アンドリュー・マーレーは宗教的な家系を先祖に有していた。祖父のアンドリューは、はじめ牧羊者であったが、その仕事を離れてスコットランドの製粉所での仕事を得た。彼は篤信家であり、その臨終の祈りは息子のジョンに感化を与え、ジョンは後に伝道の働きに加わった。ジョンはスコットランドで任職を受けた牧師となった。ジョンの弟であるアンドリューもスコットランド教会から免状を授けられ、アバディーンの長老会から任職を受けた。このアンドリューは後に、伝道師としてオランダ改革派教会から南アフリカに遣わされた。
アンドリューは南アフリカで、後に妻となる婦人、マリア・スザンナ・ステグマンに出会った。彼女はドイツ人に出自を有していた。彼女の曾祖父はユグノーであって、フランスでプロテスタントに信仰の自由を認めていたナントの勅令が廃止された時に、フランスを追われたのであった。アンドリューとスザンナの長男はジョンと言い、そして次男のアンドリューこそ、この小伝の主人公であり、また本書の著者である。
アンドリュー・マーレーは1828年5月9日に南アフリカで生まれた。父親はしばしば家族に、信仰復興の物語を語って聞かせていた。アンドリューが10歳の時、彼と兄のジョンは教育のためにスコットランドに送られた。彼らはその伯父の、スコットランドの牧師であるジョンのもとに滞在した。1840年、信仰復興運動に加わっていたウィリアム・バーンズがスコットランドのアバディーンで説教を行なった。そのあいだ彼は二人の伯父のジョンのもとに滞在した。バーンズの説教と、信仰復興と失われた人々の救いとを祈る長い熱烈な祈りは、若いアンドリューに強い影響を与えた。
アンドリューが17歳になろうとしていた頃に、彼と兄のジョンはアバディーンのマーシャル・カレッジに進み、そこで彼らは1745年に学位を得て卒業した。そこから彼らはオランダのユトレヒト大学に進み、神学を学ぶと共に、オランダ語の環境にあって気持ちを新たにした。理性主義が主流の時代であった。南アフリカにいた父親のマーレーは二人の息子に手紙を書き、教えられる事柄に注意するように促した。1845年4月23日付の手紙の中で、彼は次のように書いている。「あなたがたはまもなく、神学的な事柄について、あなたがたを驚かせるような見解が学生の間で、そればかりか教授たちの間にさえ、流布しているのを耳にするでしょう。しかしそれを受ける際には十分に警戒しなさい。たとえどれほど偉い人が、またはどれほど多くの人がそのような見解を支持しているにしてもです。高潔なベレアの人々(使徒17:11)のようにふるまおうと努めなさい。ほむべき聖霊の導きのもとであなたがたの聖書とあなた方自身の心とに学びなさい。そうすればあなたがたはすべての真理へと導かれることを私は疑いません。どのような本を読むように勧められても、聖書の学びを欠かしてはなりません。これを毎日の実践としなさい。謙遜をもって、聖霊の導きを祈る十分な祈りをもって、これを務めなさい」。
ジョージ・ホイットフィールドとウェズレー兄弟がオックスフォードで設立したホーリー・クラブの流れを汲む小さなグループがユトレヒト大学にあり、マーレー兄弟もそれに参加した。そのグループはシェコル・ダバル(「御言葉を憶えよ」の意味のヘブライ語)と呼ばれ、「信仰復興の精神において宣教者の職務のために求められる諸課題の研究を振興すること」を目的に掲げていた。そのメンバーは嘲りを受けることも多かったが、彼らは全く神のために生きることを求めていた。1848年5月9日、ジョンとアンドリューのマーレー兄弟はオランダ改革派教会のハーグ支部から任職を受け、牧師の仕事を始めるために南アフリカに帰った。
21歳の時、アンドリューは南アフリカの僻地で50,000平方マイルもある地域をただ一人の牧師として管轄する任務を与えられた。オランダ語を話す農夫たちに御言葉を語るために、アンドリューは一度に何週間もかけて馬に乗って回ったものであった。1856年、アンドリューはイングランドの牧師の娘であるエンマ・ラザフォードと結婚した。彼らは8人の子供──4人の息子と4人の娘をもうけた。
