第 二 章  祈りの欠如との戦い



 クリスチャンがひとたび彼の内にあるこの祈りの欠如という罪に気がついたならば、それに対する勝利を得るために神の助けによって戦いを始めなければならないという思いに彼は捉えられる。しかしまもなく彼は、この戦いが無益であることを経験するようになる。そして祈りの生活は彼のためのものではない、彼は信心深くあり続けることはできないという失望の思いが、彼を波のように襲うのである。過去数年に行なわれた祈りを主題とする諸集会では、そのような厳格な祈りの生活にとどまることは自分にとって不可能に思われると、正直に告白する奉仕者が多くあった。

 その能力と献身の姿勢でよく知られている一人の宣教師から、わたしは最近手紙を受け取った。その中で彼は以下のように書いている。「祈りの生活について、自分に課さねばならないきつい鍛錬、払わなければならない時間と困難と終わりのない努力とについて多くを聞くことは、少なくともわたしに関する限り役に立たないように思われます。そうしたことをわたしはたびたび聞いてきましたが、わたしを落胆させるばかりでした。わたしはそれを幾度も吟味してきましたが、その結果はいつも悲惨な失望でした。『あなたはもっと祈らねばならない、自分をもっとよく注視しなければならない、要するにもっと熱心なクリスチャンにならねばならない』と言われることは、わたしには何の助けにもなりません」と。

 わたしは彼に次のように答えた。「その集会でも、またほかの場所でもそうですが、わたしは一度も鍛錬とか奮闘について話したことはありません。というのもわたしは、単純な信仰によってキリストにとどまることを学ばない限り、いかなる努力も無駄だと確信しているからです」。

 その人はさらに書いていた。「わたしが必要としている使信はこれです。『あなたの生ける救い主との関係が本来そうあるべきものとなっているかどうか注意しなさい。彼の臨在の中で生活しなさい。彼の愛を喜びなさい。そして彼の内に安らいなさい。』」

 これにまさる使信はない。それを正しく理解しなさい。「あなたの生ける救い主との関係が本来そうあるべきものとなっているかどうかに注意せよ」。この関係がまさに人が祈りの生活を生きることを可能にするのである。

 祈りの欠如という罪の力が我々を覆っている限り、また我々の弱さのゆえに我々自身のためにも、教会のためにも、宣教師のためにも、本来なさねばならない祈りができないという至らなさを覚えている限り、我々は主イエスと正しい関係に立っていると思って自分を慰めてはならない。主イエスとの正しい関係とは、他の何よりも祈りであり、神の意志に従って祈る願いと力とを伴うものなのである。このことをまず第一に認識するならば、我々にイエスを喜びイエスのうちに安らう権利を授けるものを我々は知ったことになる。

 この話をわたしが語ったのは、自己努力は必然的に落胆をもたらすこと、そして落胆は必然的に向上と勝利への希望を締め出すものであることを指摘するためである。これこそクリスチャンの多くが、とりなしの祈りに励むようにと召された時に陥る状態である。彼らにはそのような祈りは自分には全く手の届かないものであるように感じられる。そのような祈りができるように自分を犠牲にしたり自分を聖別したりする力は持ち合わせていないと感じられる。彼らは努力と戦いをやめてしまう。そのような努力は、彼らが思っているとおり、彼らを幸福にしないからである。彼らは肉の力によって肉に勝とうとしていたのだ。しかしそれは全く不可能である。彼らはベルゼブルによってベルゼブルを追い出そうとしていたのだ。しかしそのようなことは起こりえない。肉と悪魔を鎮圧することができるのはただイエスのみなのである。

 我々は必然的に失望と落胆に終わることになる種類の戦いについて語ってきた。それは自分の力によってなされる努力という戦いである。しかしそれとは別の、必然的に勝利に終わることになる種類の戦いがある。聖書は『信仰の闘いを立派に闘い』と書いている(第一テモテ6:12)。すなわち信仰から発して信仰が遂行する戦いである。我々は信仰を正しく理解しなければならない。そして信仰に堅く立たねばならない。イエス・キリストが常に信仰の創始者であり、また完成者であるのだ。

 イエス・キリストとの正しい関係に入るなら、我々は彼が援助と力とを授けてくださることを確信できるようになる。我々はまずはっきりこう言わねばならない、「あなた自身の力で戦ってはならない。自分を主イエスの足もとに投げ出しなさい。そして主が必ずあなたと共にありあなたの内に働かれると確信して、主が来られるのを待ちなさい」と。そしてこう言わねばならない、「祈りの中で戦いなさい。心を信仰で満たしなさい。そうすればあなたは『主にあって、その大いなる力によって強く』なるであろう(エペソ6:10)」と。

 このことを理解する助けとなる実例がある。大きな聖書教室を熱心に主催して成功していた一人の献身したクリスチャン女性がいたが、かつて彼女が困惑して牧師を訪ねたことがあった。彼女は若い頃は一人で祈る時を十分に持ち、主と交わりみことばを味わっていたが、やがてそのような時は失われていき、どうしても立て直せなくなってしまった。主は相変わらず彼女の働きを祝福されたが、喜びは彼女の生活から去ってしまっていた。牧師は、彼女がその失った祝福を取り戻すために何をしたのかと尋ねた。「何でもしました」と彼女は答えた、「思いつくことは何でも。けれどもすべてだめでした。」

 そこで牧師は、彼女が回心した時にはどのような経験をしたのかを尋ねた。彼女はすぐに明快に答えた。「はじめわたしは、善人になり罪から解放されるためにはどのような苦痛も厭いませんでした。しかしやがてそれはすべて無益だと分かりました。そしてついにわたしは理解するようになりました、わたしは自分の努力をみな放棄して主イエスを単純に信頼しなければならない、そしてイエスの生命と平和を授けていただかなくてはならないと。そしてイエスは実際に与えてくださいました。」

 「ではなぜそれを今しないのですか?」と牧師は尋ねた。「あなたの内なる部屋に、一人で祈る静まりの場に入ったら、あなたの心がいかに冷たく暗いとしても、自分の態度を自分の力で正しく改めようとしてはなりません。主の前に頭を垂れ、自分がどんなに悲惨な状態にあるかを主が見ておられること、自分の望みはただ主の中にあることをわたしは知っていますと申し上げなさい。主があなたを憐れまれることを幼子おさなごのような心で信頼しなさい。そして主を待ち望みなさい。このような信頼があなたの主に対する正しい関係です。あなたは何も持たず、主はすべてを持っておられます。」

 しばらく後、その女性は来て、牧師の助言が彼女を救ったことを彼に告げた。主イエスの愛を信じる信仰こそ、祈りにおける神との交わりに入る唯一の方法であることを、彼女は学んだのである。

 戦いには二種類あることを読者は理解するようになったのではないだろうか。一つ目は、祈りの欠如を自分の力で克服しようとする戦いである。このような場合にわたしからあなたに言うことは、その不休の働きと努力をもうやめなさいということである。無力さのままに主イエスの足もとに倒れ伏しなさい。主は言葉をかけてくださるであろう。そしてあなたの心は生きるであろう。

 あなたがここに到達したなら、次に言うべきことはこれである。「ここはすべての出発点に過ぎない。ここからは極度の真剣さ、自分の全力を尽すこと、心全体を注視してわずかな後退をも見逃さないことが要求される。そしてすべての上に、自己犠牲の生涯への献身が要求される。この生涯こそ、神が我々の内に見ることを真に望まれているものであり、神が我々のために実現してくださるであろうところのものである」。



| 総目次 | 緒言と目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
| 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 結語 | 附録 |