補註15  聖霊に信頼すること

第二十七章



 聖霊が我々に自分に死ぬこととキリストを自分の生命として生きることとを可能にさせるということに関しては、ストックマイアー師(Pastor Stockmaier)による『ケズィック大会の思い出(Reminiscences of the Keswick Convention, 1879)』という小さな説教集の中にたいへん有益な思想がある。これらの思想を忘れないために、またそれに接することのできない読者に対して紹介するために、わたしはここで本書からやや長い引用を行う。リバイバルの祝福が恒久的なものとなるために必要なことは、各信者が聖徒たちとの交わりの中で得たことを自分の内に個人的に保持して強めることを学ぶことにある。そのことは、その人がまだよく知らない、その人の内に住む聖霊の、幸いな働きによって実現するのである。

 「ピリピ書二章十二、十三節:『爾曹なんぢらしたがへる如く畏懼おそれ戰慄をのゝきおのれすくひまったうせよ …… そは神その善旨よきむねを行はんとて爾曹なんぢらうちにはたらき爾曹なんぢらをして志をたて事を行はしむればなり』。私共は人間の働きや人格を相手にしているのではなく、聖霊と向き合っているのですから、不服従に陥ることを恐れなければなりません。事を行わせようとしているのは私共自身ではなく聖霊なのです。

 「モーセが燃える柴の前に来た時にしゅはおっしゃいました、『なんぢの足よりくつを脫ぐべし なんぢが立つところきよき地なればなり』(出エジプト三・五)。ここはきよき地であります。なぜならば志をたて事を行わせる者は聖霊なる神であるからです。きよめや奉仕について問うべきことがある時、私共はいつでも神のみまえに、きよき地におります。私共のうちに働いて志を起させ事を行わせる者は神であります。どうぞおそれとおののきをもってあなた自身の救いを達成しなさい。私共自身の救いを達成するとはいかなることでありますか。使徒パウロは同じことを命じるに当たって『されが愛する所の者よ 爾曹なんぢら常にしたがへる如く』と前置きしております(ピリピ二・十二)。この『されば』という語は八節、すなわちキリストの行いを受けて言われていると解釈できます。キリストは『死に至るまでしたがひ』たまいました。五節から十一節にはキリストの行いを見ます。キリストは天の位から身を落とされ、そして身を落とされたがゆえに天に高く挙げられました。それゆえにあなたがたもまたそれに従うというのです。

 「十二、十三節には、イエスの行いの上に働かれる聖霊のみわざを見ます。イエスは死に至るまで忠実であられました。死は私共の生来の性質に反するものです。私共は自分の命を守るためには何でもします。しかしキリストは、永遠の霊を通してご自身を傷のない小羊として神に献げ、ご自身の死をもって犠牲を献げるというみわざの終わりとなしたまいました。聖霊のみわざは私共を死に赴かれるキリストとの交わりに入れたまいます。聖霊は私共にキリストの力による死を望ませたまいます。聖霊は私共を、キリストの死が私共を据えたその地位に連れきたりたまいます。キリストが死んだのは、『生者いけるものをして以後このゝちおのがためならでおのれかはりてしによみがへりし者のために世をすごさしめん』ためでした(コリント後書五・十五)。キリストが私共に与えたもうたこのような地位を、人間は誰も自ら望むことはありません。ただ聖霊のみが、私共の手を取って導き、死んで甦りたもうたキリストとの交わりのうちに生きまたそれを求めることを私共に望ませるのです。『わがをらざる今はことに』と使徒は申します(ピリピ二・十二)。今はことに聖霊に従い続けなさい、聖霊はあなたがたに小羊なるキリストに従うことを教え、キリストとともに死ぬことを願わせ、そうしてあなたがたがキリストに仕え、キリストを愛し、生の新しきの中を歩むことができるようになしたまいます、これらすべてをおそれとおののきをもって行いなさい、なぜなら働きたもう者は神であるからです、と申します。私共がおそれをもって行わなければならないことはただ一つ、自己を捨てて聖霊に身を委ね、聖霊のすべての働きにおいて聖霊に従うということです。それは、聖霊がすべての物事をその手中に置いて、神の栄光のためになすことができるようになるためです。私共はただ救いぬしを悲しませないようにとだけ心配すればよく、そうすれば他のすべての懸念はなくなります。その時には私共はまず神の国と神の義とを求めればよいのです。そうすればほかのものはすべて添えて与えられます。天が地を四周から取り囲んでいるように、聖霊のみわざもまた私共の存在の中にあるすべてに及び、すべてを彼が支配し造り変える力のうちに入れたまいます。

 「私共がそこからさまよい出た聖なる地にいま戻らねばなりません。神は神のものであるものを所有しなければならないはずです。私共は神から来たのであり、神のために創られました。私共は聖霊にほまれをすること、聖霊の働きを私共が持っている最も高貴なものであると承知して、聖霊の励ましを一つでも失うことを恐れることを学ばねばなりません。聖霊の働きはいずれも限りない労苦を伴うものだからです。私共が神の愛を深く知れば知るほど、また私共は神を深く恐れることを学ぶということは、経験の教えるところです。前者は後者を含み、それを方向付けるものだからです。そこには矛盾はありません。

 「ヤコブ書四・一には『爾曹なんぢらうち戰鬪いくさ爭競あらそひは …… 爾曹なんぢらの百態のうちに戰ふ所の慾(lust)よりきたりしにあらずや』とあります。しかし同じ五節を見ますと、『みたま熱心を我儕われらいつくしむ(lusteth)』とあります。こちらのlustという語は通常私共が使っている意味で解釈することができません。この語はここでは罪深い欲望を意味しているのではありません。神の霊が罪深い欲望を持つことはあり得ないからです。私共はここに、二つの異なる傾向性、異なる力、異なる世界、相互に共通するものがなく、天と地ほどにも隔たっているもの──すなわち肉と霊とを見ます。私共は責任ある道徳的存在です。そうですから私共は自分の内的および外的生活の支配権をこの対立する二つのいずれに渡すのかを選択しなければなりません。

 「わたしは、不純な感情が心の中に生ずることがない、一瞬の光としても形を取ることがないような状態があることを知っています。そのような状態にあるキリスト者は、キリストがそのような感情から守ってくださるようにゆだねることを学んでいるのです。そのためそのような感情はもはや現れません。しかしそのような人でも、肉の思いが湧き上がる傾向が存在することは意識しています。

 「きよめには多くの段階があります。私共はこのような不純な思いの生起から完全に解放された後にのみ、聖霊はそのきよめの働きをさらにいっそう深く進めたまいます。それは言葉で説明することは難しく、体感するよりほかありません。私共が聖書の言葉を解き明かす際に、自分の経験と他人の経験、または教会のキリスト者生活の水準がそこにどう反映しているかを自覚することは容易ではありません。あなたはケズィックやオックスフォードの集会に参加したことはあるでしょうか。そこでは神の聖霊があなたに近づくにつれてあなたの内部の空気が変えられ、高い山の空気を呼吸しているように感じる瞬間が来るのを経験しなかったでしょうか。私共は聖霊の䕃に入るほどに、通常とは異なる聖霊の力が私共の生命のうちに働くことを経験します。エルサレム教会での最初の日の経験に立ち帰ってみることができるなら、私共はそこで、私共を肉的傾向から保護された状態に保つ聖霊の力を知ることができるでしょう。しかし私共は一つの家族でありますから、かしらなるキリストの満たしを自分一人だけで個人的に経験するということはできず、残りの者たちが私共に従うように求めなければなりません。私共は教会の肢体がすべて、その生活が聖霊にある生活を実現するようになることを必要とします。もしあなたがたが病めるキリスト者たち、惰眠をむさぼるキリスト者たち、救いぬしを完全に信頼することをしないキリスト者たちに取り囲まれているとすれば、全能者の䕃にとどまるのは困難になります。私共の日々の暮らし、話す言葉、また表情そのものが、私共が善き羊飼いの中に満ち溢れる生命を見出していることをあかしするものとならねばなりません。愛する皆さん、自分自身の生命を救おうとすること、守ろうとすることをやめなさい。聖霊はあなたの古い生命のすべての部分を死にわたすべく働いておられます。愛する兄弟たちよ、私共は俗世的存在です。私共が俗世的であることが回心のために大きな妨げとなっており、また福音が広まらない大きな理由であります。しかし思い起しなさい、キリスト者は誰でも一度はしゅにすべてを献げたのです。その時にはあなたは幸福でした。あなたがいま幸福でない理由は、あなたが全生涯を献げていないからです。日々の生活の中で、会話の中で、また選択の中で、あなたはまだ自分の意志と神の意志との間で迷うことがあります。兄弟たちよ、わたしは自分の心を人間的な希望や欲望にだけ向けたくはありません。そうすることはわたしが神の御顔みかおを仰ぐことができないようにさせるからです。午後の時間を、一時間だけであっても、自分のために取っておきたいとは思いません。もしそうすればそれは幸福でない一日、幸福でない一時間となることをわたしは知っているからです。毎日、毎時間を天の父なる神の手にゆだねることは幸いであります。あまりに幸いですから、わたしは生涯における選択を再びこの手に取り戻したいとは思いません。

 「使徒行伝二・三十六以下をご覧なさい、そこにはヨハネ十六・七〜十一の約束の完全な成就を見ます。愛する兄弟たちよ、このヨハネによる福音書の本文の中で、私共のしゅなる神は聖霊に二つの明確な役割があることを宣言したまいます。聖霊は弟子たちに対しては慰めぬしという名をもつと同時に、世界に対して悟りを与えるという役割を持ちます。しかし聖霊が弟子たちを通して世界に悟りを与えるためには、聖霊に満たされた弟子がもっと必要でした。ペンテコステにおいてかの約束が成就しました。弟子たちは聖霊に満たされ、慰め主がその内に住むところとなりましたので、世界に不信仰の罪を悟らしめる神の手の管となりました。しかし今、聖霊の慰め主としての役割がこのようなものであると知っている弟子がなんと少ないことでしょうか。聖霊の慰めとは何でしょうか。聖霊は何よりもまず、私共の心に或る意識をもたらします。その意識とは、私共が御子みこの力によって父なる神を喜ばせるものとされていること、私共は和解を受けた子供であって、父なる神を喜ばせることができることを知ることです。しかしいったいキリスト者たちは、聖霊のこうした役割について思いをめぐらし、彼らの日々の歩みの中で聖霊に慰め主であるにもまして悟りを与える者となっていただくために時間を取るつもりがあるのでしょうか。というのもわたしはこの数日間、或る深い感情にとらわれて、それを神のみまえに申し述べざるを得ないからです。それは、聖霊に私共の間で、一般的に言って、慰めのわざ以上に悟りをもたらすわざ、罪を悟らせるわざをなしていただかなければならないという思いです。どのような罪でしょうか。不信仰の罪をです。一日を、あるいは一週間を、あるいは一年を振り返った時に、神を喜ばせる生涯を送ってきたというあかしを心の中に持てないキリスト者が多いのは、不信仰の結ぶ実であります。再び、そして何度でも、罪を悟らせるという役割を聖霊に果していただかなければなりません。その結果、神の子たちは天にいます父なる神を喜ばせる生涯に自分で至ることができるとは信じられなくなります。この聖霊のを受けない限り、ケズィックであれ他のいかなる集会であれ、それが終わった一週間後、一ヶ月後、あるいは一年後に、その参加者の中に一人でも信仰によって神を喜ばせることを学んだ者が出て来るという神の保証を得ることはできません。たとえ一年たっても、私共はイエスの力をあかしするために戻ってくることはないでしょう。そして自分の生涯に中でキリストの力を経験したかと問われれば、私共は神をたえず喜ばせることはしてこなかったこと、慰め主としての聖霊の臨在にたえずあずかっているわけではなかったことを告白せざるを得ないのです。

 「私共は聖なる地にいます。このことを覚えとうございます。私共は神の力を経験していないならばそれについて語る権利を持ちません。自分が経験することはすべて自分が信じているとおりに経験するのだということが分からない限り、わたしは一歩も前に進むことができないでしょう。

 「今、ペテロ前書二・五〜九をもご覧なさい。愛する友よ、どうかあなたがたが神から私共に与えられているこの栄光ある務めを果すことができますように。不信仰の罪を認め、不信仰の罪を永久に捨てた後でなければ、聖霊が私共の心の中で慰めぬしとして働いておられることを知ることができません。ペンテコステの日に集まったかの三千人の人々はどのように自分たちの罪を認めたでしょうか。『我儕われらは何をなすべき』『悔改くいあらためよ』(使徒二・三十七、八)──あなたがたの罪を捨てよ、イエス・キリストに対する不信仰の罪を捨てよという意味であります。彼らはそのようにしました。そしてその瞬間、彼らは自分たちが十字架につけたイエスをしゅとして、キリストとして受けました。わたしもまたあなたがたに願います、不信仰という恐るべき罪を捨て、イエスを油注がれた主として認めなさい。彼は神の子らに油を注いで祭司にしようと待っておられるのです。イエスは、私共が信じて日常生活を歩むことができるように保ち、私共が信仰のうちに神を喜ばせる歩みを続けることができるように守ることができます。そのことを信じて進み始めようではありませんか。私共は父なる神を喜ばせることがない生活をもはや続けることはできません。

 「もう一度ピリピ書二・十二、十三に戻ります。もし私共の前に置かれた栄光の真理を実践生活の中で十分に実感できないとすれば、その理由は次のことにあるとわたしは思います。そのような神の子たちは、イエスの働きについては明確な信認をもっていますが、聖霊に対しては同じような信認をもっていないのです。しかし私共の救いに関わるすべてのわざに志を立てさせ事を行わしめるのは、聖霊が信者各自の心の中にたえず働きかけることによるのです。今わたしは自分が吸う空気があることを知っています。そしてこの空気を神は毎秒ごとにわたしに与え続けてくださるでしょう。それと同じように、聖霊もまたわたしの心の内奥に働くことを一瞬たりとも中断なさいません。わたしは聖霊の宮であり、聖霊はわたしのうちに働いておられます。『その善旨よきむねを行はんとて爾曹なんぢらうちにはたらき爾曹なんぢらをして志をたて事を行はしむ』るのは聖霊なる神であるからです。

 「あなたがたは今どうすればそのような信認をもつことができるかと問います。わたしがイエスを罪から守って下さる方としていま信認していること、この午後も夕方になってもわたしが神との交わりの中にとどまることができること、イエスのうちにとどまることができること、信認し続けることができること、それをどうすればわたしは確信することができるでしょうか。兄弟よ、このような疑問を持つ時にはあなたは聖霊を信じてはいないのです。そのようなことを問う限り、あなたは神との交流を継続することはできません。なぜならその時にあなたは信認するために必要なことをあなた自身のうちに見出そうとしているのだからです。しかし『爾曹なんぢらうちにはたらき爾曹なんぢらをして志をたて事を行はしむ』るのは聖霊であります。

 「これらのことを実感するキリスト者が少ない理由は、彼らがキリストのみわざに対して抱いているような明確な信認を聖霊の働きに対しては抱いていないことにあります。私共は三位一体の神を信ずる者でなければなりません。私共はキリストがそのみわざによって私共に与えられたすべてのものを現実として受け入れなければなりません。しかし私共は聖霊の摂理の中にいるのです。聖霊に栄光をさない限り、私共は実践的なキリスト者となることはできません。

 「聖霊のもとに私共の日常生活のあらゆるものを持ちきたりとうございます。父と子と聖霊とはいつもともに働きたまいます。父は聖霊と一致協力して働いておられます。聖霊はわたしの心の中で実現すべき任務を持っておられます。そして聖霊がわたしの心の中で自由にその働きをなすことができるのは、わたしがイエスに目を留めている間に限られます。聖霊の働きにわたしが観察の目を向けると、そのとたんにわたしはそれを妨げてしまいます。聖霊の働きは、わたしの目をイエスに向けさせることに始まり、かつ終わります。わたしがイエスに目を向けるならば、わたしは聖霊がわたしの内に働くことのできる場にいることになります。父は聖霊とともに朝から晩まで働きたまいます。もし父が働くのをやめられたら、わたしは耐えがたい誘惑に襲われることになります。しかしわたしはコリント前書十・十三に記されているような状態にとどまることはできません。私共が耐え忍ぶことのできる限界を超えた試みはありえません。なぜなら父はその子のために翌日の予定の細部までを夕方のうちに準備しているからです。そして父は決して、わたしがイエスに目を向けることによって得ている霊の力を超えるような嵐が、外からも内からも襲うことがないようにされていることをわたしは知っています。天の父のお許しがなければあなたの髪の毛一本さえ落ちることはありません。聖霊が私共の心の中で自由に、完全に、一段一段働き続けることができるのは、父の注意深い配慮の力によってなのです。父は私共の外的生活が聖霊の働きと一致してともに働くように、そのすべての細部まで整えたまいます。

 「それでは信者がヨハネ七・三十七〜九十四・十六、十七に語られているように聖霊を受けるのは、きよめのために受けるのでしょうか、それとも聖霊はきよめとはまた別の賜物なのでしょうか。あなたがたはそのように問うかも知れません。

 「愛されている友よ、きよめとは何でしょうか。それは要するに、義認を通してあなたが聖霊によってイエス・キリストのもとに連れて来られるということです。神はあなたの罪の重荷を取り去り、あなたをイエス・キリストにある新しい世界の中に置きたまいます。わたしにとってきよめとは、イエス・キリストの中に住むこと、聖霊がわたしを置いてくださったその場所にとどまるということにほかなりません。最初に聖霊を受けた時から、わがうちなる聖霊を敬うということのほか、わたしがなすべきことは何もありません。『爾曹なんぢらしたがへる如く畏懼おそれ戰慄をのゝきおのれすくひまったうせよ …… そは神その善旨よきむねを行はんとて爾曹なんぢらうちにはたらき爾曹なんぢらをして志をたて事を行はしむればなり』。多くの神の子たちは生ける水によって真に満たされてはいません。もし彼らから生ける水が流れ出すことがないとすれば、その理由は、彼らがすべてにおいて実際に聖霊を崇めるということをしたことがないからです。『まったうせよ(英訳では Work out)』──そのように言われているのは、私共は内に働いて(working within)おられる聖霊に従わなければならないからです──『畏懼おそれ戰慄をのゝきて』、すなわち何であれ聖霊に逆らうまいとおそれて。そうすれば私共は他の人々にとって生ける水となり始めましょう。聖霊が万事において私共のうちに働いてくださるように私共が自分の存在を聖霊に差し出す時から、神は私共の生まれつきの性質を滅ぼされ、葡萄の樹の枝に流れる樹液のように私共のうちに働きたまいます。

 「では改めて問いましょう。例えば私共は朝食の前に聖書と祈りのための時を確保するために朝早起きすることに困難を感じます。そのようなよくある日々の誘惑に対して、このキリストを信じる信仰の生活は何か助けになるのでしょうか?

 「わたしがここで教えている事柄を日常生活の中で実感できるようになるための秘訣は、万事において聖霊の静かな導きにゆだねることを学ぶことです。聖霊が私共の内で働かれるのは、主人が奴隷に対するようにではありません。聖霊は私共をキリストの花嫁となしたまいとうございます。夫婦の間の真の関係とは、妻が夫に対して対等な者であるという関係です。そして私共と聖霊との関係にあっては、私共は最も小さな命令、『しづかなる細微ほそき聲』(列王上十九・十二)に従うことを学ばなければなりません。神のその静かなる細き声を聞くことができるように私共の耳を開くということは、この生涯の間に私共が受ける最も価値ある訓練です。静かな細い声に慣れていないキリスト者たちには、最初は困難が伴います。悪い手本の声や、聖霊に従っていない教えの声や、その他諸々の声が理性と心を満たしてしまうからです。彼らは他のすべての声に対しては耳の聞こえない者となり、静かな細い声だけに聞くことを学ばねばなりません。この声を聞き分けられるようになるのは、聖なる学びです。あなたの心と想像力と願望とが神の側に立った時に、初めてあなたはそれを聞き分けるようになります。私共の善き羊飼いの善良さ、親切さ、優しさ、慎ましさに信頼するにつれて、私共は聞くことを学ぶようになります。他の者の声に聞くなら私共は必ず道を誤ります。ロマ書八・十一テサロニケ前書五・二十三に、この神の道の終極を見ます。神の働きは、それが私共の肉体に顕れることによって終わるのです。キリスト者の顔から、そのまなざしによって、その人が若い信者ではなく、長いあいだ神と共に生きてきた人であることが分かることがあります。あなたがたが静かな細い声を聞き分けることを学ぶにつれ、『イエスを死よりよみがへらしゝ者のれい』(ロマ八・十一)はあなたがたの死すべき肉体にも働いてそれを生かすことを始めます。私共は朝早く起きることに困難と闘いを覚えることがあります。肉体に打ち勝とうとしますができません。しかし私共が聖霊にゆだねることを学ぶ時、その分に応じて、神の霊の活かす力が私共の肉体にも顕れるようになります。そして肉体は再び活力を得て神への奉仕において最善をなすことができるようになります。私共は神が私共によって何をなそうとしておられるかを神の声から直接知ることを学ぶようになるでしょう。神の霊は決して、私共が生まれつきの力によってなすことができる事柄のために私共の肉体を活かすということをなしたまいません。神はご自身が私共に与えられる一つひとつの働きのために、この死すべき身体をも活かしたまいます。そのことを私共は日々、時々刻々に知り、実感するようになります。わたしの言葉は拙いかも知れませんが、それを神の霊がわたしに与えられたのでなければ、わたしは五分も話すことができないでしょう。同じように朝早く起きるためにも、その他何事においても、聖霊は私共がそれをなすために必要な力をその時々に過不足なく与えたもうでしょう。神に完全に依り頼んで生きている人は、自分が疲れているか元気であるかとか、健康を感じているか病気を感じているかということに気を遣いません。その人は奉仕に必要な励ましを神から受けられると学んでいるからです。その人がもし朝早く起きる必要があると感じているなら、その人にとってそれは、その日一日を安全に生きるために必要な神のご意志なのです。その人は子供のように父なる神のもとに行き、「わたしが起きる時から日々の糧を与えてください」と申し上げます。それは、神の霊がその死すべき肉体のうちに働いて、肉体と心と霊とをしゅの奉仕のために主が望んでおられるところのものへと瞬間ごとに変えてくださるようにとの意味です。

 「ピリピ二・八には、イエス・キリストは『死に至るまでしたがひ』とあります。そして数節先には使徒が『爾曹なんぢらしたがへる如く畏懼おそれ戰慄をのゝきおのれすくひまったうせよ そは神爾曹なんぢらうちにはたらき爾曹なんぢらをして志をたて事を行はしむればなり』と述べているのを見ます。どのような志を立てて何を行わしめるというのでしょうか。それは死に至るまで忠実であったイエスと同じ心を持つということです。聖霊は私共に死を望ませたまいます。そしてすべてにおいて朝から晩まで、聖なる神の祭壇の前に生ける供え物となること、新しい契約の栄光ある法の中に自由に進み入ることを望ませたまいます。私共は自分の命を捨てた分だけしかイエスの生命を得ることはできないのです。

 「どれほど栄光ある生命をキリストは私共にもたらしたことでしょうか、またどれほど栄光ある生命を聖霊は私共の内に実現したもうことでしょうか。そのためには、私共がイエス・キリストの生命を私共自身の生命よりも無限に価値あるものと信ずることが条件になります。

 「キリストのために働こうとして疲れ切ってしまうキリスト者がこれほど多いのはなぜでしょうか。それは、彼らが自分自身の生命で働こうとしているからです。私共の働きが実りあるものとなるのは、私共がその働きの中に自分自身の生命、自分自身の生きがいを求めることをやめて、キリストの栄光とキリストの利益を求めるようになった時です。私共が復活の生命にあずかるのは、私共がキリストとともに埋葬された状態にとどまって、ただキリストの生命に生きる限りにおいてなのです。

 「ヨハネ五・三十九には『聖書を探索しらべよ(Search the scriptures)』とあります。イエスはまたエマオ途上の弟子たちに、聖書全篇にイエスの名が満ちていることを教えたまいました。なぜイエスに全く信頼する者が少ないのでしょうか。それは私共が聖書にイエスを見出すようなしかたで現実のイエスを知る者が少ないからです。私共は想像や感情の中にあるキリストを脇に置いて、聖書の中に与えられているキリストに立ち帰らなければなりません。私共の罪のために死に、私共が彼ご自身の義の生涯を生きるようにと生きておられる、真実の生ける救いぬしにです。

 「聖書を調べなさい。そしてイエスの人格、その生き、死に、挙げられた人格をあなたがたの眼の前に聖霊に示していただきなさい。聖霊があなたがたの祈りに答えてイエスの人格に新しい光を投じてくださるなら、あなたがたはもはやどうすればイエスを信頼できるかなどと問うことはなくなります。この友をもっと深く知りなさい、そうすればもうどうやって彼を信頼しようかなどと疑問に思わなくなります。そうするほかなくなるからです。これは信仰によるのです。この一事をただ覚えなさい。イエスは最初から彼の素晴らしさをすべて開示することはしません。まず私共に信頼を求めます。「あなたはあなたの生命よりもわたしの生命の方が貴いと信じられるか。信じられるならあなたの生命を差し出しなさい。そうすればわたしが別の生命をあなたにあげよう。」イエスは待っておられます。聖霊はイエスの人格に光を投げかけたまいます。聖霊がイエスをあなたの前に示す時、あなたがあなた自身を振り返るなら、それは正しくありません。愛されているあなた、これは豊かな生命であります。誰にとって豊かなのでしょうか。生ける救いぬしに導かれてそのカルバリにおける偉業を理解するようになった者にとってです。カルバリの功績はあなたが自分自身の生涯の中で絡め取られていた鎖としがらみを砕きました。私共は死ぬことができません。私共は神の羊飼いに手を引かれてみどりの野だけを歩むという考えを離れて、死のかげの谷をともに進みます(詩二十三)。福音書の中でイエスはベタニヤのマリアについて語っています。『彼はわれはうむりためなせなり このをんななしし事もその記念かたみため言傳いひつたへらるべし』(マタイ二十六・十二、十三)。マリアはこの時キリストの死を受け入れました(女性には受容する能力があります)。彼女はシモン・ペテロが受け入れることのできなかったこと、キリストが十字架に赴くべきであることを受け入れました。彼女はキリストの埋葬のために彼女の最善のものを差し出して油そそぎを行いました。この死に赴かれるキリストを完全に受け入れとうございます。もう自分だけで生きることを求めてはなりません。イエス・キリストは死にたまい、死を通して甦りに至りたまいました。キリストの生命の䕃にとどまりなさい。あなたは安息と平和を求めますか、それならそれをみどりの野といこいのみぎわにのみ求めてはなりません、最も深い慰めは死のかげの谷にあるのです。『禍害わざはひをおそれじ』と。どこででしょうか。『たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも』であります(詩二十三・四)。わたしは死を通しての生、死の中にある生を宣べ伝えます。それ以外の生をわたしは知りません。イエスがすべてであるならわたしの生は彼の生に明け渡されねばなりません。彼の生がわたしの生を超えて高く挙げられねばなりません。

 「聖書を深く調べなさい。キリストの一歩ごとの歩みに従いなさい。キリストは死によって死の力と恐れを取り去りたまいました。それは私共がもはや死に繫がれていない者となるためです。このことを憶えなさい。自己に死ぬことはもはや恐ろしいことではありません。無となってキリストを所有すること、それこそが生であり、わたしの全存在を満ち足らしめる唯一の生なのです。イエスが彼の死にあなたを完全に結び付けてくださると信じなさい。彼を信じなさい。自分自身や自分の感情に目を向けてはなりません。死の䕃の谷のむこうに豊かな生があります。あなたがすべてを捨ててイエスの御腕みうでの中に身を投じる時、死はその人を恐れさせる力を失います。わたしにはこの経験があります。そしてイエスに完全に自身をゆだねる者はだれでもこの経験、唯一の真の生命がイエスの内にあるという経験を持ちます。もしあなたが日々の生活に統一性を得たいと願うなら、ただ生を求めてはなりません。生だけを求めても生を見出すことはありません。いつでもキリストの中には私共が自分自身に対して死ぬための力があります。その力こそ私共が探し求めているものなのです。私共は死なない限り実りをもたらすことができません。このような完全な信頼の結果がどのようなものであるとわたしが理解し感じ取っているかをお話ししましょう。それはこうです。わたしは救いぬしを以前より深く知るようになるにつれ、救い主が望まれるままにわたしをさまざまな経験に導かれるのに任せるようになりました。彼はわたしを深き淵の中を導かれました。神のしもべは必ず火によってきよめられます。しゅはレビの子らを火の中を導かれました。そこで彼らをきよめて奉仕にふさわしい者となしたまいました。なぜなら私共の主は実りある奉仕のためにきよめられた器しか用いられないからです。神はきよめられていない器を日常的に使うことをなさいません。わたしはまた、死の䕃の深い谷の中で救いぬしにお会いし、救い主はわたしが以前には味わったことのない慰めを与えられるという経験をいたしました。はっきり言いますが、わたしは神の羊飼いがわたしを深い水と暗い谷を通して導くことを選ぶのであれば、決していこいのみぎわとみどりの野に行くことを望みません。一方には緑豊かな谷があり、他方には暗い谷があります。そして羊飼いはそれぞれの羊を彼の特別な必要に応じて導きたまいます。イエスに目を向けることを学びなさい。イエスに目を向けるならば、イエスがその表情によって聖霊の指示される道にあなたを導いておられることがわかるでしょう。そうなるや否や、信頼することがあなたの心の自然な態度となり、どんなことをするのもイエスを疑うよりは容易だと思えるようになるでしょう。

 「ところで実際にきよめられた生涯というのは、世俗的な事業活動に没頭する生活と両立するのでしょうか。後者では一週間のうち六日まで、朝九時から夜七時まで商売上の問題に心が奪われていて、取引相手の十人中九人までは救われていない人なのですが。そのような疑問を持つ人があるかも知れません。

 「一人の職業人を紹介しましょう。ダニエル書六章の初めを見ますと、ダリヨス王の王国には百二十人の牧伯ぼくはくと三人の監督がおりました。その中からダニエルという一人の人物が牧伯の中から選ばれました。この人は禁令を犯して、一日三回寝室に入って天に向かって窓を開き、天国の空気を呼吸しました。私共は多くの事業に携わるほど多くの祈りを必要とします。強欲の霊や執着の霊に囚われている人をご覧なさい。このような人は日常生活の中で一瞬たりとも、彼の人生の大目的──金儲け──から目を離すことはありません。

 「神の霊に囚われている人がいます。この人は決して、彼の日常生活の偉大な目的──神の栄光をあらわすこと──から目を離すことがありません。しかしこのような生涯を生きるためには、この人はまず自己に死ななければなりません。職業人であり父親であるキリスト者は、その子供のために働くのではなく、神のために働くのであって、その子供のためには神がパンを与えられます。わたしを信じてください。私共の天の父は事業をも理解しておられ、彼の子たちのうちの一人たりとも、一日中必要なものを与えられないままになっていることをお許しになりません。しかし神の子たる者は、天の父が『子よ、こちらに来なさい。あなたに言うことがあります。あなたの上には雲がかかっています。わたしのもとに来なさい、そうすればあなたがそれに対処できるようにしましょう』とおっしゃる時に、ただちに立ち止まって従う用意ができていなければなりません。

 「『安然あんぜんにしてゆけ』(マルコ五・三十四)。あなたは神の羊飼いの御腕みうでに身を預けて安息に入ることができます。どうすれば安息にとどまることができるかと問うてはなりません。思い起しなさい、毎日、毎時、あなたを信頼のうちにとどめたもうのは聖霊ですが、それには一つの条件があります。あなたは自分の心の力にではなく、聖霊に信頼することを努めなければなりません。その時に、父なる神のみこころと力ある手によって守られ、三位一体の神の働きという聖なる基礎を得ることができます──『安然あんぜんにしてゆけ』と。アーメン。

 「喜びをもって働き奉仕しつつ、天にある生涯の偉大な教訓──愛の教訓を実践しとうございます。自分自身の働きをではなく、他の人々の働きを喜ぶことを学びとうございます。『喜ぶ者と共によろこびかなしむ者と共にかなしむべし』(ロマ十二・十五)、このことを学びとうございます。自分自身の悲しみに涙するのでなく、自分の個人的な喜びのみを喜ぶのではありません。愛のうちに他者に仕えるという、この唯一の目的を持って、しゅの手のもとにきたりとうございます。そこに生涯の秘訣があります。聖霊は決してご自分の栄光を求めたまいません。ご自分のことを語りたまいません。聖霊の目的はただキリストの栄光をあらわすことだけです。『われいまこの喜び滿みつることを得たり』(ヨハネ三・二十九)。これが天的な喜びです。『彼は必ず盛んになりわれは必ず衰ふべし』(同三十)。我は必ず──これは義務ではなく、心の願いでした。」



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