第 十 六 章  聖 霊 と 宣 教



『アンテオケの敎會に數人すにんの預言者と敎師あり …… かれらしゅつかへて斷食をなせるとき聖靈いひけるは わがためにバルナバとサウロを甄別えらびわかちてわがかれらに命ぜし所の事を行はしめよ こゝおいて斷食し祈禱いのりをなし手を二人の上におきこれゆかしむ 如此かくこの二人は聖靈につかはされてセルキアにくだり』(使徒十三・一〜四


 使徒行伝は『昇天のしゅの活動』または『聖霊の働き』という名称で呼ぶこともできると言われてきたのは正当なことであります。キリストが告別の際に与えられた約束、『聖靈なんぢらにのぞむよりのち 爾曹なんぢら能力ちからうけエルサレム、ユダヤ全國、サマリヤおよび地のはてにまでわが證人あかしびとなるべし』(使徒一・八)との約束は、無限に成長する力を帯びた神の国をその内に含むたねのような言葉の一つです。そこには神の国があらわれる法則と、最終的な完成への預言とが含まれています。使徒行伝の中に、私共はこの約束がエルサレムからローマにいたる道において最初の成就を遂げる様子を読むことができます。使徒行伝は、聖霊がユダヤ人と異教徒との前にご自身をあかしするためにキリストの弟子たちに与えられる力として来られ、臨在され、働かれたことの神的な記録です。またキリストの御名みなが世界の隅々にまで版図を広げるための拠点として、まずアンテオケとローマにおいて勝利を収められたことの記録です。使徒行伝は、聖霊が天にある私共の栄光のしゅから弟子たちにくだりたまい、彼らにご自身の臨在と導きと力とをあらわされたことの唯一の狙いと目的が、弟子たちを世界の果てまでご自身を宣べ伝える証人として備えさせるためであったという事実を、天からの光の下に照らし出します。異邦人伝道は聖霊の働きのただ一つの目的なのです。

 冒頭に掲げた聖句に、私共はこの伝道の働きのために教会が明確に召される最初の記録を見ます。私共はすでにサマリヤでのピリポの伝道(八・二十六以下)やカイザリアでのペテロの説教(十章)において、伝道者が個人として聖霊の導きのもとにユダヤ人ではない人々の間で伝道の任務を実践する例を見ました。またクプロやクレネから来た伝道者がギリシャ人に福音を語る箇所(十一・二十以下)では、私共は聖霊の愛と生命から来る神的本能がそれらの人々を導いて、教会の指導者たちがまだ認識していなかった新しい宣教の道を開かれることがあるのを教えられました。こうした特別の人々に与えられていた聖霊の導きが、いまや教会を動かす力となる時が来ました。信者の群全体が、聖霊がそのために地にくだりたもうたところの任務に加わるように訓練を受けるべきでありました。使徒行伝の二章が重要なのは、教会がエルサレムでの働きのために上から着せられたものを私共に教えるからであるとすれば、同十三章は教会が特別な伝道の働きのために聖別されたことを教えている点で同様に重要です。私共のこの時代に伝道活動に対する関心が深まりを見せていることについては、私共はどれほど神に感謝しても足りません。伝道に対する私共の関心が永続的なものとなり、私共のむべきしゅと主が救うために来られた失われた人々とに対する愛と献身が私共自身の内的熱意となり、教会の働きを真のペンテコステ的水準にまで引き上げるという実りをもたらすものとなるためには、このアンテオケに関する記事から学ばねばなりません。すなわち伝道の働きは、その出発点と力とを、聖霊からの指示を明確にかつ直接的に確認することのうちに置かなければならないのです。

