第 八 章  霊を識ること



これすなは眞理まことみたまなり 世これをうくることあたはそはこれを見ずまたしらざるによる されど爾曹なんぢらこれしる そは彼なんぢらとともをりかつ爾曹なんぢらうちをればなり』(ヨハネ十四・十七

爾曹なんぢらは神の殿みやにして神のみたまなんぢらのうちいますをしらざる』(コリント前書三・十六


 知識の価値、つまり信仰生活における真の霊的知識の価値は、どれほど重視してもしすぎることはありません。地にある人間はたとえ遺産を受けられる立場であっても、あるいは畑の中に隠された宝があっても、そのことを知らなければ、あるいはそれをどう受け取るべきかを知らなければ、少しも富める者とはなりません。同じように神の恵みの賜物も、私共がそれに気づき、知ることを通してそれを真に理解して所有するまでは、完全な祝福とはなりません。知恵と知識のすべての宝はキリストのうちに隠されてあります。信者は自分のしゅであるキリスト・イエスの知識のすばらしさゆえに、他のすべてのものを損失と見なすようになります。神がキリストにあって私共のために用意されているものについての真の知識が欠けていると、私共の信仰生活は水準の低い弱いものとなってしまいます。パウロはエペソの信者たちのために祈っております、『我儕われらしゅイエス・キリストの神 さかえの父 智慧ちゑと默示のみたま爾曹なんぢらに賜ひ爾曹なんぢらをして神をしらしめ また爾曹なんぢらの心の目をあきらかにしてそのめしかうむりてたもつ所ののぞみと聖徒に賜ふ所のげふさかえの富と また信ずる爾曹なんぢらに對して行ひ給ふ神のちからきはめおほいなることをしらしめ給はんことを願ふ』(エペソ一・十七〜十九)と。このような祈りを私共は自分のために、また他の人のために、どれほど祈ってもそれで十分ということはありません。私共がほかのすべての知識を教えてくださる教師を知るということが何よりも大切なことです。父は彼の子の一人ひとりに、真理であり生命と恵みそのものであるキリストを与えたまいましたが、それだけでなくキリストの霊であり真理の霊である聖霊をもお与えになりました。『我儕われらうけしは …… 神よりいづみたまなり これ神の我儕われらたまひし所のものをしるべきためなり』(コリント前書二・十二)。

 ここで一つの大切な問いが生じます。私共に教えている者が聖霊であることをどうやって知ればよいのでしょうか。神的な事柄についての私共の知識が私共にとって確かさと慰めとをもつものとなるには、私共は教師ご自身を知らなければなりません。私共が自分の霊的知識に置いている価値が幻想でないことの完全な証拠を握ることができるのは、ただ教師ご自身を知ることによってのみなのです。私共の恵みのしゅは、私共が聖霊を知るようになることを保証することによって、この問いとそれをめぐるすべての真剣な問題に答えを与えたまいます。使者が王からの使信を携えて参ります時に、あるいは証人がその友のために証言します時に、彼ら自身の素性を保証する者は誰もありません。しかしそれがありませんでも、使者も証人も彼らが使信や証言を提供するというその事実自体によって私共の注意を惹き、彼らが実際に使者あるいは証人として存在していることとその言葉が信頼できることとを私共が認めることを要求いたします。同じように聖霊もまた、キリストをあかししキリストに栄光を帰するならば、それが神からの委任を受けて臨在している霊であることが知られ、認められねばならないのです。その時に私共は初めて私共の受ける知識が神からのものであること、私共が人間理性によって聖書の中から集めてきたようなものではないことの、確実な保証を持つことができます。王のしるしを知っている人だけが偽物を見分けることができます。聖霊を知っていることは確実性の神的基礎であります。

