『私たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。』(使徒行伝6:4)
And we will give ourselves continually to prayer and to the ministry of the word.
── Acts 6:4
本書の由来となぜそれが書かれたのかについて手短に説明することは、みなさんが本書の教えを理解する手助けになると思います。本書は、1912年4月11日から14日まで南アフリカのステレンボッシュで開かれていた奉仕者たちのための集会から生まれたものです。この集会がもたれた経緯は次の通りです。私共の神学校のデヴォス教授から私共の教会(オランダ改革派教会)の牧師たちに宛てて、世の中の教会一般を蔽う霊的生活の低調さについて長い手紙が送られました。教授は、私共の教会の霊的生活も同じような水準に落ちてしまっていないかどうか、私共は自問するべきなのではないかと述べました。
「教会の状態」と題されたこの手紙に書かれていたことは、心を深く探るものでした。デヴォス教授は、霊的な力が失われているという指摘が真実であることには疑いの余地がないと考えていました。そしてこのような状態に至った原因を見出すために、私共は一度、神のみまえに集まるべきではないだろうかと彼は問いかけました。彼は書いています、「もし我々がこの状態に誠実に向かいさえすれば、我々は認めざるを得ないであろう、我々の不信仰と罪とがこの霊的力の欠如の原因であること、このような状態にあることが神のみまえに一つの罪であり、責むべきことであって、神の聖霊を悲しませる行為にほかならないことを」と。
教授の招きは人々の心を動かしました。私共の四人の神学教授と、二百名を超える牧師、伝道者、神学生が、さきの言葉を主題とする集会にともに集まったのです。集会の最初の宣言から告白の基調を帯びていました。告白は悔い改めと救いへの唯一の道であるからです。それに続く集会では、教会の生命を弱めてしまう罪が何であるのかについてあかしする時間が与えられました。他の牧師たちの行為や教えや奉仕の中にあら探しを始める者もありましたが、すぐにそれは正しい道ではないと気づきました。そうした罪に対して責められるべきは自分自身であることを、誰もが認めざるを得ませんでした。
主は、私共が悪の根源が祈らないという罪にあることに気づくように、慈しみをもって導かれました。この罪が自分にはないと主張できる者はいませんでした。牧師と会衆における霊的生活の堕落を示すものとして、信仰のあるたゆみない祈りの欠如ほど明らかなことはありません。祈りは霊的生活の鼓動です。祈りは牧師と会衆に天国の祝福と力とをもたらす偉大な手段なのです。継続する信仰の祈りが、強く豊かな霊的生活を生み出すのです。
さてこの告白の霊が人々を蔽うようになった時、一つの疑問が湧き起こりました。それは、私たちは過去において祈りの生活を妨げてきたあらゆる物事に対して勝利を得られると期待することができるのだろうか、ということでした。かつて行われた小さな集会では、人々はぜひとも新しい生活を始めたいと切望していたものの、聖書の教えに一致すると思えるような祈りの生活を彼らが継続できると確信するだけの勇気はもっていないということが明らかになりました。それ以前にも彼らは幾度もそれに挑戦しましたが、失敗しました。人々は、神が彼らにそれを生き、祈ることを求めているような祈りの生活を実践することを、あえて約束しようとはしませんでした。それは不可能だと感じていたからです。
このような告白は人々を次第に一つの偉大な真理へと導きました。それは、新しい祈りの生活を始めるための力は、ただ私共の頌むべき救い主との完全に新しい関係からしか生まれないということです。私共が救い主の中に、すべての罪から、祈らないという罪からも、救ってくださる主を認め、私共の信仰が主とのいっそう親しい交わりの生活に身を委ねる時、主の愛と交わりのうちにある生活が、主に対する祈りを私共の心的生活の自然な表現へと変えるのです。
集会が解散になる時には、多くの参加者が、新しい祈りの生活を行なうための力はイエス・キリストから得られるという、新しい光と新しい希望とをもって帰ろうとしていることを証言することができました。また多くの人々はこれは始まりに過ぎないと感じていました。内なる部屋(祈りの密室とも呼ばれる、私共がひとり神との交わりに時を過ごすための特別の部屋)の前に長らく立ちはだかっていたサタンは、私共が肉と世の力にもう一度立ち帰るように、全力を挙げて誘惑することでしょう。キリストご自身の教えと交わりのほかの何ものも、信仰にとどまる力を与えることは決してできません。
この集会に参加していた人々が、彼らが学んだことと、牧会が実り豊かなものとなるために必要な祈りの生活をこれから始めるにあたって助けとなることとを記憶するために、集会の中で取り扱われた真理を明文化しておく必要性が感じられました。このことはまた、集会に参加できなかった人々のためにも、また牧師たちが参加している集会で何が取り次がれているのかを聞きたいと願っている教会の長老たちのためにも、必要なことでした。このために本書はとりまとめられたのです。
