『啓示された愛:ヨハネ十三〜十七章におけるイエスの弟子たちへの告別説教について(Love Revealed: Meditations on the Parting Words of Jesus with His Disciples in John 13 to 17)』というジョージ・ボーウェン(George Bowen)の本がある。この本からいくつか引用したいと思う。この本は、多くのキリスト者がまだペンテコステ以前の段階にあり、キリストが彼につく人々を通して世界にその力をあらわすという約束はなお我々の経験の中にその成就を待っているという見解を説得力をもって表明している。この本をまだ知らない人々には、わたしはこれを霊的教唆に満ちた本として確信をもって推薦することができる。
『我も亦これを愛して彼に自己を示すべし』(ヨハネ十四・二十一)。
「それゆえもしこの『彼に自己を示すべし』との約束がどれほど深いものであるかを知りたいなら、われわれはキリストと父なる神と聖霊とに栄光を帰して聖霊の力を信ずる必要がある。キリストに対する信仰を持ちながら聖霊に対する信仰を持たないというのは大いなる矛盾のように思われるが、イエスに従うことを公言している人々の間にこの矛盾が現れていないかどうかは真摯な人々の判断にゆだねよう。父なる神を知るためには子なる神を知らねばならない。キリストを知るためには聖霊を知らねばならない。『彼わが榮を顯さん』(ヨハネ十六・十四)とキリストは言った。あなたはこれを信じているであろうか。このキリストの栄光をあなたは知っているであろうか。聖霊はこの栄光をあなたが見ることができるようにしてくださったのである。全能の聖霊がキリストをあらわすためにそのすべての能力を発揮できるほどの信仰を我々が既に持っているなら、我々は彼を去ってでもキリストを我々に近づけるいっそう完全な道へと進むことができるであろう。
「我々の主ご自身は我々に、天の王国すなわち主が建てるために来られた王国では最も小さな者でも、主が来られる以前に世界に現れたどの預言者よりも大きいと告げている。大きいとはどういうことか。それはなぜなのか。それはその最も小さな者でも聖霊によって神の家であるからである。キリストが死によって我々のために獲得した偉大な賜物が既に与えられているからである。
「現在の時代の栄光についてのこうした認識は、もしそれを一般のキリスト者の現実の経験と見比べて判断するなら、すべてはかなく消え去ってしまうかのように思われる。しかしそのような判断のしかたは正しくない。我々はむしろキリスト者の経験の方を聖書の基準に照らして判断すべきなのだ。そうするなら、教会がペンテコステ以前の段階に退行していること、自分のあるべき道から滑り落ちてしまっていることが分からないであろうか。キリストの死と復活以前にも弟子たちは霊的経験を弱いながらもある程度は味わっていた。そうでなければ彼らはイエスを主と呼ぶこともできなかったであろう。しかしそれは彼らがペンテコステの日に受けたものに比べると無にも等しいものであった。ペンテコステの日は規範的な日であって、それ以降の時代の日はすべてそれと同じような日、あるいはそれを上回る日であるべきであった。しかし明らかにそうはなっていない。教会はこの祝福を受ける前の状態に転落してしまっているのだ。我々はキリストにもう一度初めから行うように願い求める必要がある。もちろん我々は、霊的事柄に関する知識という意味では、ペンテコステ以前の弟子たちの水準よりもはるかに進んだところにいる。しかし、真理は既に完全に姿を現して正統信仰の一部となっているのであるから、たんに真理を持っているということは必ずしも神の霊が働いていることを意味しないということは心に留めておく必要がある。もし我々は聖書を持っていてそのすべての偉大な真理に通じているのであるから神の霊は必ず我々の内に働いておられるはずだと想像するなら、我々はこの意味で自分自身を欺くことになる。弟子たちがキリストの復活後に聖霊のバプテスマを必要としたように、我々もそれを必要としている。キリストの無尽蔵の富が、神殿の中でイザヤに示されたよりも豊かに我々に開かれることを、我々は必要としているのである。