1860年にアンドリュー・マーレーは南アフリカのウースター教会の牧師に任ぜられた。そこで彼らは、北アメリカとヨーロッパで起きていたリバイバルの噂を人から聞くことになった。その頃、マーレーも他の人々も熱心にリバイバルを祈っていて、リバイバルらしきことを経験することもあったが、それはマーレーが期待していたようなものではなかった。彼はますます聖潔ということに興味を引かれ、現在では「きよめの運動」と呼ばれている動きに関心を持つようになった。
アンドリュー・マーレーは1864年にケープタウン教会の牧師となり、続いて1877年にはウェリントンの牧師となった。1877年にはまたマーレーはアメリカ合衆国を旅行し、五週間をかけて日曜学校とムーディのリバイバルとアメリカの改革派教会を視察した。マーレーはまたスコットランドで長老派教会の評議会に出席し、またオランダとドイツを含む各所で説教を行なった。
南アフリカに戻ると、マーレーはクリスチャン教育と神学生の訓練にますます深く関わるようになった。それまでの数年間におけるマーレーの厳しい説教日程は、彼の生涯における興味深い、後に大きな影響を及ぼすことになる時期を、彼に迎えさせることになった。1879年の末にかけて、彼の声は過労のために発声困難に陥り、その状態がその後2年ほど続いた。このあいだ彼は公的な場で説教をすることがあまりできなくなった。彼がメッセージを筆記し、それを別の人が会衆に向かって読み上げるということがたびたびあった。アンドリューはいろいろな医者にかかったり、乾燥した地方で転地療養をしたり、さらにほかのことも試みたが、彼の喉は回復しなかった。かわりに彼はより多くの時間を研究と執筆に費やすことになった。
一時的に不十分ながら回復したことがあったのち、アンドリュー・マーレーは信仰による癒やしについて研究を重ねるようになった。1881年、マーレーはロンドンにいた。かねて彼はスイスに行って一人の人物に会いたいと思っていたのである。その人物は、彼が生涯の早い時期に会ったことのある人で、当時は信仰による癒やしに関する研究所の所長を務めていた。その人、オットー・シュトックマイアーが、その時にロンドンに来ていることをマーレーは耳にしたのだ。彼らは面会して、癒やしと信仰に関する聖書の記述を議論した。シュトックマイアーはマーレーに、ボードマン博士というアメリカ人の集会に出てみるように勧めた。この人は信仰による癒やしに関する本の著者であって、その当時はロンドンに研究室を持っていた。マーレーはその研究室を訪ねて、そこに3週間滞在した。そこで彼は、信仰による癒やしとは、ただ肉体が癒やされるということではなく、患者がきよめられて神に聖別された生涯に入るのを援助することにある、ということを教えられた。
マーレーの声は回復した。その時から彼は信仰による癒やしについて多く書き、また語った。その後の生涯においても、彼はそれほど深刻ではないが発声障害に見舞われることが時々あった。そのためか、彼はそれほど信仰による癒やしを万人のためのものとして強調するということはしなくなったように思われる。しかし彼の経験と研究は、彼の残りの生涯のために信仰の癒やしの力と可能性とを信じるということを彼に実践させた。
アンドリュー・マーレーは執筆と説教を継続した。彼は聖潔のための集会として著名なケズィックの集いで説教者を務めた。彼は自分の属する地方長老会の議長に指名されたことが6回あった。彼は200冊以上の本と小冊子を執筆した。その多くはきよめと深い生涯に関するものである。その中には『完全な明け渡し』、『謙遜』、『キリストにとどまれ』、『さらに深いクリスチャン生涯』、『服従の学校』、『神を待ち望む』、『とりなしの奉仕』、『新しい生涯』、『祈りの学校でキリストとともに』、『二つの契約と第二の祝福』などが含まれる。
地上の生涯の最期の瞬間、アンドリュー・マーレーは神の祝福のうちで祈りと喜びの中にあった。1917年1月18日に彼は88歳の生涯を閉じた。
| 総目次 | 緒言と目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
| 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 結語 | 附録 |