第 二 十 七 章  信仰によって聖霊を受ける



『キリスト既に …… 我儕われらあがな律法おきてのろひよりはなれしめ給へり …… これアブラハムに約束し給ひし恩惠めぐみイエスキリストによりて異邦人にまで及び我儕われらにも信仰によりて約束のみたまうけしめんためなり』(ガラテヤ三・十三、十四


 聖書の中で信仰という言葉が最初に現れるのはアブラハムの記事においてです。彼の最高の栄誉、服従の力の秘訣、彼を神に喜ばれる者としたものは、彼が神を信じたということでした。その結果、彼はすべて信ずる者の父となり、神の顧みが与える祝福とそれが与えられる道との偉大な実例となりました。神はアブラハムに、死者をよみがえらせる神としてご自身をあらわされました。私共にも神は同じことを、神ご自身の神的生命の霊を私共の内に住まうものとして与えることによって、いっそう満ち足りたしかたで実現したまいます。このよみがえらせる力が信仰を通してアブラハムに臨んだように、キリストにおいて啓示されるアブラハムの祝福、つまり聖霊を与えるという約束さえもが、信仰によって私共のものとなるのです。アブラハムの生涯が教える教訓の中心は、『我儕われらにも信仰によりて約束のみたまうけしめん』という上記の一節にあります。聖霊を受けさせる信仰とはいかなるものか、その信仰はどのように与えられて成長するのかを知りたいのであれば、私共は神がアブラハムの物語を通して教えたもうことから学ばなければなりません。

 アブラハムの生涯から私共は信仰とは何かを知ります。すなわちそれは、自分の神の啓示を認識して受容する霊的感覚であり、またその啓示によって呼び起され目覚めさせられる霊的能力です。アブラハムが信仰の人となったのは、神がアブラハムを選んだからであり、アブラハムにご自身を啓示しようと決断されたからなのです。一つひとつの新しい啓示はいずれも神の意志の働きでした。信仰を呼び起し信仰をかすものは神の意志であり、神の意志がその目的を実現するための啓示なのです。与えられる啓示、あるいは神からの接触が明らかであればあるほど、心の内の深くから信仰は動かされます。パウロは『いける神をのぞめばなり』(テモテ前書四・十)と申しました。生ける信仰が呼び起されるのは、神的生命を与えて生かすことのできる力をもった生ける神が近づいて、心に触れる場合だけなのです。信仰とは、神がおっしゃることを私共が自分の力で受け入れるという独立した行為なのではありません。逆にそれは、私共がただ神がご自分の意志を私共に対してなされるに任せるというまったく受動的な状態とも異なります。信仰とは心の受容性というべきものであって、神が近づかれて、その生ける力が私共に語り、私共に触れる時に、私共自身を神にゆだねて神の言葉と働きとを受け入れることなのです。

 したがって、信仰とは二つの事柄に関わるものであることが分かります。一つはしゅの臨在、もう一つは主の言葉です。ける言葉を語ることができるのは活ける臨在のみであり、それが言葉を単なる言葉としてではなく力として現れさせます。このことから、聖書の言葉が読まれ語られながらほとんどを結ばないこと、信仰のための労苦と祈りがありながら結果につながらないことがとても多いことには理由があるのが分かります。人々は言葉だけを取り扱って、活ける神を等閑にするからです。信仰は、神をその言葉のままに受け入れること(Taking God at His word)と定義されてきました。これはまったく真実ですが、しかし多くの人々はこれを言葉を神のものとして受け入れること(Taking the word as God’s)という意味に解釈します。その言葉のままに神を受け入れるという思想が持つ強制力を彼らは知りませんでした。鍵を持っていても、それを使ってドアを開けて中に入ることをしなければ意味がありません。神ご自身と直接の活ける交わりを持つ時にのみ、言葉は心のドアを開き、言葉を信じさせることができます。信仰は神をその言葉のままに受け入れます。それが可能となるのは、神がご自身を与えられる時、そしてその時にのみです。わたしは聖書の中で神の約束をこの上なく明確にまた完全に知ることができるかも知れません。またわたしはその約束が成就されるためにはただそれを信じればよいと正しく学んできたかも知れません。しかしそれでもなお、望んでいた祝福をまったく見出せないことがあります。約束の地に入る信仰とは、神ご自身を待ち望む心の態度なのです。すなわちまず神がわたしに言葉を告げられることを待ち望み、次に神が告げた言葉の通りに事をなされることを待ち望みます。信仰とは神との交わりであり、神への服従であり、高みに引き上げられる経験であり、神が言葉によって心をとらえるというその所有のことを意味するのです。それによって神は人の心を神の働きのために保ち、備えさせます。信仰がひとたび覚醒させられたなら、信仰は神の意志のすべてのあらわれを注視するようになります。神の臨在のすべてのしるしに聞き耳を立て、受け入れるようになります。そして神のすべての約束の成就を探し求め、期待するようになります。

