みことばと祈りが少ししかないのは、霊的生命が死んでいることを意味する。みことばがたくさんあっても祈りが少ないのは、不健全な生命である。みことばが少なくても祈りがたくさんあれば、生命は多く与えられるが、そこには安定がない。みことばと祈りの両方が十分にあることが、日々の健康で力ある生命をもたらすのである。
主イエスについて考えてみなさい。彼は若い時も人となってからもその心にみことばを豊かに宿していた。荒野での試みにあっても、また立ち現れてくるいかなる機会においても、彼の心が神のことばで満たされていることを示し続けたのであって、それは十字架上での死にあたって彼が『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか』(詩22:1; マタイ27:46)と叫んだ時に至るまでそうだったのである。祈りの生活においては、イエスは二つのことを明示している。一つは、みことばが我々に祈りの素材を提供し、すべてを神から期待するように我々を励ますことである。もう一つは、神の一つひとつの言葉が我々のうちに成就されるように生活を送ることができるのは、ただ祈りによるしかないということである。
どうすれば我々はこの水準に到達して、みことばと祈りのそれぞれが我々の上に完全な権利を有するに至るのであろうか。その答えは一つだけである。我々の生活は完全に変えられなければならない。神のみことばを渇望することと祈りにおける神の顕現を渇き求めることとが、ちょうど地上の生活において我々が必要なものを求めるように自然なものとなっている、新しい、健全な、天的な生活を我々は手に入れなければならない。我々自身における肉の力のあらわれと霊的生活の弱さが我々を強いて、神が聖霊の力ある働きを通して我々のうちに新しい力ある生命を作り出してくださるであろうという確信に至らせなければばならない。
聖霊とは本質的にはみことばの霊であるとともに祈りの霊であることを、ただ我々が理解していればよいのだがと思う。聖霊はみことばを我々の心の中で喜びとなし光となすであろう。また聖霊は祈りの中で我々が神の思いと意志を知り、それが我々にとっての喜びであると悟ることを、この上もなく確かに助けてくださるであろう。もし牧師がこれらのことを説明して、神にある人々を彼らに備えられている嗣業のために訓練したいと望むのであれば、彼はこの瞬間から聖霊の導きに向かって手を伸ばして自らをゆだねなければならない。聖霊が彼においてなしてくださることを信じて、キリストがこの地上で生きておられた時の天的生活を実践しなければならない。そして聖霊がキリストをみことばと祈りで満たしたように、彼をもそうしてくださると確信して期待しなければならない。
そう、我々の内におられる霊は主イエスの霊であって、我々を真に主イエスの生活に参与する者とするために我々の内におられるのであることを信じようではないか。このことをもし我々が堅く信じて望みを置くならば、我々のみことばと祈りに対する関係は、以前にはそんなことが可能だとは想像できなかったような水準へと変えられるであろう。それを堅く信じ、必ずそうなると期待しなさい。
枯れた骨の谷の幻視についてはよく知っているであろう。主は預言者に言われた、『これらの骨に向かって預言して言いなさい。今、私はあなたがたの中に霊を吹き込む。するとあなたがたは生き返る』(エゼキエル37:4-5)。預言者が預言すると、音がして、骨と骨が集まり、肉ができて、皮膚がその上を覆ったが、しかしその内には命がなかったことを、我々は知っている。骨に向かって預言すること、すなわち神の言葉を説教することは、強力な影響を及ぼすことができた。それはいま起ろうとしている偉大な奇跡の始まりであった。新たに造られた人々の完全な軍隊がそこにあった。それは彼らに生命を与える働きの始まりであったが、しかしそこには霊がなかった。
それから主は預言者に命じられた。『霊に預言せよ。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹いて来い。これら殺された者の中に吹きつけよ。すると彼らは生き返る』(同37:9)。預言者がこれを預言すると、霊が彼らの上に来た。『すると彼らは生き返り、自分の足で立ち、おびただしい大群となった』(同37:10)。骨に預言すること、すなわち説教は、偉大なわざを成し遂げた。美しい人の体がたくさんできた。しかし霊に向かって『霊よ、来い』と預言すること、すなわち祈りは、それよりもはるかに大きな奇跡を成し遂げた。聖霊の力は祈りを通して顕れたのである。
