第 六 章  内 住 の 霊



『われ父にもとめん 父かならず別になぐさむる者を爾曹なんぢらたまひかぎりなく爾曹なんぢらともをらしむべし これすなは眞理まことみたまなり 世はこれをうくることあたはそはこれを見ずまたしらざるによる されど爾曹なんぢらこれしる そはかれなんぢらとともをりかつ爾曹なんぢらうちをればなり』(ヨハネ十四・十六、十七


 『爾曹なんぢらうちをればなり』。この単純なことばの中に、私共のしゅはその贖いの御業みわざであり冠である聖霊の内住のくすしき秘義を示しておいでになります。人間が創られたのはこのためでした。神の霊はこのため、すなわち神が人間の心に主となりたもうために、過ぎにし時代を通してむなしく人間に働きかけたまいました。このためにこそ主イエスは地上の生涯を送り、また死をも味わいたもうたのです。このことなくしては天の父の御目的も御業も達成されることがありません。このことがなかったために、主イエスと弟子たちとの活動には思わしい結果が伴いませんでした。主は彼らがこのことを理解し得ないことをご承知でしたから、それまではこのことを彼らに述べることを敢えてなしたまいませんでした。しかし今は最後の夜です。残る時はわずかとなりましたから、主は弟子たちにこの神的秘義を打ち明けました。彼らが主に取り残されて後に受ける損失は、主が肉体をもってともにありたもうた時よりもさらに大いなる恵みをもって償われるべきことを告げたまいました。すなわちイエスに代わって別の者がきたりて、彼らとともにいつまでもいまして彼等の内に宿りたまいます。その別の者は彼らのうちに宿り、彼らの主ご自身とともに父なる神をも受け入れることができるように彼らを備えます。『爾曹なんぢらうちをればなり』。

 父なる神は私共に二重にご自身の啓示を与えられています。まず、父はその御子みこによってその聖なるみかたちを啓示し、人々がその心と生命いのちとに御子を受け入れまつることによって御子に似たものとなるように、御子を示して人々を招きたまいました。次に父は聖霊を通してご自分の力を送り出したまい、聖霊が私共の内に入ることで、私共が御子と御父おんちちとを受け入れることができるように内から備えようとなしたまいます。聖霊の世は内的生命の世です。言葉の世、あるいは御子の世は、神の像にかたどって人間が創造された時から始まり、それに続く備えの時期を経過して、キリストが肉のかたちをとって現れる時にまで至るものであり、こちらは外的な準備の世であります。準備の世にも聖霊の特別な力ある働きがしばしば見られましたが、聖霊の内住は知られておらず、人間が聖霊にあって神の住まいとなることはありませんでした。そのことは後の世に達成されるべく取り置かれていました。永遠の生命が人間の真の生命となり、人間の存在と意識の奥底に入り、人間の意志と生命の形態をまとって人間の内に宿らなければなりませんでした。ちょうど霊を通して神の本質があるように、またちょうど霊は父と子という二つの位格がその根源と意識とを共有する原理となっているように、同じようにしてこの神の生命の霊がいま私共の内にあるべきなのです。すなわち言葉の最も深い意味において、聖霊が私共の生命の原理とならなければなりません。私共の人格の根源とならなければなりません。私共の存在と意識であるところの生命そのものとならなければなりません。聖霊は内在する神の絶対的支配をもって私共とともにある者とならなければなりません。それはちょうど御子の内なる御父、また御父の内なる御子のように、聖霊が私共に内住するということです。どうぞ聖なる崇敬のうちに身をかがめ、神を礼拝し、神を崇め、真に力ある祝福を受けとうございます。