 このような信仰によってアブラハムは約束のものを受け継ぎました。このような信仰によってアブラハムの祝福がキリスト・イエスにある異邦人に及びます。それによって私共は約束の聖霊を受けます。聖霊のみわざ、すなわちどのようにして聖霊が私共に来られ、私共を印し、私共の内に住み、そこから流れずるのかについて学ぶ時には、いつでも『我儕われらにも信仰によりて約束のみたまうけしめん』(ガラテヤ三・十四)との言葉の上にしっかり立ちとうございます。聖霊の内住の明確な意識を求めている方がおられますか。聖霊が神の愛で心を満たしていることに深い確信を持ちたいと願っておられますか。聖霊のがより大きく成長することを願っておられますか。すべての真理への聖霊の導きを明確に経験したいと願っておられますか。また働きと祝福のための力を授けられたいですか。そういう人は以下の信仰の法則がここにも完全にあてはまることを思い出す必要があります。恵みの摂理全体はこの上に基礎づけられているのです。『爾曹なんぢらの信ずる如く爾曹なんぢらなるべし』(マタイ九・二十九)、『信仰によりて約束のみたまうけしめん』(ガラテヤ三・十四)。アブラハムの信仰によってアブラハムの祝福を求めとうございます。

 このことに関しては、アブラハムがその信仰を始めたところから私共も信仰を始めなければなりません。それは、神に会うことと神を待つことです。『ヱホバ、アブラムにあらはれて …… アブラムすなは俯伏ふしたり 神又彼につげいひたまひけるは』とあります(創世紀十七・一)。顔を上げて父なる神を見上げとうございます。彼こそはその全能の生命を与える力をもってこの驚くべきみわざ、私共を聖霊で満たすというみわざを私共に行なう生ける神であります。神が私たちに与えようとして持っておられる祝福はアブラハムに与えられた祝福と同じであり、ただもっと大きく、もっと完全で、もっと思いを超えた祝福です。アブラハムが既に死んだも同然の身体であった時、また後年、彼の息子が犠牲の供え物として祭壇に縛り付けられた時にも、神は生命を与える神としてアブラハムに現れたまいました。『アブラハムはその信ずる所の神すなはちしにし者をいかし ……』(ロマ書四・十七)、『アブラハム …… イサクをさゝげたり …… 彼おもへらく 神は死よりこれ復活いきかへし得ると』(ヘブル十一・十七十九)。神は私共にもきたりたまいます。そして内住の聖霊によって私共の霊と心と身体とを天にある生命の力で満たそうとおっしゃいます。アブラハムに倣う者となりなさい。『不信をもて神の約束を疑ふことなくかへつその信仰をあつくして神をあが神はその約束し給ふ所を必ず成得なしうべしと心にさだむ』(ロマ書四・二十、二十一)。約束したもうた神を信ずる信仰で私共の心を満たし、そしてそれをなしうる神に心を定めとうございます。心を開いて神に従う備えをさせ、神のみわざを受け入れさせるものは、この神を信ずる信仰です。神は私共を聖霊で満たそうとして私共を待っておられます。私共も神を待ち望まねばなりません。神は必ず、力ある恵みに満ちたみわざによってそれを完全になさずにはおられません。神を待ち望みとうございます。本を読んで思いを巡らすこと、祈り願うこと、身をきよめて約束を握ること、聖霊が私共の内に住まわれるという幸いな真理に堅く立つこと、それはそれ自体は善いことではありますが、それが祝福をもたらすのではありません。必要なただ一つのことは心が信仰で満たされることです。生ける神に対する信仰、神との生ける交わりにとどまる信仰、神の聖なる臨在の前に待ち望み礼拝する信仰です。神とのこのような交わりにおいて聖霊は心を満たしたまいます。

