聖霊はいつでも我々を十字架へと導く。キリストがのぼられた道と同じである。聖霊はキリストを導き、キリストが傷のない献げ物として神にご自身を献げることを可能にしたのである。
それは弟子たちの場合も同じであった。彼らを満たしていた聖霊は、彼らがキリストを十字架につけられた者として公言するように導かれた。後に聖霊は彼らを十字架に参与する栄光へと導かれ、彼らはキリストのために苦難を受けるに値するものとされた。
十字架は彼らを再び聖霊の方に向けた。キリストは十字架を負われた後、聖霊を注ぎ出すために父から聖霊を受けられた。この十字架につけられた者の前に三千人がひざまずいた時、彼らは聖霊の約束を受けた。弟子たちは十字架の交わりを経験した時に、聖霊の満たしを再び受けた。聖霊と十字架の結び付きは永久のものであり、両者は分かちがたく互いに互いの内に属しているのだ。
この事実を我々は特にパウロの書翰の中に見ることができる。
『十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきりと示された。あなたがたが霊を受けたのは、律法の行いによるのですか、それとも信仰に聞き従う従順さによるのですか』(ガラテヤ3:1-2)。
『キリストは、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。それは、私たちが、信仰によって聖霊の約束を受けるためでした』(ガラテヤ3:13-14)。
『神は、その御子をお遣わしになりました。それは、律法の下にある者を贖い出すためでした。御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです』(ガラテヤ4:4-6)。
『キリスト・イエスに属する者は、肉を十字架につけたのです。私たちは霊によって生きているのなら、霊によってまた進もうではありませんか』(ガラテヤ5:24-25)。
『あなたがたも、キリストの体によって、律法に対して死んだのです。その結果、私たちは、新しい霊によって仕えるようになったのです』(ローマ7:4,6)。
『キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したのです。神は、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩む私たちの内に、律法の義が成就されるためです』(ローマ8:2-4)。
どのようなことにおいても、またいつでも、聖霊と十字架とは切り離すことができない。天国においてさえそうなのである。玉座の間に屠られたような姿で立っている小羊は、七つの角と七つの目を持っていて、この七つの目は神が全地に遣わされた七つの霊なのであった(黙示録5:6)。『天使は、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように光り輝く命の水の川を私に見せた』(同22:1)。これは聖霊にほかならない。モーセが岩を打った時に、水が流れ出てイスラエルの人々はそれを飲んだ。岩であるキリストが実際に打たれた時、そして彼が打たれた小羊として神の玉座に地位を得た時、その玉座の下から全世界を豊かにうるおす聖霊が流れ出たのである。
もし我々がまず十字架の完全な力のもとに身を置かないのであれば、聖霊の満たしを祈る祈りは馬鹿げたものとなる。エルサレムに集まった百二十人の弟子たち(使徒1:15)のことを考えてみなさい。キリストの磔刑は彼らの心に触れ、打ち砕いて、その心全体を所有していた。彼らはほかのことを語ることも考えることもできなかった。十字架につけられた方がその手足を使徒たちに示された時、彼は使徒たちに『聖霊を受けなさい』と言われたのだった(ヨハネ20:22)。同じように、いま彼らの心は十字架につけられたキリストで満たされていたので、彼らは天国に属する者として受け入れられ、聖霊で満たされるために整えられた。彼らは人々に対して「悔い改めて十字架につけられた方を信じなさい」と強く勧めた。そして彼らもまた聖霊を受けたのだった。
キリストは完全にご自身を十字架に献げられた。弟子たちも同じようにした。そして十字架は我々にもこれを要求する。十字架は我々の全生活を要求する。この要求に従うには強力な意志の力が不可欠であるが、それは我々にはない。しかし神の力あるわざによってそれができる。そして人は神に、ほかにどうしようもないものとして無条件に自分自身を投げかけるなら、神はそれをその人に保証されるであろう。
神の聖霊に領有されて聖霊のために証人となる新しい力を与えられたことを、心の喜びのうちにあかしすることのできる人々がなぜもっといないのであろうか。より喫緊の問題として、心を探る次の質問に答えを与えなければならない。何が我々を妨げているのか。天の父は地上の父親にもまさってその子たちにパンを与えようとしておられるというのに、こんな叫び声が聞こえてくる。「聖霊はどこに行ったのか? 神のみわざはこれだけなのか?」と。
この妨げは疑いもなく、教会があまりにも肉と世とに支配されてしまっているという事実にあるということは、多くの人が認めるであろう。我々はキリストの十字架の心を刺し通す力をあまりに理解していない。そのために聖霊はその豊かさを注ぐことのできる器を見つけられないということになる。