我々の牧師たちがしていることのほとんどは、この乾いた骨に預言すること、神の約束を告げることだけなのではなかろうか。このこと自体はしばしば偉大な結果をもたらしてきた。信仰生活の形式に含まれることはすべて完成へと導かれた。粗雑であった会衆は秩序ある熱心な人々に変えられる。しかしエゼキエル37:8に言われていることは相変わらずほぼ当てはまっていて、彼らの中には生命がないのである。説教に祈りが続かなければならない。説教者は、彼が祈りに時間を取り始めるまでは彼の説教には新しい生命をもたらす力がないことを、来て理解しなければならない。そして神の聖書が教えるところにしたがって、祈りにおいて戦い、労苦し、そこにとどまらなければならない。そして神が溢れ出る力のうちに聖霊を授けてくださるまで休まれないように、彼も祈りを休めてならない。
我々の働きに変化が起らねばならないことが分からないであろうか。祈りとみことばの奉仕とにとどまり続けることを、我々はペテロから学ばねばならない。説教に熱心な人々がいるならば、彼らは祈りにも熱心であらねばならない。彼らはパウロにならって、全力を挙げて絶えずやむことなく祈らなければならない。『来い、これら殺された者の中に吹きつけよ』(エゼキエル37:9)との祈りは必ず答えられる。
誰かが心を尽くして取り組めない仕事に挑んでもめったにうまくいかないことは、経験が教える。学生、教師、勤め人、または兵士のことを考えてみよ。心を尽くして召命に身を献げることがない人は、成功することもないであろう。このことはクリスチャン生活においても真実である。何よりも、祈りによって聖なる神と親しく交わり、神に喜ばれる者であり続けるという高貴で真正な務めにおいては特に真実である。神がエレミヤ書29:13において印象的に告げているのはこのためである。『私を捜し求めるならば見いだし、心を尽くして私を尋ね求めるならば、私は見いだされる』。
『私は心を尽くしてあなたを尋ね求めます』とは、多くの神の奉仕者が表明するところである(例:詩119:10)。しかしどれほど多くのクリスチャンにとって、心を尽くして神を求めないことが当たり前のようになってしまっているか、あなたは考えたことがあるだろうか。罪について困っている時は、彼らは心を尽くして神を求めているように見えた。しかし既に赦されていたことが分かると、彼らの熱意は失われた。彼らの生活からは、彼らは信心深く思われたであろう。それはその通りである。しかし「この人は神に従うために、また生涯至上のこととして神に仕えるために、心を尽くして自分自身を明け渡している」とは誰も思わないであろう。
あなたの場合はどうであろうか。あなたの心はどのように言うであろうか。あなたは心からの祈りによって自分を献げることによって、自分の日課は信心深くまた熱意を持って果しているかも知れない。しかし次のように思うことはないであろうか。「わたしは神との交わりを妨げるような地にあるすべてのものを心から明け渡した生活をしてこなかった。そのためにわたしの祈りの生活は不満足なものとなっているのではないかと恐れている、いや、そう確信している」と。これは、内なる部屋において問われなければならない、またそれについて神に答えなければならない、極めて深く重大な問いである。明確な答えに達することと、それをすべて神の前に包まず申し述べることが大切である。祈りの欠如とは、それだけで独立に解消できる問題ではなく、心の状態と密接に関係しているのだ。真の祈りは表裏のない心によるのである。
しかしわたしは、『私は心を尽くして神を尋ね求めます』と言うことができるような表裏のない心を自分で獲得することはできない。それはあなたには不可能であるが、神はそれをなしたもう。『私は彼らに一つの心、一つの道を与えて常に私を畏れさせる』(エレミヤ32:39)。『私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す』(同31:33)。こうした約束は希望を呼び起す。その希望はいかに弱くとも、我々に神から差し出されていることを努めようと我々が真に心を決めさえするなら、神は我々の心の内に働いて御心のままに望ませ、行なわせられるであろう。心を尽くして神に従うことを我々に望ませ、それを可能にするのは、我々の内なる聖霊の偉大な働きである。どうして我々がこれほど多くの地上の物事に心と力をすっかり渡してしまっているのか、それにもかかわらず栄光の神との交わりについて言われている事柄は我々にほとんど影響を与えず、我々は心を尽くして神を求めようとはしないのはなぜなのかは、理解しがたいことである。
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