第 十 三 章  聖霊を待ち望むこと



『彼等とともあつまて命じけるは 爾曹なんぢらエルサレムをはなれずしてわれきける所の父の約束し給ひし事をまつべし』(使徒行伝一・四


 旧約聖書の聖徒たちの生涯においては待つということは、神に向かう時の心の態度を表現する共通の言葉でした。彼等は神の到来を待ち望んでいた(waited for)とともに、神の指示を待っていました(waited upon)。聖書には『わがたましひはもだしてたゞ神をまつ (waited upon)』(詩六十二・一)、『われ俟望まちのぞむ (wait for) わが靈魂たましひはまちのぞむ (wait for)』(詩百三十・五)のような、「待つ」という経験を表す言葉をたびたび目にします。また『われををしへたまへ …… われ終日ひねもすなんぢを俟望まちのぞむ (wait)』(詩二十五・五)、『ヱホバよ われらを惠みたまへ、われらなんぢを俟望まちのぞめり (have waited for)』(イザヤ三十三・二)のように訴えかける祈りとして「待つ」ことを見ます。またしばしば困難なしには進むことのできない場合に忍耐を求める命令として「待つ」という言葉が使われています。たとえば『ヱホバを俟望まちのぞめ (wait on) …… 必ずやヱホバをまちのぞめ (wait on)』(詩二十七・十四)、『なんぢヱホバのまへに口をつぐみ忍びてこれを俟望まちのぞめ (wait for)』(詩三十七・七)などがその場合にあたります。そしてその上でその忍耐に対して与えられる祝福を証言する言葉があります。『ヱホバは公平の神にましませり すべてこれを俟望まちのぞむ (wait upon) ものはさいはひなり』(イザヤ三十・十八)、『ヱホバを俟望まちのぞむ (wait upon) ものはあらたなる力をえん』(イザヤ四十・三十一)などです。

 私共のしゅは、こうした過ぎし日の聖徒たちの恵みの教訓と経験とをすべて集めて、主ご自身の言葉において父の約束の聖霊を待ち望むことに結び付けたまいます1。神の民の信仰生活と宗教的語彙の中に深く織り込まれていた「待つ」という言葉は、新約の時代に至って新しくより高度な適用を受けるようになりました。旧約の人々は、彼らの心に示される聖顔みかおの輝きという形で、または敵からの解放のための特別な介入という形で、または約束を成就するための神の到来という形での、神のあらわれを待ち望んでおりましたが、私共もいま同じように待ち望まねばなりません。しかし既に御父おんちち御子みこを啓示され、御子による大いなる贖罪が成就された現在では、「待つ」ということの意味は、とりわけ父なる神の愛と御子の恵みとがあらわされている偉大な約束、すなわち聖霊の内住と盈満という賜物の約束の成就を待つことになるはずです。私共は御父と御子とが恵みの霊のますます満ち溢れる流れと働きとを与えてくださることを待ち望んでいるのです。私共は恵みの聖霊ご自身が来られるのを待ち望んでいます。聖霊が私共を動かし、導き、強めて、父と子とを内にあらわしてくださり、父と子が私共をそのために召しておられるところの聖潔と奉仕のすべてを私共の内に実現してくださることを待っているのです。

 『命じけるは …… われきける所の父の約束し給ひし事をまつべし』。この命令について、あるいは疑問に思われる方があるかも知れません。この命令は特にペンテコステの日に聖霊が注がれたことだけを意味しているのだろうか、そうだとするとすでに教会に聖霊が注がれている現在でもなおこの命令に意味があるのだろうかと。あるいはまた、既に聖霊を受けている信者たちにとっては、父なる神の約束を待つことと、聖霊が既に与えられて内に住まっておられるという意識から来る信仰と喜びとは両立しないのではないだろうかと論難されるかも知れません。