これは自分にはあまりに難しく深い話だと苦言を言う人が多い。このことは、十字架についてのパウロとキリストの教えを我々がほとんど当てはめもしなければ、実践に移してもいないということの証拠なのである。喜びの使信をあなたに伝えよう。あなたの内にはとにかくも聖霊がおられて、あなたを聖霊の教えの下に連れて行こうと待っておられる。そしてあなたを十字架に導き、十字架のキリストがあなたのために、またあなたの内になそうと望んでおられることを、そのたえなる導きによってあなたに知らしめようと待っておられるのだ。
しかし聖霊は、聖霊がその天的神秘をあなたに開示できるように、十分な時間を取ることをあなたに求められる。内なる部屋をないがしろにすることが、いかにイエスとの交わりを、十字架の知恵を、また聖霊の力ある働きを、妨げてきたかを聖霊はあなたに教えたいのだ。自己を否定すること、自分の十字架を取ること、自分の生命を失うこと、そして聖霊に従うこと、これらが何を意味しているのかを、聖霊はあなたに教えられるであろう。
あなたが十字架に関して自分が無知であって霊的な悟りと交わりに欠けていることを、これまでどれほど感じてきたとしても、聖霊はその教えの下にあなたを連れて行くことができるし、それを望んでおられる。またあなたのあらゆる期待を超えて、霊的生活の秘訣をあなたに知らしめることを望んでおられる。
最初から始めなさい。内なる部屋に忠実でありなさい。そこで聖霊があなたに出会ってくださる。このことを確信できることを聖霊に感謝しなさい。すべてが冷たく、暗く、ぎこちなく感じられるとも、あなたを愛してくださる主イエスのみまえに静まってひれ伏しなさい。主はあなたが聖霊と言葉を交わすことを願っておられる。聖霊をあなたに与えてくださったことを父なる神に感謝しなさい。肉について、世について、そして十字架について、あなたがまだ知らず、なお学ばなければならないすべてのことを、あなたの内におられるキリストの霊が必ずあなたに知らしめてくださる。そのことを確信しなさい。この祝福はあなたのためであると、ただ信じなさい。イエス・キリストは完全にあなたにおられる。彼はあなたを完全に領有することを望んでおられる。彼は聖霊を通してあなたを領有することができ、実際に領有してくださるであろう。しかしそのためには、あなたの時間が必要なのである。毎日、内なる部屋の中で、聖霊とともに十分な時間を過ごしなさい。あなたは聖霊がその約束をあなたの内に成就してくださると確信して安らってよいのだ。『私の戒めを受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す』(ヨハネ14:21)。
あなた自身のすべての必要のために求めるのに加えて、あなたの仲間の信徒たち、また教会全体、そして特にあなたの牧師のために祈りに励みなさい。すべての信者、またすべての教会のために、神が彼らに聖霊を通して力を与えてくださり、キリストが信仰によって彼らの心の中に住まうことができるように祈りなさい。答えが与えられる時は至福の時となるであろう。祈り続けなさい。そうすれば聖霊が、玉座の間に立つ屠られた小羊としてのキリストとその愛、キリストとその十字架をあらわし、その栄光を示してくださるであろう。
この二つは絶対的な敵対関係にある。十字架の意志は肉に死を宣告して死にわたすことである。肉の意志は十字架を無効としてそれに打ち勝つことである。聖霊の満たしを受けるための備えとしての十字架の必要性を知るようになるにつれて、多くの人は自分の内になお十字架につけなければならないものがあることに気づくようになる。我々は、我々の生まれつきの本性全体が死に定められていて、キリストにある新しい生命が我々の内に入って支配を確立するためには古い本性は十字架によって死ななければならないことを、理解する必要がある。我々は、自分の本性が堕落した状態にあって神に敵対するものであることを悟って、それを無きものとしてそれから完全に解放されることに同意し、切望するようにならなければならない。
我々はパウロと共に次のように言うことを学ばなければならない。『私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています』(ローマ7:18)。『肉の思いは神に敵対し、神の律法に従わないからです。従いえないのです』(同8:7)。神とその聖なる律法を憎むことは肉のまさに本質である。贖いの奇跡は、神の裁きと肉の詛いを彼が十字架上でその身に負ってくださり、肉を永遠に詛いの木に釘で打ち付けてしまったという事実にある。もし人がこの詛われた肉の思いについての神の言葉をただ受け入れ、それから解放されたいと望みさえするなら、その人は十字架を敵の力からの解放者として愛することを学ぶのである。
『古い人がキリストと共に十字架につけられた』(ローマ6:6)。我々の唯一の希望は、このことを信仰によって受け入れてしっかり保つことにある。『キリストに属する者は肉を十字架につけたのです』(ガラテヤ5:24)。このような人々は、その内なる肉を神の敵、キリストの敵、自分の魂の救いの敵と日々見なすことに同意し、また肉を十字架に釘づけられるという相応の報いを受けてしまったものとして取り扱うことに進んで同意したのである。