「我々は神を愛すると公言している。そのことから推論するならば、我々はこれまでに与えられたものよりもより高くより満ち足りた神の顕現に接する願望を公言していることになる。そうだとすれば、我々は聖霊の注ぎを求める義務の重圧を深刻に感じているはずである。神をほめよ、聖霊は多くの教会に注がれ、同時に多くのキリスト者が彼らを超自然的な喜びと愛と力とで満たすキリストの姿を仰いでいるではないか。しかしなお我々はこの時代の豊かさを享受するには至っていない。もしキリストを愛するのであれば、我々はその豊かさの中に深く進み行くはずである。そしてキリストの全能の力がそれ自身を霊的世界の中にあらわす道を見出すことを信じるはずである。しかし我々はなおその世界を思い描くことができない。
『われ眞を爾曹に告ん 我往は爾曹の益なり 若ゆかずば訓慰師なんぢらに來じ 若ゆかば彼を爾曹に遣らん』(ヨハネ十六・七)。
「わたしが父のもとに昇り、あなたがたに慰め主である聖霊をあなたがたの生涯の導き手として遣わすことが、あなたがたの利益になるであろうとわたしが語る時、その宣言があなたがたにとってどれほど奇妙で信じ難く見えるとしても、わたしは単純な真理を告げているのである。それがあなたがたの利益になるとは言っても、わたしは何も聖霊がわたしよりも偉大であるとか、あなたがたにとってわたし以上の真実な友となるとか言っているわけではない。事実、聖霊の特別な任務は、あなたがたとわたしとの間の結び付きを、これまであなたがたの意識にあったものよりももっと親密でいっそう幸いなものにすることなのである。わたしの地上の生涯の最後の年月にあなたがたと旅を共にする間、わたしとあなたがたとの間には道徳的な懸隔があったが、その事実を覆い隠す必要はない。あなた方自身、人間の姿を取った神である者があなたがたに与えた感化がどれほど小さいかを思い返しては深い痛みを覚えることが幾度となくあったに違いない。あなたがたはまた嘆いたことがある。父なる神のひとり子と呼ばれた者、その変貌の様子をあなたがたが目にした者、天使が来て仕えた者、風と波に呼びかけて従わせた者──そのような者が語った言葉を聞き、その行いを見ても、あなたがたの心がどれほど鈍感であったかを思い出してあなたがたは嘆いたことがある。聖化を求める願いはあなたがたのうちにあるが、あなたがたの心に示されている聖潔の観念を新しくまた高く理解するほどに、あなたがたは自分の大きな道徳的欠陥をますます自覚するばかりである。もし奇跡があなたがたに罪に対する勝利を与えていたなら、今頃あなたがたは人間の中で最も聖なる者となっているはずである。あなた方のひとりがわたしの足もとに伏して『主よ我を離たまへ 我は罪人なり』(ルカ五・八)と叫んだ当時から、あなたがたはわたしの力の栄光あるあらわれを幾たび目撃してきたことであろうか。しかしあなたがたはなお自尊心と野心と欲望とが自分を支配していることを自覚して悲しんでいるではないか。
「もし三年半にわたってこのような驚くべき力を見せられてもあなたがたが現在あるような潔められていない状態のままであるとすれば、たとえそれが十年続いたとしてもあなたがたは自分の邪悪な本性に勝つことはできないであろう。このことを確かにあなた方自身も認めてきたに相違ない。三年半にわたってあなたがたはソロモンより偉大な者、誰も語ったことがないような仕方で語る者、神の知恵である者から教えを受けてきた。神に仕える道に関して神の思いを知るという、死すべき人間が以前には味わったことのない経験をする機会に恵まれてきた。それでその結果はどうであろうか。その結果は満足とはほど遠いものであることをあなたがたは認めざるを得ないのである。
「もし教師を得て、知的に理解できる、言葉で表された神の知恵を学ぶことで足りるのであれば、あなたがたは今頃は人の間にずばぬけた聖者となって、あらゆる誘惑に抗し、地上的なあらゆる影響から超越した者となっているはずである。しかし事実はどうであろうか。わたしは今晩もまた、例えばあなたがたの足を洗うことによって、以前と同じ教えを繰り返さなければならないのではなかろうか。あなたがたは今晩もまた自分たちのうちで最も偉い者は誰かと言い争っていたのではなかろうか。あなたがたは今晩もまた、わたしが裁きを受けている間にわたしを棄てて逃げることで、不信者たちからさえ驚きの目で見られるのではなかろうか。
「わたしはなぜこのようなことを語っているのであろうか。それは単に、わたしの地上の生涯は、神があなたがたをご自身のもとに導こうとする計画の中の一部分としてどれほど驚くべきまた栄光あるものに見えるにしても、それ自体はあなたがたに霊的贖いをもたらすことはできないということを、あなたがたが認識するようになるためである。あなたがたの眼の前に神の姿が現れるということと、あなたがた自身がその姿に変えられるということとは全く別のことである。人間は真善美を自分が具現するようになるためには単に真なるもの、善なるもの、美なるものを知ればよいと愚かにも思い込んでいる。天は地にくだり、天の王は人の間に住み、高く挙げられて天使たちの讃美を受けている様子をイザヤが神殿で見たその王が、御座から下りて地にくだり、イザヤの民の間にとどまり続けたわけだが、それにもかかわらず、この驚くべく選ばれた人々が聖潔と愛において天使のように変えられたかというと、そんな様子は見られない。ということは、人が単に神の姿を知るだけでなくその姿に変えられるためには、何か別のものが必要なのである。
「あなたがたは、わたしがあなたがたに教え示したすべてのことをあまり記憶していなかったこと、身についていなかったこと、服従していなかったことを単に認めるだけでは足りない。あなたがたはわたしの奉仕者、わたしの福音の宣教者としてのあなたがたの影響力があまりにも少ないことを強く自覚しなければならない。邪悪で反抗的な民の前に立つとあなたがたの心はあなたの内に閉じこもってしまう。そして「いったいどうすれば人々を私たちの知るキリストに導くことができるのか」と自問する。あなたがたは人々の心を真理に服させることができるために必要な力をまだ知らないと感じる。どうすれば自分の深い確信を人に取り次ぐことができるのか、まったく途方に暮れている自分をあなたがたは見出す。あなたがたはこう問わねばならない、『何か奇跡を超えるものがあるのではなかろうか──きよい生涯の力を超える何かがあるのではなかろうか』と。人々の心に届く手段、彼らをきよい生涯のあかしと幸いな福音とを受けることから妨げている敵意に対して打ち勝つ手段を、神は用意されているのではなかろうか。その通り。わたしはあなたがたが生命を受けるために、しかもより豊かに受けるために死ぬのである。わたしは天に昇り、慰め主をあなたがたに送る。そうすればあなたがたは今まで全く知らなかった力によって強められる。生ける水の川、生命の水の川があなたがたから流れ出るようになる。荒野は喜び、砂漠は楽しみ、薔薇の花咲くところとなる。
『かれ來らんとき罪につき義につき審判につき世をして罪ありと曉しめん』(ヨハネ十六・八)。
「『かれ來らんとき』にある『かれ』は原文では強意の代名詞(ekeinos)であって、『かの者こそ』と訳してもよい。来て人類に罪を認めさせる者はかの者である。その者は来て人々の罪についての観念を革新する。イエスがバプテスマを受けた時にあった天の声よりもいっそうはっきりと、十字架につけられたイエスこそ栄光を受けられたキリストに他ならないことを天からあかしするものとなる。世界は自らイエスに反対するものと位置づけているという単純な事実により、イエスをあかしする証言は世界に抗する証言となるであろう。『彼を爾曹に遣らん』という聖霊の約束は弟子たちに向けられたものであること、また人間一般の心に起こされることが暗示されている変化は神の霊が弟子たちに降ることの結果として期待されるものであることを、よく考えなさい。福音が宣教されるのは、人々に罪と義と裁きとについて悟らせるためである。キリストの弟子たちがこの世にとどまっているのは、世の人々に人間の罪と神の義と、キリストの義によってその裁きを免れる方法とを知らしめるためである。しかしここで我々は、人々の精神にこれらのことについての悟りを与えるという働きは神の霊によって達成されるものであることを教えられる。そのため使徒たちは自分たちを、天から遣わされた聖霊とともに福音を伝えた者であると語るのである。
「そうするとここで約束されているのは、神の霊の傾注によってそれが弟子たちの意識のうちにあらわされるということにとどまらず、聖霊の傾注が否定できない驚くべき事実であることが、それを傍観している人々の理解に対しても実証されるということなのである。ペンテコステの日の聖霊の到来は実際そのようなものであった。『彼は今なんぢらが見ところ聞ところの者を注り』(使徒二・三十三)とペテロは群衆に語った。彼らがその時見聞きしていたものは、イエスのどの奇跡によっても、比類のない言葉によっても、完全無欠の生涯によってもできなかったことを実現した。それらの奇跡はいま初めて見られるようになり、その比類のない言葉はいま初めて聞かれるようになり始めた、と言うこともできる。弟子たちに聖霊が注がれることによって、エルサレムの民衆は上を見上げ、いと高き御座の右におられるイエスを見ることを始めたのである。彼らは自分の罪を無条件に憎むべきものとして見た。彼らが死に追いやった生命の君の義を見た。その義の前にすべての民族に属する人々が立たされて最も厳しい審問にさらされる、そのような義を見た。そして神の裁きを見た。それはキリストに反対していたことが明らかにされるすべての人間が逃れることのできない恐ろしい裁きであった。それはあたかも彼らがすでに天に拘引され、そして裁きの座の前に引き出され、証拠の書が開かれ、自分の行いがその恐るべき場面を照らし出す誤たない光の前に開示されたところを見せられたかのようであった。計り知れない知恵を持つ者のなんと崇高な計画であろうか。神の民は聖霊の約束が意味するすべてに気づいているであろうか。人々に福音を告げ知らせて宣教のためのあれこれの働きをなすという義務を彼らが漫然と認識しているだけで十分なのであろうか。大切なことは、神の霊がキリストにつく人々に豊かに注がれて、聖霊が彼らと共にあることを人間が知るようになり、またキリストが神の右におられることを知るようになるように願い求めることではないであろうか。聖霊が豊かに注がれることで、ある意味では頌むべき神と、神から自分を引き離してしまった世とが共に会うこと、そして世の力が人々をとらえて『人々兄弟よ 我儕は何を爲べき乎』(使徒二・三十七)と叫ぶまでに至らしめることを願うべきではないであろうか。
「神の霊は万人のために一度きり降臨するというものではなく、繰り返し到来するものであるということが原文では適切に表現されている。聖霊は悟らせるために来るのである。聖霊は天から降る雨のようにあとからあとから降ってくる。また風のようにあとからあとから吹いてくる。我々は自分のペンテコステを過去に求めるべきではない。使徒行伝のペンテコステは、ただキリスト教会がこの時代に備えられた特権を知るようになるために与えられている。それは、この世とキリストの国とがやがて和解に至るためのペンテコステの階梯の最初の一段に過ぎないのだ。それは、我々がキリストの約束を熱情をもって訴える勇気を与えられるように、その約束に伴う模範として与えられているのである。
「我々が聖霊の力について高度な認識を持つことができるように神が計らってくださっている時に、なお我々がこの約束の限りない栄光を理解することを拒んでいるとすれば、それは決して許されないことであろう。そのことを考えなければならない。我々はただ聖霊の力について認識を得ることができるように、ここに聖霊が働かれるみわざを見るべきである。世界を見渡して見なさい、そして神がご自分の土地で何千年にもわたって教えてこられたことも、伝道者を通してこの最後の時に罪と義と裁きについて教えておられることも、すべて受け入れることを拒否している諸国、諸部族、諸民族を見なさい。地球を濃密で有害な霧のように覆い、義の光が射し込むことを一切妨げている邪悪を心に思い描きなさい。神の霊、それが注がれることを祈り求めるように教えられている神の霊が、必ず世界に悔改の雨を降らせて下さることを思い起しなさい。そして人々が全世界の希望であるキリストの義を見るように導かれる最後の審判の日を、この上なく崇高で幸いな終末として期待しなさい。
『譬喩をもて此事を爾曹に語しが譬喩を用ずして爾曹に語り父に就て明かに示す時いたらん』(ヨハネ十六・二十五)。
「語りにおいてたとえが用いられる時には、外の意味と内の意味とがそこに別に存在している。外の殻は内の大切なものを隠し保護している。したがってたとえで語られている真理ははじめは認識されない。その後、別の光が与えられることによって真理は明らかとなり、言葉は謎ではなくなる。福音書には、キリストが受難を経て栄光に入られるまではほとんど理解できないたとえ話がたくさんある。神の霊が弟子たちの上に注がれた時に、イエスの言葉に掛けられていた覆いが消え去り、内なる真理が彼らにはっきりと全貌を顕わした。キリスト自身についても同じようであった。かつてキリストの神たる栄光が将来に期待すべきこととして示されていた間は、弟子たちはそれを驚嘆して見ていたものの、その心にかかる迷妄はほとんど晴れることがなかった。キリストに関する事柄が彼らに本来の完全な効果を及ぼすようになったのは、彼らが律法的で抑圧的なユダヤ教の谷から引き上げられ、新約時代の高められた基盤の上に立たされてから後のことであった。
「神の霊が流れ出し、彼らの心をかつては意味が分からなかった真理で満たす。ここには注意すべき重要な点があるように思われる。聖霊が我々に教える真理を、単なる生まれつきの記憶力だけで心の中に保持することができるように思われるかも知れない。しかしそうすると我々は自分の持つ霊的能力の限界について自分を欺くことにならないであろうか。我々は聖霊の感化という面ではキリストの死より以前の弟子たちと同じようにわずかしか受けていないにもかかわらず、生き方に関する知識の量において彼らよりはるかに先に進んでいるだけなのではないであろうか。真の信仰の復興がまだ訪れていない教会では、キリスト者の状態は最初の弟子たちの状態、それもペンテコステの時点のではなくそれ以前の状態になぞらえられる、つまり人々が現実に神から受けている影響の観点からはそのように言えるのではないか、そのことを人々は恐れなければならないのではないであろうか。彼らは真理を知っているので自分たちは真理の霊を持っているのだと想像している。そのような人々に対するキリストの言葉はおそらくこれである。『爾曹上より權を授らるゝ迄はエルサレムに留れ』(ルカ二十四・四十九)。我々は人々に罪について、義について、裁きについて確信させるに当たっての自分の完全な無力さを覚えて困惑し、当惑し、混乱している。それは、我々が聖霊の力ある明白な到来の必要性を忘れているということなのではなかろうか。キリストは、聖霊が我々の上にくだるのを目に見えるように明らかにして、その事実によって周囲にある世の人々が、天が開かれ神の子が神の右に立っておられる様子を自ら見出すようにすることがおできになるのである。
「この時代の人々の多くは、使徒たちが最初に持っていた低い地位よりも優れた地位を得ているわけではない。イエスがともにおられた間も、彼らは聖霊の影響を全く受けていなかったわけではないが、その影響は眼の前の闇を照らすだけであって、未来の光はもやの中に遠く示されているだけであった。現在でも多くのキリスト者が未来を照らす光を知らないまま、聖霊の弱く不明瞭な影響のもとに暮らしている。しかもその影響は現在ではなく過去の時代に属するものであって、現在の恩恵よりも二千年前の状態に彼らがおかれていることを示すものなのである。これは既に述べたことだがもう一度はっきり言おう。彼らはそれでもペンテコステ以前の教会が持っていなかった知識を有しているのだ。この優れた知識を自覚しているだけに、彼らは自分の霊的欠乏に気づかないままになりがちなのである。彼らの状態は奇妙なものである。なぜなら、彼らは喜ばしい約束を親しく知っていながら、その約束が与える栄光を認める能力を持っていないのだからである。彼らは実際に、こうした約束に対して彼ら自身の無感覚で光に欠けた経験がもたらすもの以上に優れたことを思い描くことができない。しかし神に祝福あれ、我々はこの時代にあっては一つのペンテコステに制約されてはいない。我々が置かれている状態の異常さを認めようではないか、そして神が我々を招かれているいっそう高い経験についての知識を手にしよう。ペンテコステは教会にとって山の頂上なのではなく、新しいエルサレムに向かって旅をする過程の山道あるいは高原なのであった。しっかりと上を見上げようではないか、雲の合間に聖潔へと昇る道を見極めようではないか、そしてそれを与えてくださる救い主の力をあかししようではないか。」
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