 こうした疑問と論難は最も重要な教訓への道を開きます。聖霊は、私共がそれを統御するべき、私共の裁量で用いることのできる所有物として私共に与えられているのではありません。聖霊は私共のしゅとなり私共を統御するために与えられるものです。私共が聖霊を用いるべきなのではなく、聖霊が私共を用いなければならないのです。聖霊は確かに私共のものでありますが、それは神が私共の神であるのと同じことであり、聖霊に対する私共の地位は『その心のまゝに各人おのおの頒與わけあたふる』(コリント前書十二・十一)者に対する深く完全な依存という地位なのです。父なる神は確かに私共に聖霊をお与えになりましたが、なお聖霊は父の霊であり、父の霊としてのみ働きたまいます。父が聖霊の力によって私共を強めてくださるために聖霊のみわざを与えてくださるように祈り、それを待ち望む時には、その求めはあたかも私共が初めて聖霊を求めた時のように、心からのはっきりした求めでなければなりません。神が聖霊を与えられるというのは、最も内奥の神ご自身を与えられるということです。それは神的な授与、すなわち永遠の生命の力による、継続的で、中断することがなく、終わることのない授与なのです。イエスが彼を信じる者たちに、永遠の流れが永遠に湧き出ずる泉の約束を与えたもうた時には、イエスは一度限りの、彼らを祝福の独立な所有者となすための信仰の単一の行為について語っていたのではありません。イエスが語っていたのは信仰の生涯についてであって、それはいつまでも受け入れる姿勢を保ち、イエスとの生ける結合を通して常にひたすらイエスからの賜物を受けるような生涯についてでした。このことから分かるように、冒頭に掲げた聖句にある「待つ」という高貴な言葉は、過去の経験から裏付けられるすべての祝福を含意しつつ、新しい聖霊の時代の枠組みの中に織り込まれているわけです。弟子たちが十日間待ち続けることを通して行ない感じたすべてのこと、またそこから彼らが得たすべての祝福と報酬は、私共にとっては私共が生きることのできる聖霊の生命への道となり保証となります。父なる神が約束したもうた聖霊の満たしと、私共が待ち望むこととの間には、切り離すことのできない永遠の結びつきがあるのです。

 いま私共は聖霊の喜びと力とについてほとんど知るところのない信者がなぜこれほど多いのか、その理由が分かるのではないでしょうか。それは彼らが待つということを知らなかったからです。彼らはしゅが去られる時に言い残した言葉に対して注意深くはありませんでした。主は彼らに『われきける所の』父の約束を待つように命じたもうたのでした。その約束を彼らは聞いていました。それが成就することを彼らは期待していました。それを願い求める熱心な祈りを致しました。その必要を重荷と感じて悲しみました。彼等は信じようとし、手に入れようとし、聖霊に満たされようと試みました。しかし待つということの意味が分からなかったのです。『すべてこれを俟望まちのぞむものはさいはひなり』(イザヤ三十・十八)、『ヱホバを俟望まちのぞむものはあらたなる力をえん』(同四十・三十一)。こうした言葉を彼らは言いませんでしたし、真実に聞いたこともなかったのでした。

 けれどもこの待つということは何なのでしょうか。どのように待てばよいのでしょうか。わたしは聖霊によって神が教えてくださるところに頼りつつ、この待てという命令に従うために信者にとって有益なことを、これからできるだけ単純に述べます。まず最初に言わなければならないことは、あなたが信者として待ち望むべきなのは、あなたのうちにおられる聖霊の力の完全なあらわれなのだということです。復活の日の朝にイエスは弟子たちに息を吹きかけて、聖霊を受けよと命じたまいました。彼らは火と力とによる全きバプテスマを待ち望むはずでした。あなたは神の子なのですから聖霊を持っております。失敗と罪の中にあった信者たちにパウロが説教した次の書翰の中の箇所を学びなさい:コリント前書三・一〜三十六同六・十九、二十ガラテヤ三・二、三同四・六。聖霊はわたしの内に住んでおられるという、この静かな確信を養うために、単純な信仰をもって神のことばを信じなさい。小さなことに忠実でないならば大きなことを期待すべきではありません。聖霊があなたの内にいますことを信仰と感謝をもって認めなさい。あなたが部屋でひとり神に語りかける時には、いつでもまず静かに座って聖霊が──『父よ』と叫ぶ祈りの霊があなたの内におられることを思い起して確信しなさい。神の前に出て、あなたが聖霊の宮であることを申し上げなさい、そのことをあなたが完全に意識できるようになるまで申し上げなさい。