 私共がいま聖霊をこのようなものとして知るというのはどういうことなのでしょうか。『爾曹なんぢらこれしる そはかれなんぢらとともをりかつ爾曹なんぢらうちをればなり』(ヨハネ十四・十七)とイエスはおっしゃいます。聖霊の永続的な内住ということは、聖霊であることを知るための前提となります。聖霊の臨在が自らを明らかにするのです。私共が聖霊の内住を受け入れ、信仰と服従のうちに全権をゆだね、そして聖霊がイエスをしゅと証言することを受け入れるならば、それが聖霊の信任状となり、聖霊は神の霊であることを自らあかししたまいます。『あかしす者はみたまなり みたま眞實まことなればなり』(ヨハネ一書五・七)。教会において聖霊のあかしを認めることに大きな困難と疑惑が伴い、多くの恐れとためらいがあるとすれば、それは各信者に内住する教師としての聖霊の存在が教会ではほとんど知られておらず、容認もされていないためです。またその結果として聖霊の働きが稀少で微弱なものとなっているからです。聖霊の内住の真理と経験とが神の民のうちに再び起されるなら、そして聖霊が再び私共の間で力をもって自由に働くようになるなら、聖霊の幸いな臨在そのものが聖霊ご自身であることの十分な証拠となり、私共は確かに聖霊を知るようになります。『爾曹なんぢらこれしる そはかれなんぢらとともに …… をればなり』1

 ところで聖霊の臨在がほとんど認識されておらず、その働きも制約を受けているのだとすれば、その場合に私共は聖霊を知るためにどうすればよいのでしょうか。この問いに対する答えはとても簡単です。自分が聖霊をもっていることを知ること、聖霊を人格的な支配者また教師としてその人格において知ることを、真に望んでいる人々には、私共はこのように言います。聖霊についての聖書の教えに学びなさいと。教会や人からの教えで満足してはなりません。聖書に直接向かいなさい。また聖書をただ習慣的に読むことや、既にあなたが知っている教理を確認することで満足してはなりません。もし本気で聖霊を知りたいと思うのでしたら、このことを覚えて、生命いのちの水をからだの深くに達するまで飲むことを求めている者として聖書に赴き、これを調べなさい。聖書が聖霊についてその内住と働きとともに語っている箇所をすべて集めてあなたの心に収めなさい。聖書が教えること以外には一切耳を貸さないと、また聖書が教えることはみな真心から受け入れようと心に決めなさい。

 聖霊の導きに依り頼みつつ聖書を学びなさい。人間的な知恵だけで聖書を学ぼうとしても、あなたの誤った見解が再確認される結果になるだけです。もしあなたが神の子であるなら、たとえあなたのうちに聖霊がどのように働かれるかを知らないとしても、あなたを教え導く聖霊をあなたは既に有しているのです。御父おんちちにお願いして聖霊を通してあなたの内に働いていただき、聖書があなたにとって生命となり光となるようにしていただきなさい。もしあなたが謙遜の霊と神の指導に信頼する霊をもって真心から聖書に従うならば、約束が確実に成就することをあなたは見ます。あなたは神から教えられます。私共は一再ならず、外的な事柄から内的な事柄へ進むべきこと、聖書を受け入れる時には自分の思想や人間の思想をいっさい放棄するように心を尽すべきであることを告げました。神が聖霊を通してあなたの内に神ご自身の聖霊に関する思想を明らかにしてくださるように求めなさい。神は必ずそうしてくださいます。

 聖霊が私共の間で認められるための目印としては、聖書はどのような事柄を挙げているでしょうか。大きく二つに分けられます。第一は外的なもので、聖霊ご自身がなされる働きに関する事柄です。第二はより内的生活に関わることで、聖霊が住まわれる人々において聖霊が求めたもう性質に関連することです。

 聖霊が来られる条件として、愛のある服従ということにイエスが言及されていたのを私共はさきに学びました。服従は聖霊の臨在に必ず伴うしるしの一つです。イエスは聖霊を教師として、また守護者として与えたまいました。聖書全篇は聖霊のみわざが全生涯の明けわたしを要求するものであることを告げています。『れいより身體からだ行爲はたらきころさばいくべし およそ神のれい導かるゝ者はこれすなはち神の子なり』(ロマ書八・十三、十四)。『爾曹なんぢらの身は聖靈の殿みやにして …… 是故このゆゑに神のものなる爾曹なんぢら身において神のさかえあらはすべし』(コリント前書六・十九、二十)。『もしわれらみたまよりいきなばまたみたまよりあゆむべし』(ガラテヤ五・二十五)。『そのおなじかたちかはなり これしゅすなはちみたまよりてなり』(コリント後書三・十八)。こうした言葉が聖霊の働きを明確に定義しています。神はまずその働きにおいて知られるように、聖霊もまた同じです。聖霊が神の意志をあらわし、キリストがそれを行ない、また彼に従って同じようにするようにと私共を召したまいます。そこで信者が聖霊にある生涯に自分自身を献げ、心から聖霊の導きに同意して、肉を死にわたし、無制限に例外なしにキリストの支配に従う時、その信者は自分自身を献げるところのそのものに変えられます。聖霊にお仕えする時に彼は自分の内に働く聖霊を見出し知るようになります。私共が聖霊の目的とするところを単純に自分の目的とし、聖霊が私共の内に実現しようとして来られているところのことに完全に自分自身をゆだねるなら、その時に私共は聖霊の内住を知るべく備えられたことになります。私共が聖霊に導かれてちょうどキリストが歩まれたように神への服従の道を歩む時、聖霊ご自身が私共の内に住んでいることのあかしを聖霊自らが私共の霊に与えたまいます。

 聖霊が私共の内に実現される生涯に私共が自らを献げるというところからさらに進んで、信者と聖霊との間にある人格的関係を学び、聖霊の働きを最も完全に経験する方法を学ぶならば、私共は聖霊をさらに確かで親密なものとして知るようになります。聖霊が私共に期待している心のあり方というのはただ一つの言葉、信仰という言葉に集約されます。信仰とは常に目に見えないものに関するものであって、人間の目からは最も不釣り合いに見えるものにつながります。神がイエスとして現れたもうた時、それは卑しい姿の内に隠されておりました。イエスはナザレで三十年を過ごす間、人々は彼をただの大工の子だと思っていました。彼が洗礼を受けるに至って、彼が神の子であることがようやく完全な形で意識されるようになりました。彼の神たる栄光は彼の弟子たちさえしばしば見ることができませんでした。そうだとすれば、神の生命が私共の罪深い存在の深みにまでくだる時には、そのことを認めるのにどれほどの信仰が必要になりましょうか。私共は聖霊にお会いするためにきよい謙遜な信仰をもたねばなりません。聖霊が私共の内に宿られるということを知っただけで満足してはなりません。それだけでは私共にとってほとんど役に立ちません。私共は敬虔な鍛錬を通して、神の御前みまえに崇敬に満ちた沈黙のうちに身をかがめる姿勢を身に着ける必要があります。そして聖霊に対してしかるべき正しい認識をもつとともに、神への奉仕につきまとう肉の意志を抑え込まなければなりません。聖霊のみに頼り切ってみそばに仕えとうございます。静かな黙想の時間を十分に取り、私共の心の内なる宮に入って、そこにあるものが残らず聖霊に献げられているかどうかを吟味しなさい。そこで父のみまえに伏し、聖霊の力ある働きを父に求め、またそれが父から得られると期待しなさい。私共の見るところ、感じるところがいかにわずかであっても、信じなさい。神に属する事柄を最初に見出すのは、いつでも信仰です。信じ続けるならば私共は知りかつ見るべく備えられます。

 果物は食べてみないことには分かりません。光が何かを分かるためには、私共はその中に入ってそれを使ってみなければなりません。誰かをよく知るためには、その人と親しく付き合わなければなりません。聖霊を知るためには、私共が聖霊を宿し、かつ聖霊にとらえられなければなりません。聖霊によって生きることが聖霊を知るための唯一の道です。聖霊を内に宿し、聖霊のわざをなし、聖霊との交わりに自らをゆだねること、これが主が私共のために開いた道であり、『爾曹なんぢらこれしる そは彼 爾曹なんぢらうちをればなり』と言われた言葉の意味するところなのです。

 みなさん、パウロはキリストを知ることの素晴らしさのゆえに他のすべてのことを損失と見なしました。私共も同じようであるべきではないでしょうか。聖霊を通して栄光のキリストを知るためにすべてのものを放棄すべきではないでしょうか。御父おんちちは崇められしキリストの栄光に私共が完全にあずかることができるようにと聖霊を送りたまいました。このことを思い見るべきです。私共は自分自身を放棄して聖霊に私共の中に入っていただき、また私共を占有していただくべきではないでしょうか。御子みこと御父を私共に知らしめることのできる唯一の方である聖霊を私共が完全に知るようになるためにです。御子が御父から受けて私共に与えられた方であるむべき聖霊の内住と導きに、今すぐにでも自分自身をゆだねとうございます。


 天のお父様、あなたはキリストの御名みなによってあなたの聖霊を私共に遣わしたまいました。どうか恵みによってわたしの祈りを聞き、わがうちに聖霊を宿しまつることによって聖霊を確実に知ることができるようにしてください。わたしは祈ります。聖霊によるイエスのあかしが神により明白で力あるものとなりますことを、また聖霊の導きときよめとが神の力のうちになされますようにと、そしてまたわたしの霊の内における聖霊の内住が真実と生命のうちになされますようにと。それによって、わたしが自分の生来の生命と同じくらい単純かつ確実に聖霊をわたしの生命として自覚することができるようになることを祈り求めます。光のあることが太陽のあることの十分な証拠であるように、聖霊の光がそれ自体によってイエスの臨在のあかしとなるようにしてください。

 わたしのお父様、どうぞわたしを導いてください。聖霊を知ることを通して、聖霊をわたしの内に与えたもうあなたの愛の秘義をわたしが完全に知ることができるようにしてください。あなたはわたしが見ることも知ることもないあなたの全能の力を通してわたしの内に働かれるだけでは満足なさいませんでした。またあなたをあらわすために地にくだられた聖霊を通して働かれるだけでは満足なさいませんでした。このことをわたしが理解できるようにしてください。より大いなる、より優れた賜物を御子みこは私共のために用意されました。すなわち聖霊を神のむべき第三の位格として遣わしたまいました。それによりあなたの臨在が、あなたとのこの上なく親密な結合と破れることのない交わりとが、わたしの嗣業となるためでした。あなたご自身の生命であり意志である聖霊が、いま私自身の生命となるために、そしてわたしを完全にあなたのものとなすためにきたりたまいました。

 わが神よ、どうかわたしとあなたの民を、あなたの霊を知ることができるように導いてください。ただ聖霊の内住だけでなく、また聖霊の働きだけでもなく、ご自身の人格において御子みこを、ご自身において御父おんちちなるあなたをあらわして栄光をしたもう、そのような御方として聖霊を知ることができるようにです。 アーメン


要  点

  1. 教会や個々の信者は聖霊について聖書が語るところをすべて正確に理解しているかも知れませんし、聖霊について何でも知っているかも知れませんが、それでもなお聖霊を救い主また王として臨在するキリストの神的啓示としてはほとんど知らないということがあります。
  2. 聖書だけでは私共に聖霊を知ることを教えることができません。たしかに聖書は証言ではあります。しかしその証言が確実に用いられるためには、私共は聖霊と聖霊が私共を導いていることとを確実に知っていなければなりません。
  3. 『世これ(眞理まことみたま)をうくることあたはそはこれを見ずまたしらざるによる』(ヨハネ十四・十七)。『我儕われらうけしは此世このよれいあらず 神よりいづみたまなり これ …… しるべきためなり』(コリント前書二・十二)。この世の霊とその知恵は神の霊を知ることができません。天よりくだる聖霊を知るためにはこの世のものではない霊が必要なのです。
  4. 兄弟よ、あなたは聖霊を知ることを望みますか。それなら、あなたが聖霊の内住の法則に従うなら聖霊はご自身を示されることを覚えなさい。この法則はとても単純です。聖霊があなたの内に宿っておられることを信じ、この信仰をたゆむことなく鍛えなさい。全身全霊を挙げて聖霊の導きに自分をゆだね、聖霊をあなたの生活における唯一かつ完全な導きを与える者として受け入れなさい。深い謙遜と依り頼みのうちに、聖霊のさらに深い導きと、聖霊の内住とみわざとのさらに完全な経験を待ち望みなさい。『爾曹なんぢらこれしる そは彼 …… 爾曹なんぢらうちをればなり』という言葉は完全に成就します。そのことをあなたは確信することができます。
  5. 「我々は聖霊を三位一体の一位格と信ずるのであるから、聖霊を人格として認め、人格として相対あいたいし、人格として心のうちに崇め、完全な愛を献げ、そして人格として聖霊と交わるべきである。聖霊を悲しませないように、人格として聖霊に信頼しなさい。」──グッドウィン

  1. 補註4を参照。(→ 本文に戻る


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