第 十 二 章  罪を悟らせる霊



もしゆかば彼(訓慰師なぐさむるもの)を爾曹なんぢらおくらん かれきたらんとき …… 世をして罪ありとさとらしめん』(ヨハネ十六・七、八


 気づきにくいことですが、この文章にある二つの言明の間には大切な関係性があります。それは、世に罪を悟らしめるために来る前に、聖霊はまず弟子たちに臨みたまいましたことです。聖霊は弟子たちのうちにその家庭を築き、拠点を定めた後に、そこから彼らを通して世に罪を悟らしめるみわざをなそうとされました。『そのきたる時わがためあかしをなすべし 爾曹なんぢらまた …… あかしをなすべし』(ヨハネ十五・二十六、二十七)。聖霊が人にあらがい世の罪を示すという偉大な働きをなしたもうためには、まずこの世で弟子たちのうちにしっかりした足場を持つ必要があることを、彼らは自覚しなければなりませんでした。彼らは聖霊がこの世に働きかける器となるべく天からの力を受けるために、聖霊を通して火のバプテスマを受ける必要がありました。世の罪を示す聖霊の偉大な力は彼らのうちに宿り、彼らを通して働くはずでした。上記の言葉によってむべきしゅが弟子たちに、また私共に教えようとしておられたのはこのことなのです。これらの言葉の教えるところに深く思いをめぐらせる必要があります。

 まず第一に、聖霊が私共に臨みたもうのは、私共を通してほかの人々に働きかけるためです。聖霊は聖なる者の霊であり、あがないの神の霊であって、聖霊が私共の中に入ってもその本性が変わるわけではありませんし、その神としての性格を失うこともありません。聖霊はなお人間にあらがい人間の解放を求める神の霊なのです。無知や利己心によって妨げられない限り、聖霊はご自身が世に対してなさなければならない働きをなすために、その宮である私共の心から力を及ぼしたまいます。その働きをなすために、すなわち罪を示し罪からの救い主であるイエスをあかしするために、聖霊は私共を熱心で大胆な者となしたまいます。聖霊がこのことをなすときには、とりわけ十字架につけられ天に挙げられたもうたキリストの霊として働きたまいます。イエスが聖霊を限りなく受けたもうたのは何のためでしょうか。『しゅみたまわれにいまゆゑ貧者まづしきものに福音を宣傳のべつたへん事をわれあぶらそゝぎて任じ 囚人めしうどゆるさん事を示さんがためわれつかはせり』とイエスはおっしゃいます(ルカ四・十八、十九)。キリストは聖霊を通して神にご自身を献げられ、そしてきよめの霊である聖霊を通して死者の中から甦らされました。この同じ霊を、キリストは教会に送りたもうたのです。こうして聖霊はキリストの内に有していたような住まいを教会の内に持つはずでした。そして神の聖霊は、キリストにあって神の働きをなしたもうたのに少しも劣らずに、教会の人々にあってもそれをなしたまいとうございました。聖霊は暗闇に輝く光であり、暗闇を照らし、罪に定め、征服したまいます。世に対しては『さばきするみたまとやきつくすみたま』(イザヤ四・四)として罪を認め回心させる神の力であります。しかし聖霊は神の霊として直接に天下るのではなく、教会の内に住まう聖霊として世の罪を示すはずでした。『彼を爾曹なんぢらおくらん かれきたらんとき …… 世をして罪ありとさとらしめん』とあります。聖霊が世に対して働きかけるのは、私共において、私共を通してなのです。

 第二には、聖霊は私共を通してのみ他の人々に働きかけるのですが、それはまず私共を聖霊ご自身との完全な一致に入らしめたのちであるということを知らねばなりません。聖霊が私共の内に入るのは、ご自身が私共のうちにあってその品性となり生命となるまでに私共と一つになるためであります。私共の働きが、聖霊が私共にあって私共を通して他の人々に働きかけたもうその働きと一致するようになるためです。

 世にある罪を認めさせるためにこの真理を適用することはとても大切であります。『罪ありとさとらしめん』というしゅの言葉は信者たちに対してはいつも適用されています。彼らに罪を絶えず自覚させることは主が彼らにあってなさなければならない働きだからです。このようにまずは信者に対してあてはめられます。この聖霊の最初の働きは最後まで残るものであり、聖霊のすべての慰めときよめのわざの基礎をなすものです。罪を犯すことの危険と恥に対する感受性を聖霊が保ってくださる時にのみ、心はその唯一の安全な隠れ場であるイエスの䕃に身を隠して神の御前みまえにつつましい場所を得ることができるのです。聖霊がキリストの聖潔の生涯を私共の内にあらわし分け与えてくださることの確かな結果は、私共が罪の罪深さについて深い感覚を持つようになるということです。けれどもこの主の言葉はもっと大きな意味を有しています。もし聖霊が私共を通して、つまり言葉によるのであれ行いによるのであれ私共のあかしを通して、世に罪ありと悟らしめようとしておられるのであれば、聖霊はまず私共に世の罪について確信させなければなりません。世の不信仰と私共の救いぬしに対する拒絶という罪深さに対する洞察力と感覚を、まず私共に個人的に与えたもうはずであります。私共は世の数々の罪の行いのそれぞれを、この拒絶に対する原因、証拠、また結果として見、感じなければなりません。それは罪に関して聖霊が思い、感じているように、私共もまた思い、感じるようになるということです。そうなった時にはじめて、聖霊が私共を通して働かれるために私共の側の内的な準備が整うことになります。その時には罪と神とを明らかに指し示す私共のあかしと聖霊のあかしとの間に内的な一致が実現して、それが上からの力を伴って人々の良心に届き、罪の自覚をもたらすことになります。

 ご承知のように、私共は肉の力のもとにある時には、自分の目の中にあるはりを認めることができない精神をもって他人を裁くということを簡単に行います。そしてもし私共が咎めている事柄が実際に私共の側にはないのであれば、私共は行いによって『なんぢ其處そこにたちてわれにちかづくなかれ、そはわれなんぢよりもきよし』(イザヤ六十五・五)と言うのみです。私共にできることは、誤った精神と自分自身の力をもって他人をさばき働きかけることであるか、もしくは働きかける勇気を全く持たないかです。というのは、この時には私共は聖霊から来る罪の認識なしに他人の罪と罪深さとを見ているのだからです。それに対して聖霊が私共に世の罪について認識させる時には、聖霊の働きは二つのしるしをもたらします。第一は、罪に対する深い真実の悲しみをもって、神とその名誉に対する熱情の前に自らを無にすることです。第二は、救いの可能性と力とを堅く信じる強い信仰です。この時には私共には全体に対するそれぞれの罪の恐るべき関係性が見えるようになります。全体を十字架の二重の光の下に見るようになります。すなわち私共は罪を神に対する恐るべき侮辱として、また弱い心に恐るべき力をふるうものとして、口にできないほど嫌悪すべきものと見なすと同時に、また罪をイエスにおいて咎められ、あがなわれ、除去され、征服されたものとして見るのです。私共は神がその聖なる所から世を見られるようにしてこの世を見ることを学びます。その時には私共は無限の憎しみをもって罪を憎むと同時に、神が御子みこを世に送られた愛をもって罪人つみびとを愛するようになります。御子は生命を与え、罪を滅ぼし、罪に囚われていた人々を解き放ちます。

 神がキリストを拒んでいる世の罪について、真実の深い認識を神につく人々に与えてくださり、それによって聖霊が彼らを用いて世の罪を明らかにするために相応しい備えとなしてくださることを祈ります。

 第三に、罪についてのこのような認識を得るためには、人はそのために祈るだけでは十分でなく、その全生活を聖霊の導きのもとにゆだねなければならないことです。聖霊のさまざまな賜物が与えられることは、聖霊が人格として内住して内的生活の主権を執るかどうか、また罪が滅ぼされるためにその生命を献げた者としてのキリストが私共の内に啓示されるかどうかにかかっているのです。このことはどれほど熱心に言っても言い過ぎにはなりません。私共のしゅがおっしゃった『かれ …… 爾曹なんぢらうちをればなり』(ヨハネ十四・十七)との言葉は限りない意味を持つものであり、この言葉を発せられた時に主は聖霊のすべての教え、きよめ、力に至る秘義を開示されたのです。聖霊は神の生命です。聖霊は私共の生命に入り、私共の生命となりたまいます。聖霊が生命を支配し感化を及ぼすことができるようになった時に、聖霊はまた私共にあって彼の望むすべてをなすことができるようになります。人が無知のゆえに聖霊の働きを見過ごしたり失ったりすることがないように、さまざまな聖霊の働きに信者の注意を注ぐことは望まれることであり、また必要なことです。しかし聖霊の働きについて新しい認識を得るたびに、いま述べた真理をより確実に把握することはさらに大切なことであります。あなたの生命を聖霊の中におきなさい、そうすればこの特別な祝福が留保なく与えられます。世の罪についての深い霊的な自覚とは、罪の恐るべき実在性とその力、またその限りない罪深さに心を深く揺り動かされる感覚をもつことです。このような自覚をあなたも持ち、聖霊が罪人つみびとを罪に目覚めさせるために用いるに相応しい者となりとうございますならば、あなたの全生活と全存在とを聖霊にゆだねなければなりません。内住される神というこの驚くべき秘義に思いを致すことによって、あなたの精神と心とをしずめて謙遜な畏れと礼拝に向かわせなさい。聖霊にあらがう大敵である肉と利己的生とを日々聖霊にゆだねて、それを殺し、死の内にとどめていただきなさい。罪を取り除くためにご自分を死にわたされたかたの霊に満たされるまで安んじてはなりません。私共の全存在と行為とを彼の支配と感化のもとに置かねばなりません。あなたの生活が聖霊にあって健やかにされ強められ、あなたの霊的な体質が力を与えられるにつれて、あなたの目は罪の本性をよりはっきりと見ることができるようになり、あなたの心はより鋭敏に感じ取ることができるようになります。あなたの思考と感情はあなたのうちに息づいておられる聖霊のそれと一致するようになります。すなわち罪に対する深い恐怖、罪からの贖いに対する深い信仰、そして罪の中にある人々に対する深い愛があなたのものとなります。あなたはあなたの主にならって、人々を罪から解き放つためにあなたの生涯を献げることを望むようになります。そして主はあなたを、世を罪に覚醒させる聖霊に相応しい器となしたまいます。

 第四に、もう一つ学ぶべきことがあります。本書で私共は、すべての人が聖霊に満たされることができる道を見出そうとしています。そのための条件が一つあります。聖霊は世をして罪を悟らせるために私共の内に宿らねばならないことです。『彼を爾曹なんぢらおくらん …… かれ世をして罪ありとさとらしめん』(ヨハネ十六・七、八)。あなたの周囲にいる人々の罪を理解し、感じ取り、それを担うためにあなた自身を聖霊に献げなさい。あなた自身の罪に対すると同じように世の罪に対して心を用いなさい。あなたの罪と同じように彼らの罪も神を悲しませるのではありませんか。大いなるあがないは彼らのためにも備えられているのではありませんか。あなたの内に住む聖霊は彼らが罪を認めることをも望んでおられるのではありませんか。ちょうど聖霊がイエスの肉体と本性の中に住み、イエスをして感じ、語り、行為をなさしめたもうたように、また神がイエスを通して神のきよい愛の意志を実現したもうたように、同じようにいま聖霊は信者の内に住まい、信者たちは聖霊の家となっています。キリストがひとたび世に宿りたまいましたことと、いま聖霊が与えられていることのただ一つの目的は、罪が滅ぼされて無に帰せられるためであります。このことは聖霊と火のバプテスマがくだったことの偉大な目的でありまして、それによって信者においてとともに信者を通して罪を悟らせ、罪から解放するためでした。どうぞ世の罪に関与し続けなさい。イエス・キリストの愛と信仰とをもって、貧しい人々と望みを失っている人々のしもべまた助け手として世の罪に相対あいたいしなさい。あなたがキリストに倣うことによって、キリストを信じるあなたの信仰が現実であることを示すためにあなた自身を献げなさい。そうすれば聖霊は世をしてその不信仰を悟らしめます。あなた自身の喜びのためにではなく、聖霊がキリストを通して働かれたのと同様にあなたを通して父のみわざをなすという目的のために、内住の霊を完全に体験することを求めなさい。他の信者たちとの愛の一致を保ち、人類が罪から救い出されるために働きかつ祈りなさい。『世をしてなんぢわれつかはしゝ事を信ぜしめんためなり』(ヨハネ十七・二十一)。キリストが実在することをあかしし、不信仰の罪を世に悟らしめるものは、自己犠牲的な愛に生きる信者の生活なのです。

 人が生活し事業を営む上で満足と成功を得るための大切な要件は、そのために相応しい建物を持っているということです。信者の内に住む聖霊も、神の罪に対する思いと贖いの力とを満たすにふさわしい、自由で聖霊に明け渡された全き心をそこに見出すならば、聖霊はそのような人を通してご自身のみわざをなすことができるのです。あらゆる面で聖霊を受けるために最も確かな道は聖霊に全面的に明け渡すことであり、罪についてのキリストの思いが私共の内に働くようにすることです。永遠の霊を通してキリストは『おのれ犧牲いけにへとなして罪を除』きたまいました(ヘブル九・二十六)。聖霊は私共のうちにあっても、キリストの内にあった時と同じようでありたいと願いたまいます。キリストについて真実であったことはすべて私共についても真実とならねばなりません。