 真の伝道のわざは、必ずそれを担う教会における霊的生命の覚醒の結果として起るものであることに、人々はしばしば気がつきました。聖霊の働きは私共を覚醒させて、聖霊が啓示する貴いしゅと、聖霊が関心を向けている失われた人々とに対する新たな献身の思いを起させます。このように覚醒した心には、主によって贖われた者を主のための働きに導く聖霊の声が聞こえます。これがアンテオケで起きたことでした。アンテオケには、主のための奉仕と断食とに時間を献げていた預言者と教師たちがおりました。このような人々は、教会における神への公的な奉仕に、世から分離する精神、自分を犠牲に献げる精神を結び付けました。彼らの主は天におられました。彼らは主との密接な交わりを保って主からの命令を待つ必要性を感じていました。彼らは主との直接的な交わりを維持して、肉を殺すキリストの十字架に徹底的にあずからない限り、彼らの内に住む聖霊は自由で完全な働きをなすことができないことを理解していました。『かれらしゅつかへて斷食をなせるとき』とあります。このような人たちがいた時、彼らの心の状態と日々の生活とがこのような水準に達していた時に、聖霊は彼らの中の二人を特別な事業のために召し、この事業のために二人に、全教会員の見ている前で兄弟たちから別れて聖霊の器となることを求めたのでした。

 神の国の法則は今でも変わっていません。すべての伝道活動に責任を負っておられるのは今でも聖霊です。奉仕と聖別を通してしゅを待ち望む人々に対して聖霊は今もなお、どのような働きがなされるべきか、誰が遣わされるべきかについて、ご自分の意志を啓示したまいます。いつの世でも、信仰と祈りのうちにある人々に聖霊がひとたび聖霊の働きをなすように教えたもうた時には、他の人々も彼らのすることを賞賛して承認し、彼らの行為が聖書の教えにかなっていることを理解してそれに倣おうといたします。けれども、聖霊の導きと働きとの真の力と、愛する主なるイエスに対する現実の個人的な愛と献身とが、そこにはわずかしか存在していないという場合もあります。伝道活動に対する人々の関心がおおよそこのような性質のものである場合には、伝道活動に対する支持を得るために多くの議論と懇願と説得がしばしば必要になります。主の命令は聖書に書かれている限りで認められ、主を活ける臨在と力として啓示する聖霊の肉声が聞かれることはありません。キリスト者たちが活動により多くの関心を抱き、祈り、より多くを献げるようにと単にあおり励ますだけでは十分ではありません。別にもっと必要なことがあるのです。各個人の生活においては、聖霊の内住が、そして聖霊による栄光の主の臨在と支配とが、今一度キリスト者生涯の第一の標徵とならなければなりません。また教会の交わりにおいては、遣わされるべき人となされるべき働きについて聖霊の導きをいっそう熱心に待つこと、そのために心の目を覚醒させて助けを求め続けることを、私共は学ぶ必要があります。このように聖霊に対して十分に祈り、聖霊の働きを待ち望むことから始まる伝道活動にこそ、聖霊の力のあらわれを期待することができるのです。

 私共がこのように語るからと言って、私共がキリスト者たちを真に必要な実践的な働きから引き離そうとしていると思ってはなりません。真に必要な働き、勤勉な奉仕を必要とする働きというものはあります。さまざまな情報がやりとりされる必要があります。聖書の読み手を探して確保する必要もあります。活動資金も殖やさねばなりません。祈禱会は継続されるべきです。指導者たちは会合を持ち、相談して決定を下さねばなりません。これらはみな必要なことです。しかしこうしたことを正しく、しゅに喜ばれる奉仕としてなすためには、ただ聖霊の力によってなされているかどうかという基準に従って行われる必要があります。どうか教会が、そして一人ひとりの教会員が、このことを学ぶことができますように。聖霊は、天から来られて伝道の霊となり、キリストの弟子たちが地の果てにまでキリストの証人になるために必要な感化と力とを与えたもうのです。

