にご自身の啓示を与えられています。まず、父はその御子によってその聖なるみかたちを啓示し、人々がその心と生命とに御子を受け入れまつることによって御子に似たものとなるように、御子を示して人々を招きたまいました。次に父は聖霊を通してご自分の力を送り出したまい、聖霊が私共の内に入ることで、私共が御子と御父とを受け入れることができるように内から備えようとなしたまいます。聖霊の世は内的生命の世です。言葉の世、あるいは御子の世は、神の像にかたどって人間が創造された時から始まり、それに続く備えの時期を経過して、キリストが肉のかたちをとって現れる時にまで至るものであり、こちらは外的な準備の世であります。準備の世にも聖霊の特別な力ある働きがしばしば見られましたが、聖霊の内住は知られておらず、人間が聖霊にあって神の住まいとなることはありませんでした。そのことは後の世に達成されるべく取り置かれていました。永遠の生命が人間の真の生命となり、人間の存在と意識の奥底に入り、人間の意志と生命の形態をまとって人間の内に宿らなければなりませんでした。ちょうど霊を通して神の本質があるように、またちょうど霊は父と子という二つの位格がその根源と意識とを共有する原理となっているように、同じようにしてこの神の生命の霊がいま私共の内にあるべきなのです。すなわち言葉の最も深い意味において、聖霊が私共の生命の原理とならなければなりません。私共の人格の根源とならなければなりません。私共の存在と意識であるところの生命そのものとならなければなりません。聖霊は内在する神の絶対的支配をもって私共とともにある者とならなければなりません。それはちょうど御子の内なる御父、また御父の内なる御子のように、聖霊が私共に内住するということです。どうぞ聖なる崇敬のうちに身をかがめ、神を礼拝し、神を崇め、真に力ある祝福を受けとうございます。
もし私共の頌むべき主がここで約束したもうところを私共が完全に理解し経験したいと望むのであれば、私共は何にも増して、主がここで語っておられることが神の内住についてであることを覚えねばなりません。神はその住みたもう所ではどこでもその姿を隠したまいます。自然界において、神は自らを隠したまいます。ほとんどの人はそこに神を見ることはできません。いにしえの世に神が聖徒にお会いになられた時にはいつでもご自身を人間の弱さの中に包み隠して現れたまいましたから、たびたび聖徒たちは神がすでに去った後になって、『誠にヱホバ此處にいますに我しらざりき』と申しました(創二十八・十六)1。頌むべき御子は神を顕わすために来りたまいましたが、その姿は最初から、乾燥した大地から出ている根のように見るべきうるわしさがなく、弟子たちさえたびたびつまずきました。人々はいつでも神の国は目に見える形を伴って来ることを期待します。神の国は隠された秘義であって、神のために明け渡され備えられた心に神が自らを顕わす固有の力によってご自分を知らしめることによってのみ、この秘義は受け入れられるものであるということを、人々は知りません。キリスト者たちは聖霊についての約束に心を奪われると、いつもある観念を心に抱くようになります。それは、聖霊の導きはどのようにして彼らの思想に知られるようになるのか、聖霊の励ましはどのように彼らの感情を奮い立たせるのか、聖霊によるきよめは彼らの意志と行動にどのような形で表れるのか、といった観念です。そのような人たちはもう一度思い出す必要があります。すなわち聖霊が来て住まう場所は、思想や感情や意志よりももっと深く、それらが座を占めている心という場所よりももっと深い、神に由来する霊という深みの中である、ということをです。