 いまやあなたは次の段階に進むべき位置にいます。それは、単純にかつ静かに、その場でその時に、聖霊の働きがあなたに与えられることを神に求めることです。聖霊は神の内にあると同時にあなたの内におられます。父なる神がいっそう大きな生命と力において大能の聖霊をみもとから送り出してくださり、あなたの内に住む聖霊がいっそう力をもってあなたの内に働かれるように祈りなさい。約束を根拠としてあなたがこの祈りをするなら、もしくはある特定の約束をみまえに示して祈るなら、あなたは神がそれを聞き届けてくださると、またそれをなしてくださると信じなさい。心の中で感じ取ることができると期待してはなりません。心の中は何もかも暗く冷え切っているかも知れません。感じることができないとしても、神がなそうとしておられること、すでになしつつあることを、信じて安らいなさい。

 その次に来るのが待つことです。神が動かれることを待ちなさい。聖霊が来られるのを待ちなさい。大いなる沈黙のうちに神の前に静まりなさい、そして神が聖霊を賜わってあなたの内に力ある働きをなさしめてくださるという確信を、聖霊があなたの内に燃え立たせかつ深くしてくださるために時間を取りなさい。私共は霊的な犠牲を献げるきよき祭司なのです(ペテロ前書二・五)。犠牲の動物を殺すことは礼拝の本質的な部分でした。あなたが持ちきたる犠牲はすべて殺されねばなりません。自己とその力とを犠牲として死にわたさなければなりません。あなたが聖なる静まりのうちに神の前に待つ時には、神はそれをあなたが正しく祈る知恵も、正しく行動する力も、何も持ち合わせていないことの告白として受け止めます。すなわち待つことは欠如の表明であり、無であることの表明です。キリスト者の生涯を通して、貧しさと弱さを感じることと、十分な豊かさとと強さとを喜ぶこととは、常に表裏一体です。心がそれ自身の虚無の中に沈むことと、神が既に犠牲を受け入れてくださり、願いをかなえてくださることを信ずる天来の確信へと心が引き上げられることとは、ともに神のみまえに待つ中で起ります。

 神を待つということを行なったあとは、人は神が彼ご自身の約束とその子の望みとが成就するのを見ていてくださることを信じて、日々の歩みと自分を待っている特別な働きに進まねばなりません。聖霊を待った後にあなたが祈ったり聖書を読む時には、あなたは内なる聖霊がその祈りと思想とを導いてくださるという信頼のもとにそれをなさねばなりません。経験上は何も新しいことがないように見えても、そのこと自体があなたをより単純な信仰とより完全な献身へと進ませるためのものであることを確信しなさい。あなたはこれまでに人間的な理解と肉的精神の力による礼拝にすっかり慣れてしまっているので、すぐには真の霊的礼拝にあずかることができません。しかしなお待ちなさい。『爾曹なんぢら まつべし』と(使徒一・四)。日々の生活と働きの中で待つという姿勢を維持しなさい。『われ終日ひねもすなんぢを俟望まちのぞむ』と(詩二十五・五)。

 私共は三位一体の神に語りかけています。この神を聖霊は近く連れきたり、この神に私共を結び付けます。日々信仰を新たにしなさい。神を待ち望むということをあなたにできる限り広く実践しなさい。祈りにおいては言葉が多いことや感情が熱すぎることはかえって助けとなるより妨げとなります。あなたにおける神の働きがより深まり、より霊的なものとなり、神ご自身による直接の働きとならねばなりません。約束をその完全な形で待ち望みなさい。謙遜と心の貧しさを表明する恵みの時をもちなさい。また信仰と期待を言い表す、聖霊の支配に対する完全で現実の明け渡しを言い表す時をもちなさい。こうしたことに時間を費やすことを損失と考えてはなりません。ペンテコステはいつでも、高く挙げられたもうたキリストが御座みざからその教会のためになしてくださることの証明であるはずです。十日間の待望はいつでも、それに続くペンテコステの祝福が保証されている場所が御座の前にあることの証明であるはずです。父の約束は確かです。あなたはイエスからそれを受けます。聖霊ご自身はいつでもあなたの内で働いておられます。聖霊の内住と導きは神の子としてのあなたが当然受ける取り分であります。どうかしゅの命令を守りなさい。神を待ちなさい。聖霊を待ちなさい。『必ずやヱホバをまちのぞめ』(詩二十七・十四)、『すべてこれを俟望まちのぞむものはさいはひなり』(イザヤ三十・十八)。


 天のお父様、あなたの愛したもう御子みこから私共はあなたの約束を聞きました。神と小羊との御座みざの下から生命いのちの水の川が神聖な絶えることのない湧き出ずる流れとなって流れ出しています。聖霊は流れくだって私共の渇いた心を潤します。『上古いにしへよりこのかたなんぢのほかにいかなる神ありて俟望まちのぞみたる者にかゝる事をおこなひしや、いまだきかずいまだ耳にいらず、いまだ目にみしことなし』(イザヤ六十四・四)。

 この約束を待つようにとの神の命令を私共は聞きました。その約束のうちで既に私共に成就していることについて、私共はあなたに感謝いたします。しかし私共の心はその完全な所有、完全なキリストの祝福を求めています。お父様、あなたを待ち望むことを、『日々わが門のかたはらにまちわが戸口かどぐちの柱のわきにたつ』(箴言八・三十四)とはどういうことかを教えてください。

 私共が日ごとにあなたに近づきまつる時に、聖霊を待つということを教えてください。私共自身の知恵と意志を殺し、私共の生来のものの働きに対する聖なる恐れを抱いて、あなたの聖霊が力を持って働かれるようにあなたの御前みまえに身を投げ出して伏すことを、私共に学ばしめてください。そして私共が自己の生命いのちを日々みまえに献げるなら、その時に御座みざのもとから流れ出る聖なる生命の流れが力をもって満ち溢れ、私共の礼拝が霊とまこととによるものとなることを教えてください。 アーメン


要  点

  1. 弟子たちは、聖霊が与えられるという約束の下に彼ら自身の行動を起こすべきではありませんでした。天にいますキリストが彼らの内にキリストの霊を与えられたという事実を喜びをもって証言し体現することができるようになるのを待つべきでした。『さづけらるゝまでとゞまれ』(ルカ二十四・四十九)であります。
  2. 「私共はペンテコステを得るために過去を振り返るべきではない。使徒行伝に記されたペンテコステは、キリストの教会がこの時代に属する特権について知ることができるようにと、そのためだけに記されているものである。神の霊は雨のように今なお幾度でも繰り返して降り注ぐものである。また風のようにやむことなくいつでも吹くものである。」(ボーエン)
  3. 待ち望むということは、弟子たちが父の約束に対してもつべき態度をすべて包括的に表す言葉です。待ち望むということは、自己をその知恵と力とともに否定することを含みます。他のすべてのことから離れ、聖霊が求めるあらゆる献身と備えとをなすことを含みます。キリストがどのような御方であるのかについての喜ばしい信仰を含みます。そしてキリストが何をなそうとしておられるのかについての確信に満ちた期待を含みます。待つこと、とどまること、それは約束の成就のために天におられるしゅによって課せられた唯一の最終条件なのです。
  4. 待つこと。聖霊が自分の内におられると知っていて、聖霊により上からの力によって強められることを望む各人にとっては、待つことがその人の日常生活において聖霊との関係を深いところから築き上げるものとなるべきです。待つこと。しゅが教会の祈りに答えてその権威を世に対して力をもって示されることを待望しているのであれば、待つことはそのような教会を支配する姿勢であるべきです。『爾曹なんぢら上よりちからさづけらるゝまでとゞまれ』(ルカ二十四・四十九)。
  5. 「キリストが律法を成就する者であられ律法の終わりであられたように、聖霊は福音を完成し成就する者であり、全き実現に至らせる者である。聖霊が我々の心に宿らなかったならば、そしてキリストのみわざに我々をあずからせてくださらなかったならば、キリストが成し遂げてくださったことはすべて我々にとって無益となる。」(グッドウィン)

  1. 七十人訳旧約聖書の中で『ヱホバよ われなんぢ拯救すくひまてり (have waited for)』(創世紀四十九・十八)というヤコブの祈りに用いられているものと同じギリシア語です。(→ 本文に戻る


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