『生命を賜る者は靈なり 肉は益なし 我なんぢらに曰し言は靈なり 生命なり …… 主よ 我儕は誰に往んや 永生の言を有る者は爾なり』(ヨハネ六・六十三、六十八)
『かれ我儕をして新約の役者となるに足しむ 儀文の事るに非ず 靈に事ふる也 そは儀文は殺し靈は生せばなり』(コリント後書三・六)
私共の頌むべき主は、ご自身が生命のパンであって、ご自身の肉と血が永生に至る食べ物であり飲み物であるとおっしゃいました。弟子たちの多くにとってはこれは難しい言い方であり、彼らには理解できませんでした。イエスは、聖霊がくだって彼らが聖霊を有するようになった時に初めて、これらの言葉を彼らは明らかに悟るであろうとおっしゃいます。『生命を賜る者は靈なり 肉は益なし 我なんぢらに曰し言は靈なり 生命なり』と。
『生命を賜る者は靈なり』という言葉は、パウロの『靈は生せばなり』という言葉とも呼応するもので、この中には霊というものの定義に最も近いものがあります。コリント前書十五・四十五の『生命を予ふる靈』もまた同じです。すなわち霊は、生まれつきの霊であっても恵みによる霊であっても、常に必ずまず生命を与える原理として働くものであります。この一事をしっかりと把握することはいたって肝要でありまして、霊が人のうちになしたもうみわざ、すなわち人に印し、きよめ、光を与え、また力を与えるという聖霊のみわざは、すべてこの一事に根ざしています。内心の生命である聖霊を知り、崇め、聖霊に場所を与える時、また内なる生命として聖霊を待ち望む時に、霊による他のすべての恵みの働きをもまた経験することができるようになります。こうした働きは内なる生命の発露にほかならず、内なる生命の力によってのみ経験できることなのです。『生命を賜る者は靈なり』。霊と対照的な位置に主は肉を置きたまいます。『肉は益なし』とあります。主は肉が罪の基礎にあるとおっしゃっているのではありません。肉とは、宗教的な側面からいえば、生来の人、あるいは信者であっても聖霊にまったく委ねることをしない人が、神に仕えたり、神に関する物事を知り所有しようとしたりする時に働いている力のことです。そしてこのような努力がすべて無駄なものであることを、主は『益なし』と表現しておられるのです。こうした努力は不十分であって、まさに霊的実体であるところの神に関する物事に近づくためには役に立ちません。パウロが殺す儀文を霊に対照させている時にも同じことを意味しています。律法が支配していた時代はまたすべて儀文と肉とが支配する時代にほかなりませんでした。律法がかつては栄光であってそれによるイスラエルの特権は大いなるものであったとしても、『昔榮ありと爲しものも後の榮に比れば榮なき者となれり 蓋のちの榮の更に愈れるに緣てなり』(コリント後書三・十)とパウロが述べているとおりなのです。キリストご自身でさえ肉の体のうちにあられた間は、その肉の幕が裂かれることによって聖霊の時代が肉の時代に取って代わるまで、その弟子たちのうちにキリストが望んでいたことをご自分の言葉によって実現させることができませんでした。『生命を賜る者は靈なり 肉は益なし』。
私共の主は、特にそれまでに語りたもうたことばとそれが含む真理とにこの言葉をあてはめて、『我なんぢらに曰し言は靈なり 生命なり』とおっしゃいました。ここで主は二つのことを弟子たちに教えようと願っておられます。まず第一には、その語りたもうた言葉は確かに生ける種子であって、それを受け入れて心にしっかり保つ人々の中で発芽して成長し、生命力を発揮し、その言葉の意味を明らかにし、それが有する神的な力を発現する力を備えているということです。主は弟子たちがその言葉をすぐに理解することができなくても失望することはありません。主の言葉は霊であり生命であって、理解のためにではなく生命のためにあるのです。それは見えざる聖霊の力によってもたらされ、あらゆる思想よりも高く深く生命の根源に入り込みます。その言葉自体が神的生命であって、その言葉が表す真理をその言葉を受ける人々の経験の中に、神的なエネルギーによって実効性のあるものとして実現します。第二に、このことからも分かるとおり、キリストの言葉はそれを受け入れるために霊的本性を必要とします。みことばは精神や感情や意志のみによって受け入れるだけでなく、それらを通して生命に到達しなければなりません。その生命の中心に人間の霊的本性があり、その声として良心があります。そこでみことばの権威が承認されねばなりません。しかしその良心では未だ十分ではありません。というのは良心は人間の内部では自分では制御できない諸力のうちに囚われているからです。キリストの言葉を私共の内に真実となり力とならしめるものは、神から出てキリストによってもたらされた聖霊です。聖霊が私共の生命となりたまいます。みことばを受け、同化して私共の生命のうちに入れたもうものは聖霊なのです。