 ひとたびこの段階に達したなら、そこにとどまるように努めなさい。そうすれば私共は聖霊に対して正しい位置にあることになり、聖霊は私共に来てくださり、神が私共のために備えておられるものをますます明らかにしてくださいます1。そして聖霊の光を受けて私共の必要を確信するならば、また内なる聖霊による生命についての神の意志を開示する聖書の約束に目を向けるならば、私共は神に依り頼む謙遜な思いの内にとどめられ、そこから子供のような信頼が確実に育まれるようになります。また無益な労苦と精進の生活から守られます。このような生活では、聖霊によって神に仕えようとする努力の中でなお人は自分が感じることや行うことや計画することに肉の誇りを持ちあるいは求めていたため、たいていは失敗に至りました。聖書の言葉に耳を傾ける時でも、また神に願い求める時でも、静かな瞑想においても、公共の礼拝においても、神の奉仕にあっても、日々の仕事にあっても、私共の生涯を深く支えるものはすべての確かさにまさる次の保証です。『まして天にいま爾曹なんぢらの父はもとむる者に聖霊をあたへざらん』(ルカ十一・十三)。神はそれを既に与えたまいました。そしていつでも与えようとしておられます。

 このような信仰には必ず試練が伴います。イサクは神が与えられ、信仰によって受けた生命でありましたが、犠牲として献げられなければなりませんでした。それは生命を復活の型として、死者からの生命として再び受けるためでした。神が与えられた聖霊の働きの経験もしばしば取り去られ、心が沈滞と死の中に取り残されたように見えることがあります。それは人が二つの教訓を完全にわがものとするためです。一つ目は、感覚と経験がすべて約束に反するように見える時でも、生ける信仰は生ける神を喜ぶことができるという教訓です。もう一つは、天的な生涯は肉の生命が死にわたされた後にのみやってくるということです。キリストの死が私共のうちに働き、私共が弱さと虚しさのうちにあってキリストに目を向ける時に、キリストの生命があらわれます。私共は信仰によって聖霊の約束を受けます。信仰が大きく広く成長するに従い、約束された聖霊はますます完全に深く受け入れられます。アブラハムに神が新たな啓示を与えるたびに、アブラハムは信仰を深められ、ますます親しく神を知るようになりました。神が近づきたもうた時に、彼は何を期待すべきかを学びました。その子の犠牲を要求された時のように最も期待に反する状況の中にあっても神を信頼することを学びました。信仰はける神がご自身を顕わされることを日々待ち望みます。信仰はますます熱心に聞く耳と奉仕への備えとをもって神とその臨在にまったく服従します。信仰は神がご自身を顕わされる時にのみ祝福が来ることを知っています。神ご自身が受けることを喜びたもうのはこのような信仰だけです。この信仰に対して約束の聖霊は必ず与えられます。

 アブラハムにおいても、また他の昔の聖徒たちにあっても、このような信仰は神のあらわれによって目覚めさせられ、強められました。地上へのイエスのあらわれによって不信仰は拭い去られ、弱かった信仰が強くされました。栄光を受けたイエスのあらわれによって信仰はペンテコステの祝福を受けました。キリストにあって今、神の御座みざは私共に開かれています。それは神と小羊との御座です。私共がへりくだって礼拝のうちにとどまり、御座の前に愛の奉仕をもって歩むなら、その時に御座の下から流れ出る生命の水の川は私共の中に流れ込み、私共を通り、私共から流れ出します。『信ずる者は …… その腹よりいける水かはごとく流出ながれいづべし』(ヨハネ七・三十八)。