本書ははじめ、もし教会の指導者たち、すなわち牧師と長老たちが、霊的活動においてはすべてが祈りにかかっていること、また神を待ち望む者に神ご自身が手を差し伸べてくださることを認めるようになるなら、それは教会全体にとっての希望の日となるであろう、との願いをもって世に出されました。それと同時に本書はまた、主のために完全に聖別された生涯を望むすべての信仰者のためでもありました。より多く、より善く祈りたいと願うすべての人々に対して、本書は内なる密室にある神の栄光に目を向けさせ、その栄光が心の上にとどまるようになるための方法を教えようとしています。
本書を英語に翻訳することを最初に打診された時には、わたしは本書はあまりに急いで書かれ、口語体で書かれているのであまり魅力的ではないのではないかとの懸念を覚えました。わたしに残されていた力はわずかであったので、本書を書き直すことは思いも及ばないことでした。しかし、友人であるW. M. ダグラス師が本書を翻訳する承諾を求めてきた時、わたしは喜んで同意しました。本書を通して神はどこかにいる神の僕に語られるのでしょうか。そうであるとすれば、ここでわたしの教会のために神がなされたことを、ほかの教会でもなしてくださることを期待して語るという特権をわたしは覚えます。
最後にわたしはこのページを読んでいるすべての福音の奉仕者とクリスチャンたちにお礼を申します。神の恵みは私共のあいだに罪の認識をもたらし、また私共が深い欠乏と無力を告白するように促し、それを通してキリストが彼を信ずる者たちになそうとしておられることへの洞察と信仰を生み出しました。わたしはこの同じ神の恵みが、本書を読む人々に、同胞のクリスチャンたちと相互に語り合って、祈りによる神との完全な交わりを求め獲得する勇気を与えてくださるようにと熱心に祈っています。祈りこそクリスチャン生活のまさに本質であるからです。
祈らない人々に限って祈りの欠如を認めることをプライドが許さないと言われています。欠如を認めて共に心から告白するようにと招く呼びかけを待っている、たくさんの心があることを信じましょう。このような告白こそ、神の愛と、神が祈りに答えられるという経験とに立ち帰り、それを取り戻すための唯一の道であるからです。
もう一つだけ語らせてください。それは私共の教会全体でもたれた「ペンテコステ祈禱会」についてです。この祈禱会は私共の仕事の中で特に興味深くまた重要な場でありました。1858年からの数年間にアメリカとアイルランドで大きなリバイバルが起った時に、私共の長老たちの幾人かが、私共にも神が訪れてくださることを祈るように勧める手紙を諸教会に書き送りました。1860年にはいくつもの小教区でリバイバルが始まりました。1861年の4月に南アフリカの最も古い町の一つであるパールでたいへん注目すべきことがありました。ペンテコステの聖日に先立つ週に、それまでは日曜日に一度説教をするだけだった牧師が立ち上がり、午後から教会で公開の祈禱会を開くことを宣言しました。これは尋常でないことでしたから、多くの人々の心を深く動かしました。その一つの成果として、その牧師は将来は昇天日からペンテコステまでの十日間は毎日祈禱会を守るようになるだろうと告げました。実際、次の年からそのようになりました。
この時に受けた祝福の結果、付近のすべての教会の会衆がこの牧師の勧めを受け入れ、現在に至るまで十五年間、十日間の祈禱会が教会全体で守られてきました。毎年、奨励と祈禱の主題が書かれた覚え書きが配られました。この結果は次のようなものでした。教会全体を通して、すべてのクリスチャンが聖書が聖霊について語っている事柄を学び、聖霊を求め、聖霊の幸いな導きに自分を明け渡すように励まされました。この十日間はしばしばまだ回心していない人々への特別な働きかけの場となり、小さなリバイバルとなりました。この十日間はまた、聖霊が信者の心の中で神意の実行者として占めるべき場所を牧師たちと会衆とに認識させ、心を改めさせ、神の国の奉仕のために聖別するという、言い表し得ない祝福の場となりました。
聖霊の完全な知識と力に比べるとまだまだ欠けているものがあるのは事実ですが、それでも私共は、聖霊が動いてくださることを祈る祈りにこの日々を献げるように私共を導かれることによって神がなしたもうたことに対して、どれほど感謝しても十分ではありません。
わたしが本書を書いたのは、そのことを知って、その与えられた場において神を求める私共の祈りに加わることを喜びに思って下さる方があると信じているからです。
アンドリュー・マーレー
緒 言
第 一 章 祈らないという罪
第 二 章 祈りの欠如との戦い
第 三 章 祈りの欠如から解放されるには
第 四 章 勝利の祝福
第 五 章 主の場合
第 六 章 聖霊と祈り
第 七 章 神の聖
第 八 章 従順と勝利の生活
第 九 章 内なる部屋における時間
第 十 章 パウロという見本
第 十 一 章 説教と祈りに心を尽くすこと
第 十 二 章 祈りにとどまること
第 十 三 章 ジョージ・ミュラーとハドソン・テイラー
第 十 四 章 十字架の霊
第 十 五 章 十字架を取ること
第 十 六 章 聖霊と十字架
結 語
小 伝
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