 もし私共のむべきしゅがここで約束したもうところを私共が完全に理解し経験したいと望むのであれば、私共は何にも増して、主がここで語っておられることが神の内住についてであることを覚えねばなりません。神はその住みたもう所ではどこでもその姿を隠したまいます。自然界において、神は自らを隠したまいます。ほとんどの人はそこに神を見ることはできません。いにしえの世に神が聖徒にお会いになられた時にはいつでもご自身を人間の弱さの中に包み隠して現れたまいましたから、たびたび聖徒たちは神がすでに去った後になって、『まことにヱホバ此處こゝにいますにわれしらざりき』と申しました(創二十八・十六1むべき御子みこは神を顕わすためにきたりたまいましたが、その姿は最初から、乾燥した大地から出ている根のように見るべきうるわしさがなく、弟子たちさえたびたびつまずきました。人々はいつでも神の国は目に見える形を伴って来ることを期待します。神の国は隠された秘義であって、神のために明け渡され備えられた心に神が自らを顕わす固有の力によってご自分を知らしめることによってのみ、この秘義は受け入れられるものであるということを、人々は知りません。キリスト者たちは聖霊についての約束に心を奪われると、いつもある観念を心に抱くようになります。それは、聖霊の導きはどのようにして彼らの思想に知られるようになるのか、聖霊の励ましはどのように彼らの感情を奮い立たせるのか、聖霊によるきよめは彼らの意志と行動にどのような形で表れるのか、といった観念です。そのような人たちはもう一度思い出す必要があります。すなわち聖霊が来て住まう場所は、思想や感情や意志よりももっと深く、それらが座を占めている心という場所よりももっと深い、神に由来する霊という深みの中である、ということをです。

 したがってこの内住ということは初めから一貫して信仰によって認識されるべき事柄です。聖霊の働きの証拠を全く目にすることができないとしても、聖霊がわたしの内に住まわれていることを静かに敬虔に信じなければなりません。この信仰のうちに心を静めて動かされずに聖霊の働きを期待して待つ必要があります。この信仰のうちに、自己の知恵と力とを明確に拒絶して、子供のようなゆだねる心をもって聖霊の働きに依り頼まなければなりません。聖霊の働きは最初は目立たないひそやかなものであるかも知れません。そのためにわたしはそれが聖霊によるものと認めることができずに、良心の声や聞き慣れた聖書の言葉に過ぎないと思われるかも知れません。その時にこそ信仰はしゅの約束と父の賜物にしっかりと踏みとどまり、聖霊がわがうちにいまして導きたもうことを信じなければなりません。この信仰のうちに自分の全存在を聖霊の導きと支配に明け渡し続けなさい。また聖霊の声に最も近くあると見える事柄に忠実でありなさい。このような信仰と忠実さとによってわたしの心は聖霊の声を聞き分けることができるように備えられます。聖霊の力は隠れた霊の深みから出て精神と意志を支配するに至り、心の目に見えない深奥にのみ聖霊が宿る状態から成長して、聖霊の豊かさによって満ち溢れる存在となるに至ります2

 信仰とは私共が生まれながらにもっている霊的能力の一つであり、それによって私共は卑しく相応しくないように見える中にも神的な事柄を見出すことができるようにと与えられているものです。目に見えない神の生命いのちであり力であるものが私共の弱さを身にまとい、その中に自分を隠して来られるということが、神たる栄光のうちにある御父おんちちやそれを顕わす者である御子みこの場合に真実であるならば、ましてそれが聖霊の場合に当てはまらないことがあるでしょうか。そうですから御父に対する信仰を養い鍛錬しなさい。御父が御子を通してこの聖霊の賜物を私共の心に賜るのです。また御子に対する信仰に注意して養いなさい。御子の人格とみわざと栄光とはみな内住の聖霊という賜物に帰着するのです。同様に、目に見えず、時には感じることもできないこの聖霊という神的な力の臨在を信じる信仰を強くしなさい。聖霊は生ける人格として私共の弱さの中にくだりたまい、私共の卑小さの中に身を隠したまい、私共をして御父と御子とが住まうに相応しいものとなしたもうのです。栄光のしゅをあがめつつ礼拝し、その中で一つひとつの祈りに対して聖霊が与えたもう思いを超えた答えを、私共の祈りが受け入れられたしるしとして握るように努めなさい。それは神についてのより深い知識と、より親密な神との交わりと、より豊かな神の祝福とを約束するものなのです。聖霊はあなたのうちに宿りたまいます。

 聖霊の内住ということを正確に理解することの重要性は、私共のしゅの告別説教の中でそのことが占めている場所を見れば明らかです。このヨハネ十四章とそれに続く二章において、主は聖霊についてより明確に、教師ならびに証人として、イエスご自身をあらわし栄光を与える者として、また世に罪を悟らせる者として語っておられます。またここで主はご自身と御父おんちちとの内住、葡萄の樹とその枝との一致、弟子たちに与えられるべき平和と喜びと祈りの力とを、聖霊が来られる「かの日」に結び付けておられます。しかしこのことに言及する前に、その一つの条件また唯一の根源として、主は『みたま …… 爾曹なんぢらうちをればなり』(ヨハネ十四・十七)との約束を置きたまいます。私共の師である主がこの第一に教えたもうたことを私共がはっきり認めて正しい関係性の中で理解するのでない限り、聖霊が私共のためになし得ることをすべて知ったとしても、あるいは私共が聖霊に全く依存する者であることを告白することも、私共に何の益ももたらしません。主が私共の教師であることができ、力を与える者であることができるのは、ただ内住の聖霊としてのみなのです。教会と信者が『爾曹なんぢらうちをればなり』との主の約束を受け入れて、その信仰に規定された生活を送る時、私共とむべき聖霊との正しい関係が回復されます。聖霊がすべてを引き受けて励ましたまいます。聖霊がその住み家として献げられた存在を、力をもって満たし祝福したまいます。

 書翰を注意深く研究することによってもこのことは確認できます。パウロはコリントの人々に宛てた書翰の中で彼らを悲しむべき恐ろしい罪のゆえに叱責していますが、その時にさえ彼はすべての人々に、つまり最も弱く最も不信仰な人にも、『爾曹なんぢらの身は爾曹なんぢらが神よりうけたる爾曹なんぢらうちにある聖靈の殿みやにして爾曹なんぢら爾曹なんぢらものあらざることをしらざる』と語りかけます(コリント前書六・十九)。彼はひとたびこのことを信じることができたなら、ひとたびこの真理が神の定めたもうたしかるべき地位を取るに至ったならば、それは新しい聖なる生活への動機となるばかりでなく実際の力となることを確信しているのです。堕落に直面していたガラテヤの人々に対してもパウロはただ次のことだけを語りました。彼らは信仰の宣敎によって聖霊をすでに受けたのであること、神は御子みこの霊をすでに彼らの心の中に遣わしたもうたこと、彼らは内なる霊によって生かされていること、そして彼らがこのことを理解し信じさえすれば、彼らは霊によって歩むことができることを語ったのです。

 現在のキリスト教会が必要としているのもこの教えです。聖霊に関する真理のこうした一面に対して信者たちがいかに無知であるか、またこの無知が如何に彼らがきよめられた歩みと行いをなすにあたっての弱さの原因となっているか、そのことを真に実感している者が私共のうちに稀であることをわたしは深く認識させられています。聖霊のみわざを求める多くの祈りはあるかも知れませんし、説教や祈りにおいては聖霊に全面的かつ絶対的に依存することを私共は正しく告白しているかも知れませんが、けれども聖霊の個人的で継続的な神的内住を受け入れ経験しない限りは、いつまでも失敗が続くのは驚くべきことではありません。聖霊の鳩は誰も侵入してきたり邪魔をしたりしないような休み場を求めます。神はその宮を独占したもうことを望みたまいます。イエスはその家全体が彼ひとりのためであることを望みたまいます。家全体が、内なる存在全体が聖霊のものとなり聖霊に満たされるまでは、聖霊はそこで望むとおりにみわざをなすことも、そこを統御することも、聖霊ご自身とその愛をあらわすこともできません。

 このことに同意しとうございます。内住の意味するところを私共が完全に理解し、全能の力によって実現され保たれる神的現実として内住を受け入れ、『爾曹なんぢらうちをればなり』との約束を受け入れてそれによって生きるために私共自身を無価値な者として献身と信仰と崇敬とのうちに身を低くするならば、父はイエスのゆえに喜んで私共の経験を内住で満たしたまいます。そして私共にまことの弟子たる生涯を始めさせ、その秘訣となり力となるものは、内住の聖霊であることを私共は悟るようになります。


 さいわいなる主イエス様、『靈 …… 爾曹なんぢらうちをればなり』とのあなたの貴きみことばのゆえにわたしの心はあなたをあがめます。深い謙遜をもって今一度このことばをわたしが受け入れます。そしてその豊かで幸いな意味をあなたが教えてくださるようにお願いします。

 わたしは自分自身のため、またすべての神の子たちのために願います。あなたの愛がどれほど私共のそば近くまで来て、どれほど完全にまた親しくあなたがご自身を私共に与えたもうかを、私共に悟らせてください。あなたが私共の内に住み場所を得、私共の真正な生命として私共の内に宿りたもうことのほか、何をもってしてもあなたを満足させることはできません。この目的のためにあなたはその栄光の中から聖霊を私共の心に送り、聖霊が私共の存在の中心に生き、働き、私共にご自身をあらわすための力となるようになしたまいました。聖なる救いぬしよ、どうかあなたの教会が、これほどまでに隠され見失われてきたこの真理を見出し、それを経験し、そして力をもって証言することができるように導いてください。この喜ばしい音信おとずれが教会のすみずみにまで響き渡り、すべてのまことの信者があなたの霊の内住と導きとを得ることができるようにしてください。

 そしてわたしのしゅよ、わたしが自分自身を離れてあなたの霊によってわたしの内に働きたもうあなたを待ち望む信仰の生涯をわたしに教えてください。わたしの生涯を、わが内に住みたもうキリストの霊に対するきよいへりくだった自覚のうちに常にあるものとしてください。

 わたしは謙遜と沈黙のうちにこの聖なる秘義の前にひれ伏します。わが神よ、わがしゅイエスよ、あなたご自身の霊がわがうちに住まいたまいます。 アーメン


要  点

  1. 神の御子みこが罪ある肉の形をもって来られたこと、言葉が肉となったこと、言葉が生来のままの私共の間に宿りたもうたこと、これは何という秘義でしょうか。受肉の秘義は確かに偉大です。しかしまた、神の霊が罪の肉なる私共の内に住みたもうという秘義も同様に偉大です。『神 …… 奥義──爾曹なんぢらなかに傳へしキリスト──のさかえのいかにゆたかなるをしらしめんと』(コロサイ一・二十七)したもうところの聖徒たちはいかに幸いなことでしょうか。
  2. 心には、恵みの証拠とやわらぎの根拠を求めて自分自身の思想と感情と意志とを探ろうとする内向性があります。これは不健康であり、信仰的ではなく、目をキリストから自分自身に向けてしまいます。しかしこれとは別に、信仰の最高の実践の一つとして目を内側に向けるという内省の仕方があります。それは、目が自分で見ることのできるあらゆるものに対して目を閉じ、心が信仰によってその最も内奥に新しい霊が存在していること、そこにいま聖霊が宿っておられることを認めようとすることです。この信仰によって心はその心自体を聖霊によって新しくされるべく躊躇なく献げ、また心のもつあらゆる能力を内住の聖霊によってきよめ導いていただくべくゆだねるのです。内なる宮とそこに住まわれる方に対するこのような自覚が聖なる静まりの内に日々新たにされることなくしては、御父おんちちが聖霊によって力をもって働かれることを期待する明らかな信仰の祈りをすることも、イエスが内から流れずるける水の川を与えてくださるという確信を持つこともできません。
  3. 爾曹なんぢらうちに』──あなたがたの中に──その最も内奥の部分に──これが神の約束でした。神に感謝せよ、聖霊がわたしの内に住みたまいます。
  4. 宮にのぼるにあたっては第一に崇敬の念を抱かなければなりません。すなわち頭の覆いを取り去ることです。聖霊の宮なるわたしの内に住まう聖霊に対する場合もこれと同様であり、第一にまた常に変わらず抱かなければならないのは、その聖なる臨在に対する深い崇敬と畏怖です。
  5. かれなんぢらとともをりかつ爾曹なんぢらうちをればなり』(ヨハネ十四・十七)。教会とともにある聖霊の臨在の永続性、信者各自とともにある聖霊の臨在の親密性、この二つの思想に堅く立ちなさい。
  6. 人が聖霊をもつことと、聖霊が人を領有したもうこととの間には、大きな違いがあります。

  1. 幕屋と宮にあっては神は暗黒の中に住まいたまいました。神はそこにおられましたが、幕の背後におり、信じ畏れる対象ではあっても見る対象ではありませんでした。→ 本文に戻る
  2. 補註3を見よ。(→ 本文に戻る


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