第十五章  十字架を取ること



 主がその弟子たちに、彼らが十字架を取って彼に従わなければならないと告げたときには、弟子たちは主が何を言っておられるのかよく分からなかった。主は弟子たちを励まして真剣に考えさせて、主がご自身の十字架を負うところを彼らが見る時に備えさせようとしたのである。主がヨルダン川で罪人つみびとの一人として洗礼を受けるご自身の姿を示された時から始まってこの時に至るまで、主はいつもその心に十字架を負っておられた。つまり、主は罪のゆえの死の定めを常に身に負っていること、そして極限までそれを負わなければならないことをいつも意識しておられた。このことに弟子たちが思いをめぐらせ、それがどういうことなのかを知ろうとしたが、彼らに思い当たる思想は一つしかなかった。それは、人間とは死に定められた者であり、定められた場所に自分の十字架を負っていくものだという思想である。

 キリストはまた『自分の命を私のために失う者は、それを得る』とも言われた(マタイ10:39)。主は弟子たちに自分の命を憎むべきことを教えたのである。彼らの本性はそれほどまでに罪深いので、死以外の何ものも彼らの必要を満たせないのだ。それは死以外のものに値しないのである。彼らは徐々に確信するようになった。十字架を取るということが意味するのは、「わたしは自分の命が死に定められていること、そしてこの定めを自覚して、絶えず自分の肉を、罪深い本性を、死にわたさなければならないことを感じようとする」ことであると。

 弟子たちは少しずつ備えられ、後日になって理解するようになった。イエスが負われた十字架は罪からの真の解放をもたらす唯一の力であって、イエスからまず十字架の霊を受けなければならないということをである。弟子たちは、弱さと無価値のうちに自己を卑しくするということが、どういうことなのかを主から学ばねばならなかった。彼らは、最も大きなことから最も小さなことに至るまで、あらゆる自分の意志を十字架につけるという従順がどのようなものであるかをイエスから学ばねばならなかった。彼らは、肉や世を喜ばせることを決して求めない自己否定とは、どのようなものであるかを理解する必要があった。『自分の十字架を負って、私に従いなさい』(マタイ16:24)ということばを通してイエスは、ご自分の精神と本性が弟子たちのものとなり、ご自分の十字架が実際に彼らのものとなるという偉大な思想に向けて、彼らが備えられるようにしたのである。


キリストとともに十字架につけられる

 主が弟子たちに学ぶように望まれた、十字架を取るということと自分の生命を失うということについての教えは、パウロの言葉の中にもその表現を見出すことができる。それは、イエスがすでに十字架上に死なれ、天に挙げられ、聖霊が注がれた出来事よりも後のことである。パウロは言っている。『私はキリストと共に十字架につけられました。…… この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この方を通して、世界は私に対し、また私も世界に対して十字架につけられたのです』(ガラテヤ2:20, 6:14)。

 パウロは信者の一人ひとりが、自分がキリストとともに十字架につけられていることを証明するような生き方をすることを望んだ。彼は我々に次のことを理解させようとした。我々の心の中に来られて住まわれるキリストは十字架につけられたキリストであって、ご自身もその命を通して我々に十字架の真の精神を持たせようと意志しておられる、ということをである。パウロは『私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられた』(ローマ6:6)と語っている。そのとおり、そしてさらに進んで『キリスト・イエスに属する者は、肉を十字架につけたのです』(ガラテヤ5:24)と述べた。人々が信仰によって十字架につけられたキリストを受け入れたということは、肉に対して死の宣告を下したということであって、しかもその宣告はカルバリで完全に成就しているのだ。パウロは『私たちはキリストの死と同じ状態になった』(ローマ6:5)のだからキリスト・イエスにあって罪に対しては死んだ者と考えなければならない(同6:11)と述べている。

 聖霊がパウロを通して語られたこれらの言葉は、我々が十字架の交わりにいつもとどまらなければならないこと、ひとたび十字架につけられて今は生きておられる主イエスとの交わりにとどまらなければならないことを教えている。いつも十字架の䕃にとどまり、十字架にかくまわれ、十字架に救われて生きる魂のみが、いつもキリスト・イエスを誇り、そのみそばにとどまる喜びを味わうことを期待することができるのである。


十字架の交わり

 十字架による贖いに救いの希望を置いていながら、十字架の交わりについては十分に理解していないという人が多く見られる。彼らは十字架が彼らのために獲得したものの方に期待を置いているのである。彼らは罪の赦しと神との平和を好むけれども、主ご自身との交わりなしにしばしば長い時間を過ごしがちである。彼らは、十字架の主、すなわち『玉座の中央におられる小羊』(黙示録7:17)として天に見ることのできる主との心の交わりを維持するために、日々戦うということがどういうことなのかを知らない。どうか、この小羊の幻が我々の上に霊的な力を及ぼすように、そして小羊が玉座において見られるのと同じように真実に、我々も小羊を日々実際に経験し、それによってこの場において主の臨在の力と経験とを持つことができるように。

 それは可能であろうか。疑いなく可能である。栄光のイエス、すなわち玉座の間に立つ屠られた小羊(黙示録5:6)が我々とともにこの地上の世界にとどまるようになるために、この偉大な奇跡は起き、聖霊が天から与えられたのである。しかしこの問題に対する答えは、次章で与えられる。



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