 皆さんは聖霊に満たされたいと思いますか。自分の内に聖霊による明確な理解を得て世を罪に目覚めさせることを願いますか。このことにおいてもしあなたが聖霊と完全に心を一つにし、そのためにあなたを用いることができることを聖霊が認め、あなたがこの問題に関する聖霊の働きを自分自身の働きとするのであれば、あなたは聖霊が豊かにあなたの内に住み、あなたにあって力をもって働きたもうであろうことを確信することができます。キリストが来られたただ一つの目的は罪を取り除くことでした。聖霊が人間のところに来てなそうとしておられるただ一つの働きは、人間に罪を棄てるように説得することです。信者の生のただ一つの目的は、この罪に対する戦いに加わること、そして神の意志と誉れとを追求することです。私共は罪を示す証言においてキリストと、またキリストの霊と一致しなければなりません。キリストの生とキリストの霊とをあらわすということが効果を発揮するのです。キリストによる聖潔、キリストにある喜び、そしてキリストへの愛と服従とが、世にその不信仰を罪として認めさせます。罪のためのいけにえとしてのキリストの死が聖霊の力の内にあってその栄光への道となりましたように、世に罪を認めさせるという聖なる事業のために私共が全生活を聖霊にゆだねる時に、聖霊の内住という私共の経験はますます豊かなものとなります。霊を通してのキリストの内なる臨在が罪の認識を世にもたらすのです。


 むべきしゅなるイエス様、あなたにある人々のうちに聖霊の臨在と力が与えられているのは、世があなたを拒んだことを罪として認め、罪人つみびとたちが世から救い出されてあなたを受け入れるようになるためです。聖霊に満たされた人々が、あなたが自分のためになしてくださったことをその聖なる喜びに力づけられて証言することによって、あなたが確かに神の右に座しておられることが世に明らかになります。あなたがなしてくださったことをあかしする生ける証人の群があることによって、世はその罪と悪とを認めざるを得なくなるのです。

 しゅよ、世はこうしたあかしをまだほとんど目にしていません。主イエスよ、深い自責の念とともにあなたに願い求めます。どうかあなたの教会がこの召命を知るようにせき立て、また目覚めさせてください。主よ、それぞれの生活の中にある信者の一人ひとり、また交わりのうちにあるあなたを信じる者すべてが、あなたに対する信仰の中にある現実性と祝福と力とを世に対してあかしすることができるようにしてください。そして父なる神があなたを世に送られたこと、神があなたを愛されたように彼らをも愛し通されたことを、世が信じるようにしてください。

 しゅイエス様、世の罪をあなたの民にとっての心の重荷となしてください。その重さのために、彼らがあなたの肢体のひとつとなること、聖霊が内住してあなたの臨在を世にあらわす器となることを目的として生きるほかなくなるようにしてください。あなたがその臨在と救いの力とを私共の内にあらわすことを妨げるいかなるものをも取り除いてください。イエス様、聖霊が世の罪を示すために私共の内にきたりたまいます。どうぞ聖霊を遣わして、ますます大きな力をもって働いてくださるようになしてください。 アーメン


要  点

  1. 不信仰、すなわちキリストの拒絶は、世の大きな罪であります。それは世を支配する霊です。わたしはこの観点から世に対する自分の見方全体とかかわり方とを決定しなければなりません。キリストを拒絶することは世の本質であります。
  2. 拒絶されたキリストは世を去って父のみもとに赴きたまいましたが、キリストはその民を世に残し、聖霊によってその民の内に住みたまいます。それは彼らのきよめられた生の力と、そのような生を与えられたキリストに対する彼らの信仰の表明とによって、世の罪と悪とが明らかになるためです。聖霊がわたしにあって、またわたしの生き方によって、不信仰の罪を世に認めさせるためには、聖霊に対する全き献身がどれほど必要とされることでしょうか。
  3. 「ここで約束されていることは、ただ信者の意識に現れるだけでなく、無関心なこの世に対しても打ち消しがたい驚くべき一つの事実として自らを証明することになるような、そういう聖霊の流出である。キリストが彼につく人々と共にあり、また神の右の座に就かれていることを世の人々が知るようになるためには、神の霊がキリストに属する民に豊かに注がれるという偉大な出来事が必要なのではないだろうか。」──ボウエン
  4. キリスト教の真理が世に受け入れられるためには、まず世はその罪を認めさせられなければなりません。罪だけがキリストを理解することを可能にします。そしてキリストを理解するためには多くの証拠や論証が必要なわけではありませんが、ただまず最初に聖霊の明らかな臨在、御座みざにあるキリストから信者たちに聖霊が遣わされているという明らかな証拠が必要です。そしてこのためには、父なる神がその栄光の豊かさの中から私共すべてを彼の霊の力によって強めてくださることを待ち望む、熱心で継続的な、一致による信仰の祈りが必要なのです。


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