したがってこの内住ということは初めから一貫して信仰によって認識されるべき事柄です。聖霊の働きの証拠を全く目にすることができないとしても、聖霊がわたしの内に住まわれていることを静かに敬虔に信じなければなりません。この信仰のうちに心を静めて動かされずに聖霊の働きを期待して待つ必要があります。この信仰のうちに、自己の知恵と力とを明確に拒絶して、子供のようなゆだねる心をもって聖霊の働きに依り頼まなければなりません。聖霊の働きは最初は目立たないひそやかなものであるかも知れません。そのためにわたしはそれが聖霊によるものと認めることができずに、良心の声や聞き慣れた聖書の言葉に過ぎないと思われるかも知れません。その時にこそ信仰は主の約束と父の賜物にしっかりと踏みとどまり、聖霊がわがうちに在して導きたもうことを信じなければなりません。この信仰のうちに自分の全存在を聖霊の導きと支配に明け渡し続けなさい。また聖霊の声に最も近くあると見える事柄に忠実でありなさい。このような信仰と忠実さとによってわたしの心は聖霊の声を聞き分けることができるように備えられます。聖霊の力は隠れた霊の深みから出て精神と意志を支配するに至り、心の目に見えない深奥にのみ聖霊が宿る状態から成長して、聖霊の豊かさによって満ち溢れる存在となるに至ります2。
信仰とは私共が生まれながらにもっている霊的能力の一つであり、それによって私共は卑しく相応しくないように見える中にも神的な事柄を見出すことができるようにと与えられているものです。目に見えない神の生命であり力であるものが私共の弱さを身にまとい、その中に自分を隠して来られるということが、神たる栄光のうちにある御父やそれを顕わす者である御子の場合に真実であるならば、ましてそれが聖霊の場合に当てはまらないことがあるでしょうか。そうですから御父に対する信仰を養い鍛錬しなさい。御父が御子を通してこの聖霊の賜物を私共の心に賜るのです。また御子に対する信仰に注意して養いなさい。御子の人格とみわざと栄光とはみな内住の聖霊という賜物に帰着するのです。同様に、目に見えず、時には感じることもできないこの聖霊という神的な力の臨在を信じる信仰を強くしなさい。聖霊は生ける人格として私共の弱さの中に降りたまい、私共の卑小さの中に身を隠したまい、私共をして御父と御子とが住まうに相応しいものとなしたもうのです。栄光の主をあがめつつ礼拝し、その中で一つひとつの祈りに対して聖霊が与えたもう思いを超えた答えを、私共の祈りが受け入れられたしるしとして握るように努めなさい。それは神についてのより深い知識と、より親密な神との交わりと、より豊かな神の祝福とを約束するものなのです。聖霊はあなたのうちに宿りたまいます。
聖霊の内住ということを正確に理解することの重要性は、私共の主の告別説教の中でそのことが占めている場所を見れば明らかです。このヨハネ十四章とそれに続く二章において、主は聖霊についてより明確に、教師ならびに証人として、イエスご自身をあらわし栄光を与える者として、また世に罪を悟らせる者として語っておられます。またここで主はご自身と御父との内住、葡萄の樹とその枝との一致、弟子たちに与えられるべき平和と喜びと祈りの力とを、聖霊が来られる「かの日」に結び付けておられます。しかしこのことに言及する前に、その一つの条件また唯一の根源として、主は『靈 …… 爾曹の衷に在ばなり』(ヨハネ十四・十七)との約束を置きたまいます。私共の師である主がこの第一に教えたもうたことを私共がはっきり認めて正しい関係性の中で理解するのでない限り、聖霊が私共のためになし得ることをすべて知ったとしても、あるいは私共が聖霊に全く依存する者であることを告白することも、私共に何の益ももたらしません。主が私共の教師であることができ、力を与える者であることができるのは、ただ内住の聖霊としてのみなのです。教会と信者が『爾曹の衷に在ばなり』との主の約束を受け入れて、その信仰に規定された生活を送る時、私共と頌むべき聖霊との正しい関係が回復されます。聖霊がすべてを引き受けて励ましたまいます。聖霊がその住み家として献げられた存在を、力をもって満たし祝福したまいます。
書翰を注意深く研究することによってもこのことは確認できます。パウロはコリントの人々に宛てた書翰の中で彼らを悲しむべき恐ろしい罪のゆえに叱責していますが、その時にさえ彼はすべての人々に、つまり最も弱く最も不信仰な人にも、『爾曹の身は爾曹が神より受たる爾曹の衷にある聖靈の殿にして爾曹は爾曹の屬に非ざることを知ざる乎』と語りかけます(コリント前書六・十九)。彼はひとたびこのことを信じることができたなら、ひとたびこの真理が神の定めたもうたしかるべき地位を取るに至ったならば、それは新しい聖なる生活への動機となるばかりでなく実際の力となることを確信しているのです。堕落に直面していたガラテヤの人々に対してもパウロはただ次のことだけを語りました。彼らは信仰の宣敎によって聖霊をすでに受けたのであること、神は御子の霊をすでに彼らの心の中に遣わしたもうたこと、彼らは内なる霊によって生かされていること、そして彼らがこのことを理解し信じさえすれば、彼らは霊によって歩むことができることを語ったのです。
現在のキリスト教会が必要としているのもこの教えです。聖霊に関する真理のこうした一面に対して信者たちがいかに無知であるか、またこの無知が如何に彼らがきよめられた歩みと行いをなすにあたっての弱さの原因となっているか、そのことを真に実感している者が私共のうちに稀であることをわたしは深く認識させられています。聖霊のみわざを求める多くの祈りはあるかも知れませんし、説教や祈りにおいては聖霊に全面的かつ絶対的に依存することを私共は正しく告白しているかも知れませんが、けれども聖霊の個人的で継続的な神的内住を受け入れ経験しない限りは、いつまでも失敗が続くのは驚くべきことではありません。聖霊の鳩は誰も侵入してきたり邪魔をしたりしないような休み場を求めます。神はその宮を独占したもうことを望みたまいます。イエスはその家全体が彼ひとりのためであることを望みたまいます。家全体が、内なる存在全体が聖霊のものとなり聖霊に満たされるまでは、聖霊はそこで望むとおりにみわざをなすことも、そこを統御することも、聖霊ご自身とその愛をあらわすこともできません。
このことに同意しとうございます。内住の意味するところを私共が完全に理解し、全能の力によって実現され保たれる神的現実として内住を受け入れ、『爾曹の衷に在ばなり』との約束を受け入れてそれによって生きるために私共自身を無価値な者として献身と信仰と崇敬とのうちに身を低くするならば、父はイエスのゆえに喜んで私共の経験を内住で満たしたまいます。そして私共にまことの弟子たる生涯を始めさせ、その秘訣となり力となるものは、内住の聖霊であることを私共は悟るようになります。
さいわいなる主イエス様、『靈 …… 爾曹の衷に在ばなり』とのあなたの貴きみことばのゆえにわたしの心はあなたをあがめます。深い謙遜をもって今一度このことばをわたしが受け入れます。そしてその豊かで幸いな意味をあなたが教えてくださるようにお願いします。
わたしは自分自身のため、またすべての神の子たちのために願います。あなたの愛がどれほど私共のそば近くまで来て、どれほど完全にまた親しくあなたがご自身を私共に与えたもうかを、私共に悟らせてください。あなたが私共の内に住み場所を得、私共の真正な生命として私共の内に宿りたもうことのほか、何をもってしてもあなたを満足させることはできません。この目的のためにあなたはその栄光の中から聖霊を私共の心に送り、聖霊が私共の存在の中心に生き、働き、私共にご自身をあらわすための力となるようになしたまいました。聖なる救い主よ、どうかあなたの教会が、これほどまでに隠され見失われてきたこの真理を見出し、それを経験し、そして力をもって証言することができるように導いてください。この喜ばしい音信が教会のすみずみにまで響き渡り、すべてのまことの信者があなたの霊の内住と導きとを得ることができるようにしてください。
そしてわたしの主よ、わたしが自分自身を離れてあなたの霊によってわたしの内に働きたもうあなたを待ち望む信仰の生涯をわたしに教えてください。わたしの生涯を、わが内に住みたもうキリストの霊に対するきよいへりくだった自覚のうちに常にあるものとしてください。
わたしは謙遜と沈黙のうちにこの聖なる秘義の前にひれ伏します。わが神よ、わが主イエスよ、あなたご自身の霊がわがうちに住まいたまいます。 アーメン
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