第 十 章  パウロという見本



 『私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者となりなさい。』(第一コリント11:1


 パウロは他の人々のために多大な祈りをなした伝道者であった。我々は彼の言葉を祈りをもって静まって聞かなければならない。そうすれば聖霊の声を聞くことができるであろう。

 『私たちは、あなたがたの信仰の足りないところを補いたいと、夜も昼も切に願っています。主があなたがたを、豊かに満ち溢れさせてくださいますように。あなたがたの心を強めてくださり、聖なる者としてくださいますように。』(第一テサロニケ3:10, 12-13)。

 『平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。』(第一テサロニケ5:23

 何という瞑想の糧であろうか。

 『私たちの主イエス・キリストご自身が、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い行いをし、善い言葉を語る者としてくださいますように。』(第二テサロニケ2:16-17

 『あなたがたのことを絶えず思い起こし、祈る時にはいつも……願っています。霊の賜物をあなたがたに幾らかでも分け与えて、力づけたいからです。』(ローマ1:9-11

 『きょうだいたち、私はイスラエル人が救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。』(ローマ10:1

 『私も、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与えてくださいますように。そして、あなたがたが神を深く知ることができ、心の目が照らされ、神の招きによる希望がどのようなものか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、また、私たち信じる者に力強く働く神の力が、どれほど大きなものかを悟ることができますように。』(エペソ1:16-19

 『このようなわけで、主イエス・キリストの御父おんちちの前に、膝をかがめて祈ります。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたのうちなる人を強めてくださいますように。あなたがたの信仰によって、キリストがあなたの心の内に住んでくださいますように。あなたがたが愛に根ざし、愛に基づく者となることによって、神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされますように。』(エペソ3:14-19

 『あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。私は、こう祈ります。あなたがたの愛がますます豊かになり、あなたがたが純粋で責められるところのない者となり、義の実に満たされることができますように。』(ピリピ1:4, 9-11

 『私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。』(ピリピ4:19

 『私たちも、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と洞察によって神の御心を深く知り、主にふさわしく歩んで、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められるように。』(コロサイ1:9-11

 『あなたがたのため、また、私とまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、私がどれほど苦闘しているか、知ってほしい。それは、彼らの心が励まされ、愛によって結び合わされるようになるためです。』(コロサイ2:1-2

 内なる部屋のための何という学びであろうか。これらの箇所が我々に教えるのは、絶えざる祈りがパウロの福音のための奉仕の中の大きな部分を占めていたということである。我々がそこに見るのは、パウロが信者たちのための奉仕において自らに設定していた霊的目標の高さであり、また、彼が教会とその必要について絶えず心配し続ける時に抱いていた心遣いと自己犠牲的な愛である。神が我々一人ひとりを、また御言葉のすべての奉仕者たちを、このような祈りが自然に流れ出る生活に入れてくださるように求めようではないか。神がここに見本として与えられている使徒的生活に聖霊によって導かれることを真に望んでいるならば、これらの聖書のページに我々は何度でも立ち帰る必要があるだろう。

 パウロはまた、他の人々に多大な祈りを求める伝道者でもあった。深い祈りと注意をもって以下の箇所を読みなさい。

 『きょうだいたち、私たちの主イエス・キリストによって、また、霊が与えてくださる愛によって、あなたがたにお願いします。どうか、私のために神に祈り、私と一緒に戦ってください。』(ローマ15:30

 『あなたがたも祈りによって、私たちに協力しています。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が私たちのために感謝を献げるようになるためです。』(第二コリント1:11

 『どのような時にも、霊によって祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、また私のために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、私が口を開くときに言葉が与えられ、語るべきときに、堂々と福音の秘義を知らせることができるように祈ってください。』(エペソ6:18-20

 『というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の支えとによって、このことが私の救いとなることを知っているからです。』(ピリピ1:19

 『たゆまず祈りなさい。感謝のうちに、目を覚まして祈りなさい。同時に、私たちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、私が語るべきしかたで語ることができるように。』(コロサイ4:2-4

 『終わりに、きょうだいたち、私たちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところと同じように、速やかに広まり、崇められますように。』(第二テサロニケ3:1