これは、キリストが我々にもたらした永遠の救いの一面である。それは我々が自分の理解力で把握できるようなものではないし、自分の力で達成できるようなものでもない。それは、我々がキリストとの交わりに日々進んでとどまり、すべてをキリストから受ける時にのみ、主イエスご自身が我々に与えられるものなのである。それは聖霊が我々に教えるものなのである。それを聖霊は我々に一つの経験として与え、聖霊が十字架の力によってすべて肉に属するものに勝利を与えられることを教えるのである。
肉が我々自身の自己という最小の範囲内でなしていることを、世は人類全体という大きな範囲でなしている。肉と世は、この世の王であるサタンの二通りの現れ方であり、両者はサタンのためにあるのだ。十字架が肉を罪に定められたものとする時、世の本性と力が何であるかを我々は同時に理解するのである。『彼らは私と私の父を憎んでいる』(ヨハネ15:24)。このことは彼らがキリストを十字架につけた事実によって分かる。しかしキリストは十字架上で勝利を得られ、我々を世の力から解放された。それでいま我々は言うことができる。『この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この方を通して、世界は私に対し、また私も世界に対して十字架につけられたのです』(ガラテヤ6:14)。
パウロにとって十字架は、彼が世から受けなければならなかった苦難という意味でも、十字架がいつも与える勝利という意味でも、毎日における現実であった。ヨハネも書いている。『全世界は悪い者の支配下にある』(第一ヨハネ5:19)。『世に勝つ者とは誰か。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。そして、霊はこのことを証しする方です。霊は真理だからです』(同5:5-7 (訳によっては5:5-6))。この世の神の持つこれら二つの大いなる力に対して、天の神は我々に二つの偉大な力を与えられた。すなわち十字架と聖霊である。
G. ステルンベルグの『星の光』からの以下の引用文では、十字架の偉大な真理が単純で力強い言葉で表現されている。「十字架の交わり」、「聖霊と十字架」という二つの章は特にそうである。
* * * *
私たちのかしらであるキリストは十字架にかかることで最も低い場所を得たもうた。それによってキリストは、その四肢である私たちをも最も低い場所に定められたのである。神の栄光の輝き(ヘブル1:3)は人々から拒まれる者となられた(イザヤ53:3)。その時以来、私たちの唯一の権利は、最後にして最低にとどまることである。それ以上のものを求めるとすれば、私たちはまだ十字架を正しく理解していないことになる。
私たちはより高い生涯を求めている。私たちが主の十字架の交わりの中に深く沈むなら、それを見いだすであろう。神は十字架につけられた者に最も高い場所を与えられた(黙示録五章を見よ)。私たちは同じことをしないであろうか。私たちもそうする。毎時間ごとに、主と共に十字架につけられた者としてふるまう時、私たちはこれを行なうのである。『私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。それにもかかわらす私は生きています。ただし私ではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の信仰によって生きているのです』(ガラテヤ2:19-20)。このように私たちは十字架の主を誇る。
私たちは完全な勝利を待ち望んでいる。私たちは主の十字架の交わりのうちにいっそう完全に入る時に、それを見いだすのである。小羊はその手足を十字架に釘付けられることによって最大の勝利を得られた。私たちは、ただ十字架の䕃にとどまる間だけ、全能者の䕃に宿る。十字架は私たちの帰るべき家でなければならない。そこにのみ私たちはかくまわれる。私たちは主の十字架を理解した時に初めて自分自身の十字架を悟る。そして私たちは十字架に、見るだけでなく手で触れられるほどに近寄りたいと願う。そう、それどころか、私たちは十字架を取り上げ、十字架は、誰かが言ったように、内なる十字架となるのである。その時には十字架は私たちの内にはっきりと現れる。そして私たちが、十字架の下にうち沈む代わりに、喜びをもって十字架を担うようにさせる主の力が、とりわけ十字架の中に現れることを私たちは経験するのである。
十字架のないイエスなど考えられようか。刺し貫かれた彼の足が敵の頭を打ち砕き、刺し貫かれた彼の手が敵を完全に打ち倒したのだ。十字架のない私たちなどあり得ようか。十字架から離れてはならない。それにしがみつきなさい。私たちがイエスが行かれた道以外の道を通って行くことができるなどと考えられようか。向上のない人が多いのは、彼らが十字架を取ろうとしないからである。
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