第 九 章  内なる部屋における時間



 集会の時に一人の兄弟がいて、彼は祈りをないがしろにしていたことを熱烈に告白したのだが、後になって、彼は主が我々から何かを求められるときには必ず主はそのために恵みを与えられることに、その目が開かれたと言い表すことができた。その人が来て、我々が内なる部屋で、神に誠実に祈るために有益な時間を過ごす最善の方法があれば助言を与えてほしいと求めた。その時には答える機会がなかったが、以下に述べることが有益であるかも知れない。


1.あなたが内なる部屋に入った時にまず最初にしなければならないのは、あなたをそこに呼んで神と自由に話すように招いてくださった言い尽くせない愛を神に感謝することである。もしあなたの心が冷え切っているなら、キリスト教信仰とは感情の問題ではなくてまず何より意志にかかわるものであることを思い出しなさい。あなたの心を神に差し出して、神があなたを見ていてくださることとあなたを祝福しようとしておられることを確信させてくださったことを神に感謝しなさい。このような信仰の行為によって、あなたは神を崇め、自分のことでいっぱいになっていたあなたの心を神の前に引き戻すのである。また、主イエスの輝かしい恵みに思いを向けなさい。イエスは進んであなたに祈ることを教え、また祈りたいという思いをあなたに与えられるのである。そしてまた聖霊に思いを向けなさい。聖霊は、あなたの心の中で『アッバ、父よ』と叫ぶため、また祈りにおけるあなたの弱さを助けるためという、特別の目的を持って与えられたのである。このことのために五分間を費やすなら、あなたの信仰は強められて内なる部屋でなすべきことができるようになるであろう。もう一度言うが、祈りの場とそこでの祝福の約束とのゆえに神に感謝し神を讃美すること、この行為から始めなさい。


2.あなたは祈りをもって聖書を学ぶことによって祈りに備えなければならない。多くの人々にとって内なる部屋がなぜあまり魅力的ではないのかと言えば、そのおもな理由は、彼らがどう祈ればよいのかを知らないからである。祈りの言葉の備蓄がすぐに尽きてしまい、それ以上言うべきことがなくなってしまうのだ。なぜなら彼らは、祈りとは一方的にすべてを話す演説なのではなくて対話であること、神の子が父の言われることを聞いてそれに応答し、それから自分の必要を求める場であることを、忘れてしまっているからである。

 聖書からいくつかの節を読みなさい。難しいところがあっても気にしてはならない。それは後で考えればよいのである。あなたが理解したことを取り上げ、それをあなた自身に当てはめ、父がその言葉をあなたの心の光となし力となしてくださることを求めなさい。このようにしてあなたは、父があなたに語られる言葉の中から祈りの材料を十分に得ることができ、またあなたに必要なものを求める自由を得るのである。この調子で続けなさい。そうすれば内なる部屋はすぐに、あなたを困惑させる場ではなくなり、天の父との生きた交わりの場に変えられる。祈りをこめた聖書の学びは力ある祈りのために不可欠なのである。


3.こうして聖書の言葉をあなたの心に受けたなら、また祈りに戻りなさい。性急にまた無思慮に、あたかも祈り方を既によく知っているかのような態度で祈ろうとしてはならない。自分の力で祈る祈りは祝福をもたらさない。神のみまえに崇敬の念を持って静まりのうちに自分を示すことに時間をかけなさい。神の偉大さ、きよさ、そして愛をおぼえなさい。神に何を求めたいとあなたが思っているのかをよく考えなさい。毎日同じことの繰り返しで満足しないようにしなさい。地上の実の父親に毎日同じことを言い続ける子供はいない。

 父との対話の内容はその日の必要によって変わってくる。あなたの祈りが、あなたがその時に読んだ聖書の言葉か、あなたがかなえてほしいと願っている心の実際的な必要か、そのどちらかから出て来る、その時だけの祈りとなるようにしなさい。あなたが祈りの部屋を出た時に「私は父に何を求めたかを知っている。そしてその答えを待っている」と言うことができるように、その時だけの祈りを祈りなさい。時にはあなたが祈る必要のあることを書き付けた紙を用意することも良いことである。新しい祈りの課題が与えられるまで、その紙を一週間かそれ以上持っているのも良かろう。


4.ここまで言われてきたことは自分自身の必要に関することであるが、あなたは他の人々の必要のためにも祈るべきであることを知っている。内なる部屋での祈りがあまり喜びと祝福をもたらさない主要な理由の一つは、祈りが利己的であることにある。利己性は祈りの死なのである。

 あなたの家族や教会とその必要を思い起しなさい。あなたの隣人、あなたの周囲にいるクリスチャンを思い出しなさい。心をさらに広げて、宣教団体や全世界の教会の関心事を取り上げなさい。執り成す者となりなさい。そうすればあなたは初めて祈りの祝福を経験するようになるだろう。神がその祝福を祈りを通して他者に分け与えるためにあなたを用いられるということを、あなたは知るようになるからである。あなたは神に申し上げなければならないことがそこにあると気がつく。それをあなたが言わなかったら神は何もなされなかったのであるが、あなたの祈りに対する答えとして神は天からそれをなされるのである。それに気づく時、あなたはそのために生きる価値があるものがそこにあると感じ始めるであろう。

 子供は父にパンを欲しがることができるが、成長した息子は、その仕事やもっと高度な人生の目的にかかわるあらゆる関心事を父と議論するようになる。神の子も弱いうちは自分のことしか祈らないが、キリストにあって十分に成長した人は、神の国に生じるべき事柄全体について神と相談する方法を知っている。あなたの祈りのリストに、あなたが祈るべき人々の名前を書き加えるようにしなさい。それにはあなたの牧師、他のすべての牧師、またあなたが関わっている別の伝道団体の関心事も含まれる。そうすれば内なる部屋は真に神の善の奇跡となり、偉大な喜びの泉となるであろう。地上で最も祝福された場所となるであろう。これは大げさな言い方のようであるが、純粋な真理なのである。神はその場を天使が昇り降りするベテルに変えられ、あなたはそこで『主が私の神となられる』と声を上げるであろう(創世記28:10-22)。また神はその場をペニエルに変えられる。あなたはそこで、天使と戦って勝利を得た者として、神の王子として、顔と顔を合わせて神を見ることになる(創世記32:23-31)。


5.内なる部屋と外の世界とが密接につながっていることを忘れてはならない。内なる部屋で取った態度は一日中我々にとどまる。内なる部屋の目的は、我々が完全に神と一体となって、神がいつでも我々から離れないようになることである。罪、無思慮、肉と世に対する妥協、これらは我々を内なる部屋にふさわしからぬ者に変え、心を曇らせてしまうのである。

 つまずいたり堕落しても、内なる部屋に戻りなさい。あなたがまずなさねばならないことは、イエスの血を思い起し、それによるきよめを求めることである。あなたの罪を告白して悔い改め、それを葬り去るまで安んじてはならない。イエスの高貴な血によって、神に近づく自由を新しく受けなさい。内なる部屋の中にあるあなたの命の根は、そこから外に出て肉体と心の中で働き、日常生活の中に自らをあらわすに至るのである。このことを憶えなさい。あなたが一人で祈る時に抱いている信仰の従順が常にあなたを支配するようにしなさい。内なる部屋は、我々を神に結び付け、神の力で満たし、我々が神のみのために生きられるようにすることがその目的なのである。神が内なる部屋を与えてくださったこと、そこで我々が祝福の生活を経験してそれによって養われることができるようにしてくださったことを、我々は神に感謝しなければならない。


時 間

 世界が創造される以前は時間は存在しなかった。神は我々には理解できない仕方で永遠のうちに住まっておられた。創造とともに時間が始まり、すべての物体が時間の束縛の中に置かれることになった。神はすべての生ある被造物を、緩慢な成長という法則のもとに置かれた。子供が肉体的、精神的に人となるまでにかかる時間を思いなさい。学ぶことにおいても、知恵を得ることにおいても、仕事においても、技能を身に付けることにおいても、政治においても、万事は多少なりとも受苦と忍耐とに依存している。万事は時間を必要とする。

 このことはクリスチャンの生涯にも当てはまる。十分な時間をかけられるのでなければ、聖なる神との対話はあり得ないし、天国と地上の世界が出会うこともあり得ないし、他の人々の魂を救う力というものも存在し得ない。何年ものあいだ毎日食べたり学んだりすることが子供の成長に必要であるように、恵みの生活もまた、人々がそのために日々どれだけの時間を取るかということにかかっている。

 牧師というものは、ふつうの職業に従事している人々に、どうやって時間を見つけてそれを霊的生活の維持向上のために正しく用いるべきかということを教え助けるために、神から任命されているのである。しかし牧師は自分自身が祈りの生活を生きる経験を持っているのでなければそれをなすことはできない。彼が最も優先しなければならない召命は、説教することでも人々と語ることでも訪問することでもなく、神による生を日々養い、神が彼に教え実現されることをあかしすることなのである。

 主イエスの場合もそうだったのではないだろうか。なぜ主は、告白すべき罪などないのに、たびたび神に祈ることに一晩を費やさなければならなかったのであろうか。それは、父と交わることによって神の生命に力を与えられなければならなかったからである。神との交わりに時を過ごした生活の経験は、彼が我々にその同じ生活を分与することを可能にした。

 牧師は神からある条件とともに時間を与えられているのであることを、願わくばそれぞれの牧師が理解するように。神はご自身との交わりのためにあなたの第一の最上の時間を要求する。この時間なしにはあなたの説教も奉仕も力を有さない。この世では人は時間をお金のために使うこともできるし、学びを受けるために使うこともできる。だが牧師は時間を使って神の力と霊の祝福を天から受けることができる。そうすることが、そしてそうすることだけが、牧師を神の人とするのであり、彼の説教が『霊と力の証明によるもの』(第一コリント2:4)となることを保証するのである。



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