 永遠にあられる神様、その天的な愛と力のうちにあなたご自身をその子ら一人ひとりにあらわしたもう神様、あなたに私共は祈ります。信仰を増し加えてください。それによってのみあなたを知り、受けることができる信仰を。あなたが全能の神として来られる時にも、あがなぬしとして来られる時にも、また内住の神として来られる時にも、あなたは信仰のみを求められ、信仰の量に応じて私共は受けるのです。父よ、私共が聖霊を受けられのは、ちょうど私共が信仰を持っている限りにおいてであることを深く確信させてください。

 きよき神様、あなたの臨在があなたに従う心のうちに働きかけて信仰を呼び起してくださることを私共は知っています。どうか大能の力をもって、あらがい得ない力をもって私共をあなたの臨在に引き入れてください、そしてそこにとどまらせ待ち望ませてください。どうか私共を世と肉との恐るべき誘惑から解き放ってください。そしてあなたの栄光のみが私共の願いとなり、聖霊がキリストを内に顕わしてくださるのを受け入れることができるように私共の心を空しくしてください。私共は喜んであなたの言葉を取り、私共のうちに豊かに住まわせます。心の静まりのうちに神に向かって沈黙し、神を待ち望みます。父がその霊を私共に既に与えてくださり、御子みこを顕わすためにひそかに働いておられることを確信します。神様、私共は信仰の生涯を生きます、聖霊を信じます。 アーメン


要  点

  1. 信仰は神を喜ばせる唯一のものです。キリスト・イエスにあって神に受け入れられるいかなる礼拝と働きにおいても、私共が神を喜ばせるものであるという確信は信仰によって受けることができます。なぜでしょうか。それは信仰だけが自己を超えてのぼり、神お一人に栄光をし、神の御子みこに目を注ぎ、神の霊を受け入れるものだからです。信仰は単に神の言葉と約束が真実であると積極的に承認するだけのものではありません。それだけなら肉の力によっても可能です。信仰は心の霊的な器官です。心はそれによって生ける神を待ち望み、神に耳を傾け、神ご自身から神の言葉を得て、神と交わりを持ちます。このような心の習慣を養い、私共がその全生活を信仰によって送るようになった時に、聖霊が完全に入り、自由に流れるようになります。『信ずる者は …… いける水かはごとく流出ながれいづべし』(ヨハネ七・三十八)。
  2. 「聖霊は『くつべからざるたね』と呼ばれる(ペテロ前書一・二十三)。なぜなら聖霊は心のうちにみことばと共に蒔かれ、殖え広がる力として作用するからである。みことばが物質としての種子であるとすれば聖霊は力としての種子である。」(グッドウィン)
  3. イエスに目を注がせ、イエスを罪からの永遠の救いぬしとしてあらわす聖霊の力を願い求めている人々よ、ただ信じなさい。瞑想と信仰の静かな務めをもって一日を始めなさい。静かな信任をもって心のうちに目を向けなさい、聖霊の働きを眺めるためではなく、そこにひそかに住みたもう聖霊にあなたの霊をゆだねるために。そして深い謙遜のうちにこのように言いなさい、「わたしはわたしのうちに御国みくにたね、永遠の生命の種を、小さな隠されたものとして持っています。生ける言葉の種、神の種をわがうちに見出しました。それが宿っている場所を今わたしは知っています」と。おそれとおののきをもって神の前にひれ伏しなさい、神があなたのうちに働きたもうからです。「今日わたしは聖霊をわがうちに有する」という事実を確信し、明確に意識できるようになるまで、信仰に時を与えなさい。
  4. おほよそ神によりうまるゝ者は罪を犯さず そは神のたねそのうちあるよる』(ヨハネ一書三・九)。聖霊がわがうちに住んでおられること、そして聖霊があなたをまったく罪から守ってくださるように父なる神が備えておられることを確信する信仰の力によって毎日の生活を歩みなさい。しばしば聖なる瞑想のうちにとどまり、あなたが神のきよき宮であることを聖霊に思い出させていただきなさい。聖なるおののきをもって「わたしは神の生命の生けるたねをわがうちに持っています」と申し上げなさい。
  5. 信ずる者一人ひとりがこの信仰の生活に入り、信仰のうちを歩むようになる時、聖霊がすべて肉なるものの上に力をもって君臨することを祈る祈りが真に力あるものとなります。

  1. 補註15参照。(→ 本文に戻る


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