主が彼を信じるすべての人々に、あるいは彼から祝福を期待しているすべての人々に語ったのではなく、ただ彼が人間をとる漁師にしようと思った人たちに対してだけ語った、そんな言葉がある。主は最初に使徒たちを任命された時にはそのようには語らなかったが、後になってペテロに語っている。『今から後、あなたは人間をとる漁師になる』と(ルカ5:10)。
魂を勝ち取り、それを愛し救うという聖なる技術は、ただキリストとの親しい継続的な交わりにあってのみ学ぶことができる。教職者も奉仕者も、他の人々もこのことを知らねばならない。この交わりは、キリストの弟子たちのみに許された偉大で特別な特権であった。彼らを主はいつでも彼とともにそば近くにいるようにと選ばれていた。このことは十二使徒の選びの場面で確認することができる。『そこで十二人を任命された。彼らを自分のそばに置くため、また、宣教に遣わすためであった』(マルコ3:14)。最後の夜にも主はおっしゃった。『あなたがたも、初めから私と一緒にいたのだから、証しをするのである』(ヨハネ15:27)。
外部の人々もこの事実に気づいていた。例えばペテロについて女は彼がイエスと一緒にいたことを証言している(ルカ22:56)。またサンヘドリンでも人々はペテロとヨハネが『イエスと一緒にいた者であることも分かった』と書かれている(使徒4:13)。キリストの証しをする者の中心的な特徴でもありまた不可欠な資格でもあるのは、彼らがキリストと一緒にいたということなのである。
キリストとの絶えざる交わりは、聖霊がクリスチャンの奉仕者たちを訓練する唯一の学び舎である。すべての牧師はこのことを憶えねばならない。他の人々にイエスに従う方法を教えることができるのは、カレブのように全く主にしたがっている人だけなのである(民数記14:24参照)。主イエスご自身が我々を彼に似た者となるように訓練してくださるのは、他の人々が我々から学ぶようになるためである。これは言い表すことのできない恵みである。それで我々はパウロとともに、与えられた回心者たちに対して次のように告げることができる。『あなたがたは、私たちと主に倣う者となりました』(第一テサロニケ1:6)。『私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者となりなさい』(第一コリント11:1)。
イエス・キリストは、そのみ言葉を説教する人々に対しては、これまでどんな教師もその学生に対して負ったことのないような労を負われることになる。彼はどんな痛みも厭われないし、どれほど時間をかけても時間がもったいないとか長すぎるとは思われない。彼は自身を十字架に追いやったのと同じ愛をもって、我々と交わりを持ち、対話し、我々を建て上げ、聖化し、彼の聖なる務めにふさわしい者となそうとされる。それでも我々は、祈りのために長い時間を使うのは我々にとって過分であると敢えて言うのであろうか。主と毎日交わりを保つことが我々最大の幸福であると認めて、我々のためにすべてを与えられたその愛に我々自身をゆだねないのであろうか。自分の奉仕の中に祝福を願っているすべての人々よ、主はあなたがたが主とともにいるように招いておられる。主とともにいることを人生最大の楽しみとしなさい。そのことがあなたがたの奉仕に祝福を受ける最も確かな備えなのである。わたしの主よ、わたしを引き寄せてください。わたしを助けてください。わたしをそば近く保ってください。そして信仰によって日々あなたとの交わりのうちに生きることを教えてください。
祈りが我々の生活に影響を与えるのと同様に、我々の生活は祈りに大きな影響を与える。人間の生活全体は、自然と世界とに対して、自分の必要を満たして幸福にしてくれるように求める絶え間ない祈りなのだ。神に祈ることを知っている人々においてもしばしば、この生まれつき持っている祈りと願いは非常に強いため、彼が発する神に祈る声が聞き取れなくなる。あなたの心が世界に対して求める願望の声が祈りの声よりも強く大きく神に達するため、神はあなたの口にある祈りの声を聞き取れない、ということがあるのである。
我々の生活は祈りに強力な影響を及ぼす。この世的な生活、あるいは自己実現を求める生活は、祈りから力を奪い、祈りへの答えを不可能にする。多くのクリスチャンにおいて生活と祈りとのあいだに葛藤があり、生活の方が優先される。しかし、祈りもまた生活に強力な影響を及ぼしうる。祈りにおいて、もしわたしが自分を完全に神に献げるなら、祈りは肉と罪の生活に勝つことができる。そのとき生活全体が祈りの支配下に入る。祈りには生活全体を変え、新たにすることができる。なぜなら祈りは、主イエスと聖霊とを招き入れ、生活をきよめて聖化していただくために受け入れるからである。
多くの人々は、霊的生活に問題を抱えたまま、自分をせき立ててもっと多く祈らせなければならないかのように考えている。彼らは、霊的生活が強められなければ祈りの生活が増大することもないということが分かっていないのである。祈りと生活は分かちがたく結びついている。考えてみるがよい。五分か十分の祈りと、丸一日を世的な欲望のうちに過ごすこととでは、どちらがあなたに強い影響をもつだろうか。あなたの祈りが答えられなくても驚いてはならない。その理由は簡単に分かるであろう。それは、あなたの生活とあなたの祈りとが敵対関係にあって、あなたの心はいつでも祈りよりも生活の方に全面的に注がれているからである。あなたの祈りがあなたの生活全体を支配しなければならないのだ。この偉大な教訓を学びなさい。祈りによってわたしが神に願い求めることは、五分や十分では決裁されない。「わたしは心全体をもって祈りました」と言うことを学ばなければならない。わたしが神に願い求めることは、一日中わたしの心が実際にそれで満たされているのでなければならない。その時に道は開かれ、確実な答えが与えられる。
祈りが心と生活を占領するなら、それはどれほど神聖で力あるものとなるであろうか。祈りは我々をいつも神との交わりの中に保つ。その時には「わたしはひねもすあなたを待ち望みます」と文字通りに言うことができる。我々は祈りにおいて神とともに過ごす時間の長さだけでなく、祈りが我々の生活を支配している力についても注意深く吟味すべきである。