 伝道の始まり、発展、成功はみな聖霊のものです。聖霊が信者たちの心にしゅの誉れを求める熱意を起すのであり、また亡び行く魂に対する憐れみ、主の約束に対する信仰、主のご命令に対する希望に満ちた信頼を呼び起し、それが伝道の成長へとつながります。人々を一つの働きにともに向かわせる者は聖霊です。相応しい人物を召して遣わす者も聖霊です。伝道の門戸を開いて異邦人たちの心に神の言葉を求めまた受ける備えをさせるのも聖霊です。聖霊が最後には勝利を与えるのであり、サタンの座のあるところにさえ十字架を立てて、主にあがなわれた者たちをそのまわりに集めるのです。伝道は聖霊のみわざの中でも特別な位置を占めるものです。人はもし自分が伝道のために用いられることを望まないのなら、聖霊に満たされることを期待することはできません。伝道のために働き祈ることを望んでいる人は誰も、弱さと貧しさを恐れる必要はありません。聖霊ご自身が、そのような人を働きの中で神が定められた役割を果すためにふさわしい者に変える力なのです。伝道のために祈っている、また教会に伝道の霊がもっと与えられることを求めている人々は、内住の聖霊の力が信者一人ひとりを個人的に、また教会をその働きと礼拝とともに、完全に支配して下さることをまず第一に祈り求めとうございます1

 『こゝおいて斷食し祈禱いのりをなし これゆかしむ 如此かくこの二人は聖靈につかはされてセルキアにくだり』(使徒十三・三、四)。伝道者を派遣することは教会の働きであるとともに、それと同じだけ聖霊の働きでもありました。これが本来の関係です。聖霊のみによって派遣される人もあります。教会の反対または無関心の中にあって聖霊がご自分の働きをされるのです。教会のみによって派遣される人もあります。教会はそうすべきであると考え、実際にそうするのですが、そこには聖霊の必要を認識して聖霊によらない働きをこばむ断食と祈りとがありません。聖霊の支配を受け入れて聖霊のご命令のみを待っている教会と、そこで聖霊が始められる宣教活動こそが祝福を受けるのです。地における十日間の祈りと待ち望みのあとに聖霊が火をもってくだられたこと、これがエルサレム教会の誕生でありました。しゅつかえて断食をなし、そして再度断食と祈りがあり、そして聖霊がバルナバとサウロを送り出したこと、これがアンテオケ教会を宣教の教会となす聖別でありました。地における待ち望みと祈り、天にある主からの聖霊の力、これらを通してキリストの教会とその宣教活動に力と喜びと祝福が参ります。

 故郷を遠く離れてこの本を読んでおられる宣教会の方々にわたしは申し上げます。兄弟よ、勇気をもちなさい。神の大能の力である聖霊が、あなたのうちなるイエスの臨在であるところの聖霊が、あなたとともにあり、あなたのうちにあります。あなたの働きは聖霊のものです。聖霊に依り頼みなさい。聖霊にゆだねなさい。聖霊を待ちなさい。働きは聖霊のものです。聖霊が必ずそれをなしとげられます。またわたしはすべてのキリスト者に申し上げます。指導者であれ、支援者であれ、献金者であれ、祈りで助ける者であれ、他の仕方で助ける者であれ、御国みくにの到来のための偉大な働きに参与するすべてのキリスト者に敢えて申します。勇気をもちなさいと。最初の弟子たちは御座みざの前に待ち、そこで聖霊のバプテスマを受けて以来、アンテオケに到達するまで走り続けました。そこで彼らはいったん立ち止まり、祈り、断食をして、それからローマとその先へと歩みを進めました。兄弟たちよ、ここから私共は力の秘訣を学びとうございます。私共は一人ひとりのキリスト者に、宣教の同伴者また働き手となることを望む一人ひとりに、私共と一緒に来て聖霊に満たされることを求めます。聖霊の働きが宣教者たちの働きであります。はっきりとしたあかしの声を上げとうございます。教会と世が必要としているものは聖霊によって内住のキリストをあかしし実証することのできる信者であります。王の臨席される前の控えの間にみな共に集まりとうございます──エルサレムでの待ち望みの時のように、またアンテオケにおける奉仕と断食の時のように。聖霊は昔のように今でも力をもって来られます。今でも活動し、力を及ぼされます。今でも力をもって罪を認めさせ、イエスをあらわし、多くの敵をその足もとに服させます。そして私共を待っておられます。どうぞ聖霊を待ち望みとうございます。聖霊をお迎えしとうございます。