 キリストの体が一つであることとその肢体が相互に持つ関係についてパウロはなんと深い洞察を持っていたことであろうか。我々が聖霊に我々のうちで力をもって働いていただくならば、聖霊はこの真理を我々に啓示し、我々もまた同じこの深い洞察を持つようになる。パウロはローマにも、コリントにも、エペソにも、コロサイにも、ピリピにも、彼が祈りを任せることのできる多くの男女があり、彼らの祈りは天に届いて神を動かすことを知っていた。彼らのあいだにあってこのようなしかたで働く霊的生活の力をパウロは我々に見させてくれているのである。これらの祈りはまたすべての牧師の心を探るものでもある。彼らはほんとうに教会というからだの単一性を正しく理解しているであろうか。クリスチャンたちを訓練して執り成す者としようと努めているであろうか。そして彼らは、パウロがこうしたことに自信を持っていたのは、パウロ自身が人々のための祈りの強者であったからだということを真に理解しているであろうか。我々もまたここから学び、神に嘆願しようではないか、牧師と会衆がともに祈りの恵みに成長し、我々の奉仕とクリスチャン生活との全体が、霊の祈りが我々を律していることをあかしするものとなるように。その時に我々は、神が日夜神に向かって声を上げるその選民のために戦ってくださると、確信が持てるようになる。


霊に仕える者

 「福音の伝道者は霊に仕える者である」(参照:第二コリント3:6-8)とはいかなる意味であろうか。それは次の通りである。

  1. その伝道者は、完全に聖霊の力と支配のもとにあるので、聖霊の意志のままに導かれ用いられることができる。
  2. 多くの人々は自分のわざのために利用しようとして聖霊とその力を祈り求める。言うまでもなくこれは誤りである。聖霊があなたを用いなければならないのだ。聖霊に対するあなたの関係は、深い依り頼み、完全な服従でなければならない。聖霊は完全に、常に、何事においても、あなたを自らの力のもとに置かなければならない。
  3. 自分の役割はみことばを語ることだけであって、語られたみことばを実りあるものとするのは聖霊の役目であると思っている説教者が多い。そういう人たちは、みことばを説教者の心にもたらすのも、説教者を通して会衆の心にもたらすのも聖霊であるということを分かっていない。ただ自分が語る言葉を神が聖霊の働きによって祝してくださることを祈って満足してはならない。主はわたしが聖霊で満たされることを望んでおられるのだ。そのときに、わたしは言葉を正しく語ることができ、わたしの説教は聖霊とその力の顕現となるのである。
  4. このことについてペンテコステの日の場合を見てみよう。彼らは聖霊に満たされ、それから語り始めた。彼らは内におられる聖霊による力をもって語った。
  5. このことから、我々は聖霊に対する牧師の関係がどのようなものであるべきかを学ぶ。牧師は聖霊が自分の内におられること、毎日の生活の中で彼を教えられること、彼を強めて説教においても訪問においても主イエスをあかしする力を与えてくださるであろうことを、強く信じていなければならない。彼は聖霊の力によって保たれ強められるようにという絶えざる祈りのうちに生きなければならない。
  6. 主は弟子たちに、やがて聖霊が彼らの上にくだるときに彼らは力を受けるであろうと約束して、聖霊を待つように彼らに命じているが、それはちょうど主が次のように命じたのと同じことである。「この力を受けずに説教しようとしてはならない。この力を受けることはあなたがたのわざのために不可欠の備えである。すべてはそこにかかっている」と。
  7. それでは我々は「霊に仕える者」という言葉からどのようなことを学ぶことができるのか。それは、我々はこのことをいかにわずかしか理解していなかったことか、そのように生きたことがいかに少なかったことか、聖霊の力を経験することがいかに少なかったことか、ということである。それなら我々はどうすべきなのか。我々はこれまで絶えず聖霊を悲しませてきたという罪責を覚えて深い告白をなさねばならない。なぜなら我々は毎日を霊に仕える者として生きることをしてこなかったからである。我々は主が我々を変えてくださるという確信をもって幼子おさなごのように主の導きにすなおに明け渡さなければならない。そしてさらに、絶えざる祈りのうちに毎日主と交わりを持たなければならない。そうすれば主は我々に聖霊を生ける川の水として与えてくださるであろう。


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