『私たちが、神の言葉をおろそかにして、食事の世話をするのは好ましくない』とペテロは言っている(使徒6:2)。この仕事のために執事が選ばれた。ペテロの次の言葉は、いつの時代でも、牧師として立てられたすべての人のために有益である。『私たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします』(同6:4)。アレグザンダー・ホワイト博士はかつて講話の中で次のように述べたことがある。「わたしの給与は定期的にきちんと支払われているし、執事たちは契約に定められた彼らの持ち分を忠実に果しているが、わたし自身は自分の持ち分、すなわち祈りと御言葉の奉仕を続けるということを忠実に果してきたかどうか疑問に思うことがある」と。別の牧師はまた次のように述べたことがある。「もしわたしが自分の時間を二つに均等に分けて、その一方を祈りに宛て、残りの時間を御言葉の奉仕に充てたいと提案したら、人々は意外に感じるに違いない」と。
ペテロの場合に祈りにとどまるということが何を意味していたかを思い出しなさい。彼は祈るために屋根に上った。そこで、祈りの中で彼は失われた人々の間で彼がなすべきことについての天からの示しを受けた。そこで、コルネリオからの伝言が届いた。そこで、聖霊は彼に告げた。『三人の者があなたを探しに来ている。さあ、立って一緒に出発しなさい』(使徒10:19-20)。そこから、ペテロはカイザリアに行き、そこで思いがけないことに聖霊がまだ救われていない人々に注がれた。これらの出来事が我々に教えるのは、神はただ祈りを通してのみ、聖霊の導きを与えて我々に神の意志を理解させること、誰に向けて我々が語るべきかを知らしめること、そしてみことばを我々が語る時に聖霊がそれを力あるものとしてくださるという保証を我々に与えられることである。
あなたがた牧師は真剣に考えたことがあるだろうか、なぜあなたがたは給与と牧師館または住宅手当を支給されて、世的な務めに関わる必要を免除されているのかということを。それは、あなたがたが祈りと御言葉の奉仕を続けられるようにという以外の理由ではないのだ。そのことによってあなたがたは知恵ある者、力ある者となる。そのことが福音の幸いな奉仕の秘訣なのだ。
最も大切なこと、すなわち祈りにとどまることが、それにふさわしい場所、すなわち第一位の場所を保っていないあいだは、牧師と会衆が霊的生活の無力さに不満を感じるのは当然である。
ペテロは聖霊に満たされていたので、彼が実際にしたように語り行動することができた。我々は全面的な明け渡しによって我々の生活の導き手であり主である聖霊に用いられるために完全に聖別されるまで、それ以外の何事によっても満足してはならない。それ以外の何事も助けにはならない。そうした時に初めて我々は『神は私たちに、霊に仕える資格を与えてくださいました』(第二コリント3:6)と言うことができるであろう。
肉的な状態と霊的な状態との間には大きな違いがあるが、これら二つの状態はあまり理解されていないし考慮もされない。霊によって歩み、肉を十字架につけてしまったクリスチャンは霊的である(ガラテヤ5:24)。肉に従って歩み、肉を喜ばせようとしているクリスチャンは肉的である(ローマ13:14)。ガラテヤの人々は、霊によって始めたが、肉によって仕上げようとしていた(ガラテヤ3:1-3)。しかしそういう彼らの中にも霊的な人々がいて、その人たちは柔和によって逸脱から立ち直ることができた。
肉の人と霊の人の間にどれほどの違いがあるかを見なさい(第一コリント3:1-3)。肉の人であるクリスチャンにも、宗教はあり、神への思いもあり、神への奉仕もあるが、しかしそのほとんどは人間的な力によるものである。霊の人には、聖霊の導きに対する完全な服従があり、自分の弱さについての深い認識があり、キリストのみわざへの完全な依存がある。それはキリストとの絶えざる交わりの生活であって、聖霊によって形造られたものなのである。
自分が霊の人であるか肉の人であるかを見極めて、神の前ですなおに認めることは、この上なく大切なことである。牧師はその教えがいかに正統的であり、その奉仕においていかに熱心であっても、それが人間的な知恵と熱意の力によっているということはあり得るのである。その一つのしるしは、祈りを通してのキリストとの交わりがそれほど喜ばしいものではなく、永続きもしないということにある。祈りを愛することが霊の人の一つのしるしである。
肉の人であるクリスチャンが真に霊の人となるために、どれほどの変化が必要となることであろうか。最初はその人は、何が起るべきなのか、それがどのようにして実現するのかを理解することができない。真理が分かってくるにつれて、その人はそのことは神がなされるのでなければ決して起こりえないことを認識するようになる。神がそれをなすことができるとほんとうに信じるためには、熱心な祈りが必要である。一人になって静まって内省し、自分の力に対するあらゆる信任を捨てることが不可欠である。この道を歩む時、神にはそれが可能であること、神はそうしたいと望んでおられること、そして神は実際にそうしてくださるという信仰がやってくる。主イエスにしっかりとしがみつく魂は聖霊によってこの信仰へと導かれるであろう。
『きょうだいたち、私はあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまりキリストにある幼子に対するように語りました』(第一コリント3:1)。あなたは聴衆に向かってこのように語りかけることができるであろうか。あなた自身が肉の人の状態から霊の人の状態へと移される経験をしていない限り、それは無理である。しかし神はあなたに教えられるであろう。祈りと信仰にとどまりなさい。
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