このことは、頌むべき霊のはたらきを学ぶにあたってどれほど明瞭にかつ深く留意してもなお足りないことです。聖霊は私共を二方向の誤謬から救います。一方では私共を、聖書によらずに聖霊の教えをもてあそぼうとする誤りから救い、他方では聖霊なしで聖書の教えをわがものとしようとする誤りから救います。
一方の側で私共には右手の過ちと呼ばれるものがあります。それは聖書の言葉によらずに聖霊の学びを得ようとすることです。聖なる三位一体において、神のことばであるキリストと聖霊とは互いに父にあってひとつです。神のことばである聖書についてもこれは同じことです。いつの時代においても聖霊は聖書に記された神の思想を具現してきましたが、今はこの言葉の力と意味とを啓示するという目的ために私共の心の中に働きたまいます。もしあなたが聖霊に満たされたいと望むなら、聖書の言葉に満たされなくてはなりません。もし聖霊の神的生命があなたのうちに強く成長して、あなたの本性のすみずみにまでその力が行き渡ることを望むなら、あなたのうちにキリストの言葉を豊かに宿らせなさい。もし聖霊があなたのうちで、イエスが語られたことを相応しい時にあなたの精神に思い出させて正確にあなたの必要を満たすべく、最高指導者の地位を執りたもうことを望むなら、キリストの言葉が常にあなたのうちにとどまるようにしなければなりません。もし聖霊があなたのうちにどのような場合にも神の意志をあらわし、相互に矛盾するように見える要請や方針の中からほんとうにあなたがしなければならない事柄を正確に指し示し、あなたが必要とする時に神の意志を示したもうことを望むのであれば、聖書の言葉を聖霊がいつでも使うことができるようにあなたのうちに用意しなさい。もし永遠のことばをあなたの光としたいのであれば、聖書に記された言葉を聖霊にあなたの心に書き込んでいただきなさい。『我なんぢらに曰し言は靈なり 生命なり』と。その言葉を手に取り、心に蓄えなさい。その言葉を通して聖霊はその生命の力をあらわしたまいます1。
私共にはもう一つ、左手の過ちと呼ばれるものがあり、こちらのほうがよく見られます。あなたのうちで聖霊が聖書の言葉を受け入れてそれを内的生活に適用するのでない限り、その言葉があなたのうちで生きて働くとは一瞬たりとも考えてはなりません。如何に多くの聖書の講読、研究、説教が、聖書の意味を理解するということを第一の中心的な目標として行なわれていることでしょうか。人々は聖書の意味を正しく正確に理解しさえすれば聖書がもたらすはずの祝福が自然な結果としてやってくるものと考えています。決してそうではありません。聖書の言葉は種子であります。種子には必ず肉的な部分があり、そこに生命が隠されています。種子はその肉的なもののうちに最も高貴で完全な生命を宿しているのですが、その生命は種子が適した土壌に蒔かれて日光と水の影響にさらされないうちは発芽して成長することができません。同様に私共はいかに知力と誠意を尽して聖書の言葉と教理を身につけても、それだけではその生命と力について知るところがほとんどありません。いにしえの聖徒たちが聖霊に感化されることによって語った聖書は、同じ聖霊によって教えられる現代の聖徒たちによってしか理解されることはありません。『我なんぢらに曰し言は靈なり 生命なり』と、その言葉を理解しそれに参与するためには『肉は益なし』。『生命を賜る者は靈なり』──私共のうちにある生命の霊なのです。
このことは、キリストの時代のユダヤ人の歴史が私共に与える大切な教訓の一つです。彼らは自分たちでもそう思っていたように神の言葉と名誉とに対してこの上なく熱心でしたが、その熱意はすべて神の言葉についての彼らの人間的な解釈によるものであることが明らかになりました。イエスは彼らにおっしゃいました。『なんぢら聖書に永生ありと意て之を探索 この聖書は我について證する者なり 爾曹わが所に生を得んがために來るを欲ず』と(ヨハネ五・三十九、四十)。確かに彼らは聖書の諸巻を、自分たちを永生に導くものと信じていましたが、しかし決してそれをキリストをあかしするものとして見ることをせず、したがってキリストに来ようとはしませんでした。彼らが聖書を学び受け入れたのは、あくまで自分たちの人間的な理解の光と力によるのであって、神の霊を自分たちの生命としてその光と力によって受け入れたのではありませんでした。聖書を熱心に読み、聖書について多くを知っている信者たちの多くがその生命において弱いままであるのは、生命を与えるものは聖霊であることを彼らが知らないためです。肉、すなわち人間的な理解力は、それがいかに知性に優れ、また熱心なものであっても、全く無益であるということを彼らが知らないためです。聖書に永遠の生命があると彼らは思っていますが、聖霊の力による生けるキリストが彼らの生命であることを知ろうとしません。
必要なことは極めて単純です。文字に書かれた聖書の言葉を生命を与える聖霊によらずして取り扱ういかなる誘惑も拒絶すると心に決めることです。聖霊の必要と約束とを意識することなしには決して聖書を手に取ることも、精神に受け入れることも、口にすることもしてはなりません。まず礼拝という静かな行為によって、神があなたのうちに聖霊のみわざを与え、新たにしてくださることを待ち望みなさい。次に信仰という静かな行為によって、あなたのうちに住む力に身をゆだねなさい。そして聖霊が、あなたの精神だけでなくあなたの内なる生命を、聖書の言葉を受け入れられるように開いてくださるのを待ちなさい。聖霊にあなたの生命となっていただきなさい。キリストの言葉は確かに霊であり生命であります。それは外から来る聖書の言葉を食物として受け入れるために、あなたの霊と生命に内側から現れるのです。
私共が聖霊に関する頌むべき主の教えに忠実になるに従って明らかになってくることは、主の言葉が霊であり生命であるからには、聖霊が生命の霊として私共の内にあらねばならないということです。私共の最も内奥にある生命の人格が神の霊でなければなりません。精神や感情や意志よりも深く、それらすべての根源として、それらが私共を動かす原理の位置に、神の霊があらねばなりません。それらよりも深く進もうとしても、活ける神の言葉にある生命の霊に比肩するものが何もないことを私共は知ります。私共の内奥の、見ることのできない隠れた生命の深みにいます聖霊が、その生命を与える力をもって神の言葉を受け入れて開示し、私共の生命そのものにそれを作用させるまで待つならば、私共は『生命を賜る者は靈なり』という言葉が真に意味するところを悟るようになります。霊であり生命である言葉が私共の内に住む聖霊と生命とによって私共の内に迎えられるということが、神の目から見て正しくまた相応しいことであることを悟るようになります。そして聖書の言葉は既に私共の内にある霊と生命とに対してのみ、その真意を開示し、その実質を分与し、その神的な力と満ちあふれる豊かさとを与えるものであることを知るようになります。
わたしの神様、内住の聖霊というこの驚くべき賜物を今一度感謝いたします。聖霊がわがうちにいまして働きたもうその御業の栄光を確かに知ることができるように、わたしはへりくだってあなたに新しく祈り申し上げます。
わたしは祈ります。聖霊こそはわたしの内にある神の生命を成長させる生命であり力であって、わたしが神の望みたもうところすべてにまで成長することができるという神の約束でありまた保証であることを教えてください。それを理解するならば、わたしは聖霊がわが内にある生命の霊として、命のパンであるみことばに飢え渇かせ、それを受けて同化し、これを真に生命となし力となしたもうことを悟るでありましょう。
神様、生命であり霊であるあなたのみことばを、これまでたびたびわたしが人間的な思想の力と肉的な精神をもって把握しようとしましたことを、どうか赦してください。わたしは肉の無益であることを学ぶのにはなはだ鈍い者でした。今はこれを学ぶことを切に求めます。
わたしのお父様、どうかわたしに知恵の霊を与えてください。聖霊の力ある働きを与えてください。そうすればわたしはあなたのものである言葉の一つ一つが深く霊的なものであること、また霊のことはただ霊によってしか見分けることができないことを知ることができるでしょう。どうかわたしを導いて、あなたのみことばとのあらゆる交わりにおいてわたしが肉と肉の精神とを拒絶し、ただ文字を活かす霊の内に向かう働きを深い謙遜と信仰とをもって待ち望むことができるようにしてください。わたしがあなたのみことばを黙想する時に、また信仰と服従のうちにこれを保つ時に、霊と真理との内に、また生命と力との内にとどまることができますように。 アーメン。
| 総目次 | 祈禱と序文 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
| 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |