第 六 章  聖 霊 と 祈 り



 聖霊について思う時に、我々がしばしば悲嘆と自己否定に陥ってしまうのは悲しむべきことではなかろうか。聖霊は慰め主という名を帯び、我々が幸福と喜びの中心をキリストのうちに見出すようにと与えられているのである。しかしこのこと以上に悲しむべきことがある。それは、我々を慰めるために我々の内に住んでおられる聖霊を我々はしばしば悲しませてしまうということである。というのは、我々が聖霊にその愛のわざを全うすることを許さないからである。とりわけ聖霊に言いようもない痛みをもたらしているものは、教会におけるこの祈りの欠如である。それはまた我々の間にしばしば見られる活力のなさと完全な無力さとの原因でもある。それは聖霊に我々を指導することを認める準備ができていないからである。

 どうか神が聖霊のみわざを思う瞑想を、喜びのもととなし、信仰を強めるもととなしてくださるように。

 聖霊は祈りの霊である。聖霊はゼカリヤ書12:10において明確にこの名前で、『恵みと祈りの霊』と呼ばれている。パウロの手紙でも祈りの問題で聖霊に明確に言及されている箇所が二箇所ある。『あなたがたは子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです』(ローマ8:15)。『神は「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです』(ガラテヤ4:6)。

 この言葉、「アッバ、父よ」についてあなたは瞑想したことがあるだろうか。この名前をもって我らの救い主は、完全な明け渡しと、彼の命と愛の犠牲とを伴う、最大の祈りを父に捧げた。我々に対してクリスチャン生活の最初からずっと、幼子おさなごのような信頼と明け渡しの心でこの名前を口に出して呼ぶことを教えるのが、聖霊が与えられている特別の目的なのである。引用した聖書の箇所の一方に『私たちは呼ぶ(原語ではkrazomen)』とあり、もう一方に『呼び求める(原語ではkrazon)霊』とあるのを見る。祈りとは神的存在と人間とが声を合わせるという奇跡なのだ。あたかも子供が実の父親に向かって「お父さん」と声を上げるときのように、祈りが自然なものとなり、聞き入れられるものとなるように、神は(そう言ってよければ)全力を尽しているということがここに表れている。

 神がこれほどまでに準備を尽された祈りというものが、もし単に一つの役務や負担のように思われているとすれば、それはその教会では聖霊がほとんどよそ者のようにあしらわれていることがそこに表れているのではなかろうか。このことは、祈りの欠如ということの深い根源が、父が我々に祈りを教えるように委託された聖霊という教師を我々が無視して従わないことに求められるということを教えないであろうか。

 この真理をもっとはっきり理解したいなら、ローマ8:26-27に書かれていることに注意しなければならない。『霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見極める方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って聖なる者のために執り成してくださるからです』。ここから次のことが分からないであろうか。まず、クリスチャンは自分だけでは、祈りとは何か、自分はどう祈るべきかを知らないこと、このような無力な我々に神は会ってくださり、我々の代わりにご自分で祈られる聖霊を我々に賜わったこと、そして聖霊の祈りは我々の思考や感情には深すぎて聞き分けられないが、神は聞き分けて答えてくださるということである。

 したがって我々がまずなすべきことは、神のみまえに出ること、それも我々自身の無知から来る祈りや多くの言葉や思いを持って来るのではなく、この聖霊のみわざが今もなお我々の内に継続しているという確信を持って来ることである。この確信は崇敬の念と沈黙を呼び起し、また我々が聖霊がくださる助けに頼りつつ神のみまえに自分の求めと心の必要とを申し述べることを可能にするであろう。どのような祈りにおいても必要とされることは、まず何よりも、聖霊の導きにあなた自身をゆだねること、そして聖霊に完全に信頼して主導権を渡すことである。なぜなら、聖霊によってあなたの祈りはあなたが想像できないような価値を持つようになるからであり、また聖霊を通してあなたの願いをキリストの御名によって申し述べることをあなたは学ぶのだからである。

 内なる祈りの部屋においては、以下のような信仰を持つことによって無力と絶望とを完全に退けることができる。それをただ考えなさい。どんな祈りにも三位一体の神が加わってくださる。父なる神は祈りを聞かれ、子なる神はその名によって我々は祈り、聖霊なる神が我々の代わりに我々の中で祈ってくださる。聖霊との正しい関係を保ち、聖霊の働きを理解することが何よりも大切である。

 次の諸点を真剣に考察しなければならない。


1.神の子の霊である聖霊がわが内にあるということを、神的現実として堅く信じなさい。このことはもう知っていてさらに深く考える必要がないなどと思ってはならない。このことは、ただ聖霊ご自身のみが我々の心に入れることができ、そこに保つことができるような偉大で神的な思想なのである。『この霊こそが、私たちの霊と一緒にあかししてくださいます』(ローマ8:16)。我々の心は聖霊の宮であって、聖霊が我々の心と体とを支配されていることを、完全な信仰の確信をもって信じることが、我々の立つべき位置なのである。聖霊がわが内にあって祈りを教えてくださっているということを、祈りのたびに心から神に感謝しなさい。感謝は我々の心を神のみまえに引き出し、神とのつながりを保ってくださるであろう。感謝は我々の関心を自分自身から引き離して、我々の心の中に聖霊のための場所を用意するであろう。

 聖霊は父と子とをあらわしてくださる方である。我々が祈りのない生活をしてきたのであれば、そして聖霊なしに永遠の神との交わりを保とうと試みてきたのであれば、それが自分にとって持ちこたえられない重い仕事のように感じられていたのは不思議ではないのである。


2.聖霊がわが内にあり働きたもうということを確信する信仰を実践するにあたっては、我々は聖霊が我々の内に実現しようと願っていることを完全に理解しなければならない。祈りにおける聖霊の働きは聖霊のほかの働きと密接につながっている。我々は以前の章で、聖霊の第一にして最大の働きは、キリストを遍在する愛と力とをもつ者として啓示することであることを学んだ。聖霊は、キリストとその血と名前とが我々の祈りが聞かれる確実な根拠であることを、祈りの中で絶えず我々に思い出させてくださるであろう。

 聖霊はまた『聖なる霊』(ローマ1:4)であるから、我々に罪を認識し、嫌悪し、それを不要のものとするように教えるであろう。聖霊は光と知恵の霊であるから、我々を神のあふれ出る恵みという天的秘義に導き入れる。聖霊は愛と力の霊であるから、我々にキリストをあかしすること、魂のために温かい同情をもって働くことを教える。こうしたすべての祝福を聖霊によるものと深く認識するほど、わたしは聖霊の神性をより深く確信して、わたしが祈りに身を捧げるたびに聖霊の導きに自分をゆだねることが容易になるであろう。聖霊を祈りの霊として知るならば、私の生活はどれほど変わることであろうか。


3.わたしが絶えず新たに学び直さなければならないことがもう一つある。それは、聖霊はわたしの生活全体を完全に所有することを望まれるということである。我々は聖霊を求めて祈るときに、聖霊が我々を求めておられるということを真理としてこの祈りに伴わせるなら、我々は正しく祈っていることになる。聖霊はわたしを完全に所有することを求める。わたしの心がその住み場所、また働きの場としてわたしのからだ全体を持っているのと同じように、聖霊はわたしのからだと心とをその住み場所として完全な支配下に置くことを望んでおられる。

 我々は、聖霊が我々を、以前は全く知らなかった完全に新しいきよめへと静かに導いておられることを認識し始めないうちは、祈りを長く継続することも熱心に祈ることもできない。我々は詩篇119:10にあるように『私は心を尽くしてあなたを尋ね求めます』と言うべきなのである。聖霊はこのような言葉を我々の生活のより大きな信条としてくださるであろう。もし我々の内に二心が残っているならそれは真の罪であることを聖霊は我々に認めさせてくださるであろう。キリストはすべての罪から救う全能の救い主であって、我々を守るためにいつでもそば近くいてくださることを、聖霊は明らかにしてくださるであろう。聖霊は祈りの中で我々を導き、我々自身のことを忘れさせて、我々に執り成す者となるための訓練に自分を献げたいという意志を起させてくださるであろう。そのような者を神は信頼してご自分のご計画をゆだね、またそのような者は神の教会がその敵に勝利を収めることができるように日夜神に声を上げるのである。

 神が我々を助けて聖霊を知らしめ、聖霊を祈りの霊として崇めさせてくださるように。



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