 神様、あなたは世の救いぬしとして御子みこを遣わされました。あなたは御子にすべての肉に勝つ力を与えたまいました。それは、あなたが御子に与えたもうたすべての人々に、永遠の生命いのちを賜うためでした。そしてあなたはすべての肉なる者の上に聖霊を注ぎたまいました。それは聖霊を受け入れたすべての人々にその驚くべき祝福を世に知らしめ、継承させるためでした。愛と力をもって聖霊が遣わされたもうたように、聖霊もまた、御子の栄光をあらわす聖霊の力の器となるために自分自身を献げる人々を遣わされます。この天的なこの上ない栄光に満ちた救いのゆえに私共はあなたをほめたたえます。

 神様、あなたにある教会が、神から与えられた任務を果さないままでいることにあまりにも鈍感で無関心であることに、私共は驚き恥じて立ちすくみます。御子みこの約束を知って信じ、御子の意志に従い、そのみわざを完成させるという任務に対して、私共の心があまりにも鈍いことに恥じ入ります。神様、あなたに叫び求めます、どうぞあなたの教会に来てください、そしてあなたの霊を、神様が遣わされる霊を、教会のすべての信者のうちに満ちさせてください。

 わたしのお父様、わたしは今一度あなたに身を献げます。あなたの御国みくにのために生きかつ働くため、祈りかつ労苦するため、そして犠牲となり受難を受けるために。わたしは今一度新しく信仰によって聖霊の驚くべき賜物を受け入れます。聖霊の内住のためにわたし自身を献げます。へりくだって願い求めます、どうかわたしとすべてあなたの子たちとが聖霊によって力ある者となることができるようにしてください。キリストが私共の心と生涯とを占有して、全世界がキリストの栄光で充たされることが私共の唯一の願いとなるようにしてください。 アーメン


要  点

  1. 『聖靈につかはされて』。聖霊ご自身は地上における御子みこのみわざを継続するために御子によって御父おんちちから遣わされたのでした。そして聖霊は人をその働きのために遣わしたまいます。聖霊の務めは宣教の霊を教会に与えることと神が定めたまいました。聖霊の注ぎはすべて肉なるものに及んでいます。聖霊はキリストの宣教がすべての人に及ぶまで休みたもうことができません。
  2. 宣教の霊、それはキリストの霊にほかなりません。それは私共のうちに煌々と輝くキリストの魂に対する愛の純粋な炎であり、地上の遠い山々や道なき砂漠に至るまで失われた魂を求め見出すために、どこまでも行き、いかなる欠乏も身に受けようという意志を、そして願望を私共のうちに起すに十分な輝きを持っているのです。
  3. 私共は真にキリストにつく者でありましょうか。『おほよそキリストのれいなき者はキリストにつかざる者なり』(ロマ書八・九)。救いぬしの霊は世の救いのために自らを犠牲にする霊であったことを私共は知っています。私共は自らの心をこの点から省みなければなりません。
  4. イエスは私共の心をご自身のために獲得するために、聖霊を遣わしたまいました。それは御子みこが私共の中に生きて、ちょうど父が御子のうちに、御子を通して働きたもうたように、御子が私共のうちに、私共を通して働きたもうためでした。この事実を今一度信仰によって受け入れとうございます。わたしの心が聖霊わがうちに住みたもうとの確信で満たされるまで、聖霊ご自身の臨在で満たされるまで、しゅの働きを待ちとうございます。昔の弟子たちがそうしたようにわたしもこの霊に自らをゆだねます。弟子たちはキリストの霊を持っていたので、キリストの目でものを見、キリストの心で物事を感じ、キリストの活力で働きました。わたしもその同じ霊を持っているのです。
  5. リビングストンは天に帰還するにあたって書き記しました、「わたしのイエス、わたしの王、わたしの生命、わたしのすべてよ、わたしは全存在を今一度あなたにささげます」と。そして彼はひざまずき、その手で顔をおおい、祈りながら息を引き取りました。

  1. 補註11を参照。(→ 本文に戻る


| 総目次 | 祈禱と序文 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
| 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |