恩寵を理解するには、そしてキリストを正しく理解するには、我々は罪とは何かを理解しなければならない。そして罪の理解に達するには、神とその言葉の光を通らないわけには行かない。
来て聖書の初めを見なさい。そこでは人は神によって神にかたどって創造され、創造した者によってとてもよくできたと宣言されているのを見る。その時に罪が、神に対する反抗という形で入ってきた。アダムはパラダイスを追われ、その数え切れない子孫共々、詛いと亡びのもとに送られた。それが罪の働きであった。ここから我々は罪の本性と力とを知ることができる。
さらに進んで、アララト山のノアの箱舟を見なさい。神を見失った人々のさまは恐るべきもので、神は地上から人類を滅ぼす以外のことを考えられなかった。それが罪の働きであった。
さらに進んでシナイ山まで来なさい。そこで神は新しい国民、イスラエルの民との間に契約を立てることを望まれた。しかし人間の罪深さゆえ、神は暗黒と光の中に現れてそれをなすほかなかった。それがあまりにも恐ろしかったのでモーセは『私は恐れ、震えている』(ヘブル12:21)と言ったほどである。律法を与え終わる前に、恐ろしい宣告がなされた。『律法の書に書いてあるすべてのことを守らず、これを行なわない者は皆、呪われる』(ガラテヤ3:10)。これが必要とされたのは罪のゆえであった。
さらに進んで、今度はカルバリに来て、そこで罪が何であるかを見なさい。世が神の子を追い出して十字架につける、その憎しみと敵意とを見なさい。そこで罪は絶頂に達した。そこではキリストが、神ご自身によって罪とされた。罪を滅ぼす唯一の道として、キリストは詛いとなられたのである。キリストがゲツセマネでこの杯を去らせてくださるようにと祈ったとき、またキリストが十字架上で孤独の深い闇の中で『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』(マタイ27:46)と叫んだとき、その時の煩悶の中に、我々は罪がもたらす詛いと言語に絶する苦難とを、少なくとも垣間見ることはできる。我々に罪を嫌悪させ呪詛させるものがあるとすれば、それは十字架上のキリストを思うことである。
さらに進んで、大いなる日の裁きの座に来なさい。そして底なしの暗い穴を見なさい。『呪われた者ども、私から離れ去り、永遠の火に入れ』(マタイ25:41)という宣告のもとに数え切れない魂がそこに投げ込まれることになる。この宣告は我々の心を融かして、我々が罪を完全に憎むようになるまで、心を離れない罪の恐怖で我々を満たさないであろうか。
罪が何であるかを理解するために役立つものはまだあるだろうか。まだある。内側に目を向けなさい、自分の心を見なさい、罪はそこにある。あなたはこれまでに罪がいかに悪意があり不信心なものであるかを見てきた。そのことはあなたに、あなたの心の内の罪が何を意味しているかを教えるのではないか。あなたがこれまでに犯した罪、神のおきてに対する一つひとつの違犯の中には、神に対するあらゆる敵意、人間のあらゆる堕落、そして罪のあらゆる内なる悪しき本性が、隠れて宿っているのである。あなたがもし自分が神の子でありながらなお罪に加担し、罪がその欲望を満たすままにしていることがあるとすれば、あなたはイザヤとともに恥じて『ああ、災いだ。私は汚れた者』(イザヤ6:5)と叫ぶのが正しい。ペテロとともに『主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です』(ルカ5:8)と言うのが正当である。
罪の大きな力は、我々が罪の性質を認識できないように我々の目を見えなくするということにある。クリスチャンでさえ、自分は完璧ではあり得ないのだから日々の小さな罪は仕方がないという考えに言い逃れを見つけようとする。彼は罪の思いに慣れてしまっているので、罪を嘆く力も機会もほとんど失ってしまっているほどだ。しかし神に対する一つひとつの違犯の罪と呵責をますます強く意識するということなしには、真に恵みに成長するということはあり得ないのだ。「どうすればわたしは一度失ってしまった鋭敏な良心を取り戻すことができるだろうか、そして砕けた心といういけにえを真に神に献げることができるようになるだろうか」──このこと以上に大切な問いはあり得ない。
聖書はその方法を我々に教える。クリスチャンは罪に対する神の思いを覚えねばならない。すなわち神の聖が罪に対して燃え上がる憎悪、そして神が罪を滅ぼし我々を罪から救うために払われた厳粛な犠牲をである。神の聖が彼の上に輝くまで、そしてその人がイザヤとともに『ああ、災禍だ、私は死んだ者、汚れた唇の者』(イザヤ6:5)と叫び出すまで、その人は忍耐強く神の臨在の前にとどまらねばならない。
その人は十字架を覚えねばならない。十字架上でキリストの愛が、罪がキリストに引き起こした言い表せない苦痛を通して何を耐えなければならなかったのかを覚えなければならない。その人はこのことが自分に『私が憎むこの忌むべきことをしてはならない』(エレミア44:4)と告げる声に耳を傾けさせないかどうか、自問しなければならない。その人は十字架の血と愛が自分にその完全な影響を及ぼすようになるまで、時間を取らなければならない。そしてその人は、罪とはまさにサタンとその力に自分の手を差し伸べることであると認めなければならない。罪についてのこの真の知識がほとんど失われてしまっているということこそ、我々の祈りの欠如の、また神のみまえで待つことができないことの、恐るべき結果なのではなかろうか。
信者は、キリストが贖いのわざのために払った犠牲についてだけでなく、またキリストは聖霊によって思いを超えた恩恵として自分に与えられているという事実を思わなければならない。キリストを通して神の赦しときよめと新生とがその人を既に捉えているのである。信者は、このような愛は何によって報いられるべきなのかと自問しなければならない。このような意識を持って神の御前で待つことに時間を取りさえするならば、神の霊は我々の内なる罪を自覚させるというその働きをなしてくださり、完全に新しい心の姿勢を取ることを我々に教えてくださり、罪に対する見方を刷新してくださるであろう。我々は確かに贖われているという思いが我々の心を覆い始めるであろう。それは我々がキリストの力のうちに、キリストが十字架上で罪に対して獲得された大いなる勝利に連なる者として日々の生活を送ることができるようになるためであり、またその勝利が我々の歩みのうちにあらわれるようになるためである。
あなたはどう思うだろうか。祈らないという罪は、あなたが初めに思っていたよりも恐るべき結果をもたらすものであることが分かってきたのではないだろうか。あなたは罪に対する感覚が曖昧で、本来そうすべきにもかかわらず罪を嫌悪し罪を避けるようにあなたを強いる心の動機がないとすれば、それはあなたが神と共に過ごす時間を惜しんで表面的な祈りしかしないからなのである。ただ隠れたところでのへりくだった継続的な神との交わりだけが、神の子であるあなたに神が望まれるように罪を忌み嫌うことを教えるのである。ただ生けるキリストにいつもそば近くとどまってその力をいつも受けることだけが、あなたが正しく罪を理解して罪を憎むことができるようにするのである。こうして得られる罪についての深い理解なしには、キリストにおいてあなたにもたらす勝利、聖霊があなたの内に実現する勝利をわがものにしようという思いもまた起らないのである。
神よ、わたしに自分の罪を知らしめたまえ、あなたのみまえに待つことを教えたまえ、あなたの霊がわたしの上にあなたの聖の幾分かをもたらすのを待つことを教えたまえ。わたしに自分の罪を知らしめたまえ、そしてその知識にわたしをして『御子の内にとどまる人は皆、罪を犯しません』(第一ヨハネ3:6)との約束に赴かしめ、あなたがそれを成就してくださることを期待せしめたまえ。
罪と神の聖とについての理解が教会から失われてしまっているとしばしば言われてきた。我々の信仰と生活において神の聖が本来持つべき地位をどうすれば回復することができるかを学ぶことができる場所は、我々の内なる祈りの部屋にある。もしあなたがどうすれば祈りのために三十分間を過ごすことができるかが分からないならば、神の聖という問題を取り上げなさい。神のみまえに身をかがめなさい。神とあなたが互いに交わりを持つに至るように、あなた自身に時間を与え、また神に時間を与えなさい。それはただ偉大な祝福によってのみ実現される偉大なわざなのである。
この聖なる神の臨在を拝する力を得たいと望むなら、聖書の言葉を取りなさい。例えばレビ記を見なさい。『私が聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者となりなさい』と神が七回も命じておられることに注意しなさい(11:44, 45; 19:2; 20:7, 26; 21:8; 22:32)。『私はあなたがたを聖なる者とする主である』という表現は聖書の中にさらに多く見出される(例えば出エジプト31:13を見よ)。
この偉大な思想は新約聖書に継承されている。ペテロは書いている、『あなた方自身も生活のあらゆる面で聖なる者となりなさい。「聖なる者となりなさい。私が聖なる者だからである」と書いてあるからです』(第一ペテロ1:15, 16)。パウロはその最初の書簡の中で書いている。『あなたがたの心を強めてくださり、私たちの主イエスが、あなたがたを聖なる、非の打ちどころのない者としてくださいますように』(第一テサロニケ3:13)。『神は私たちを汚れた生き方へではなく、聖なる生き方へと招かれました』(同4:7)。『あなたがたをお招きになった方は、真実な方で、必ずそのとおりにしてくださいます』(同5:24)。
神が聖なる者であるという知識だけが我々を聖なる者とすることができる。しかし内なる部屋に入らずに、どうしてその知識を獲得できるだろうか。我々が十分に時間を取って、神の聖が我々の上に輝き渡るのを待つのでなければ、それは絶対に不可能なのである。誰か素晴らしい知恵のある人から親しく教えを得たいと思うなら、その人に付き従って自分自身をその人の影響下に置かなければならないのではなかろうか。神ご自身に我々をきよめていただきたいと望むなら、神の聖の栄光の力のもとで時間を取らなければならないのではなかろうか。しかし内なる部屋以外では、我々は神の聖を知ってその影響と力のもとに入ることはできないのである。ひとりになって神と共に頻繁に、また十分に長い時間を取らない者はきよめに成長できると思ってはならない。
この神の聖とは何であろうか。それは神の属性の中でも最も崇高で栄光あり、しかも最も包括的な属性である。聖は聖書の中で最も深い意味を持つ言葉である。それは天国の言葉なのだ。旧約聖書も新約聖書もともにこのことを我々に教える。イザヤは顔を翼で覆ったセラフィムが呼び交わすのを聞いた、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主』(イザヤ6:3)。ヨハネはかの四つの生き物が唱えるのを聞いた、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主。かつておられ、今おられ、やがて来られる方』(黙示録4:8)。
これは、神の直接的な現前のうちに生き、神の前に低く伏す者たちによる、天国における神の栄光の最高の表現である。我々はただ考え、読み、聞くだけで、神の聖を理解しその継承者となることができると思うだろうか。それは何とも愚かなことである。どうか、我々が内なる祈りの部屋という場所を与えられていることを神に感謝できるようになしたまえ。その部屋で我々はひとり神と共にあって次のように祈ることができるのだから。「主よ、あなたの聖をわたしの心の中にもっともっと輝かせ、私の心をも聖としてください」と。
我々の心をしてその祈りのなさを深く恥じ入らしめなさい。祈らないことによって我々は神がその聖を我々に分け与えることを不可能にしてきたのだからである。神が我々をこの罪から赦してくださるように、神の天の恩寵によって引き上げてくださるように、聖である神と交わりを持つことができるように我々を強めてくださるようにと、熱心に祈り求めなさい。
「神の聖」という言葉の意味を言い表すのは容易ではないことをわたしは説明してきた。しかしそれはまず、神が罪を見る時の言い尽せない憎悪と嫌悪とを意味している。このことの意味を理解したいと思うなら、神は罪に勝たれるよりは子を死なせる方を選んだということを思い出しなさい。また神の子を思いなさい。彼はほんのわずかでも父の意志に逆らうよりは、命を捧げることを選んだのである。彼は人々が罪の力にとらわれたままになるよりは自ら死ぬ方を選ぶ、それほどに彼は罪を憎んだのである。
神の聖にはまた、神が我々を罪から救うためなら何でもするという誓いという面がある。神の聖は、我々の内なる罪を焼き尽し、我々を神のみまえに受け入れられるけがれのない聖なるいけにえとする神の火なのである。聖霊が火としてくだるのはこのためである。聖霊とは神の聖の霊であり、我々にとっては聖化する霊である。
神の聖を深く考えなさい、そして聖なる者があなたになそうとしておられることについての確信があなたの心を満たすまで、神のみまえにひれ伏しなさい。我々は祈らないことによって、神と神の愛とをひどく軽んじてきたのだ。そのことを思いつつ神と、聖なる者と対話し、そのみまえに深いへりくだりと羞恥をおぼえてひれ伏すことこそ、内なる部屋の至福なのである。このことがあなたの心に確かなものとなるまで、必要なら丸一週間でも時間を取って、この偉大な真理についての神のことばを読み、繰り返し読み直しなさい。内なる部屋でこそ、我々は神が我々をもう一度ご自身との交わりに入れようとしておられることを確信することができる。誰でも神と共にひとりでしばしば長い時を過ごすということをしないならば、神の聖を理解したりそれを受けたるできると期待してはならない。
或る人の言葉を借りると、神の聖とは、義としての神が我々から隔てられているその測り知れない遠さの表現であるとともに、愛としての神が我々との交わりを保ち我々の内に住むことを望まれるその測り知れない近さの表現でもある。あなたと神の間の計り知れない隔たりを思う時、へりくだった崇敬のうちにひれ伏しなさい。また神があなたと深い親密さをもって結ばれることを願う言い知れない神の愛を、幼子のように確信してひれ伏しなさい。神を渇望する心に神がその聖を幾分でも啓示してくださることを深く確信して、神を信じ、神を待ち望み、神のみまえに静まりなさい。
十字架には神の聖の二つの面が結び合わさっていることに注意しなさい。我々の罪に対する神の憎悪と怒りは、キリストを深い闇の中に置き去りにするほどに苛烈なものであった。なぜなら神は罪がキリストの上に置かれているのを見てキリストから顔を隠さざるを得なかったからである。それと同時に、我々に向かう神の愛と、我々と結合したいという神の望みは、そのひとり子さえ惜しまずに徹底した受難に渡してしまうほどに強烈なものであった。それによって神は我々をキリストと一つのものとして神の聖のうちに受け入れ、神の愛する子としてその胸に抱きしめようとされたのである。『私は自らを聖なる者とします。彼らも、真理によって聖なる者とされるためです』(ヨハネ17:19)と主イエスがおっしゃったのはこの受難のことであった。かくてキリストは神によるわれわれのきよめとなり、我々は彼にあって聖なる者となるのである。
あなたはあなたを聖なる者とすることを望んでおられる聖なる神を持っているという恵みを軽く見てはならない。内なる部屋で静まりのうちに神に時を与え、神がその聖をあなたの上に置くのを待つようにと、あなたに呼びかける神の声を軽く見てはならない。内なる部屋の隠れたところで聖なる神と面会することを毎日の習慣としなさい。そのことのためにあなたに何か損失があったとしてもそれは報われるであろう。その報酬は確実で豊かなものとなろう。あなたは罪を憎むこと、罪を既にあばかれて征服されたものとして見ることを学ぶであろう。新しい性質はあなたに罪に対する恐怖をもたらすであろう。聖なる神である生けるキリストが征服者としてあなたの力となり強さとなるであろう。そしてあなたは第一テサロニケ5:23-24にある大いなる約束を信じるようになるであろう。『平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実な方で、必ずその通りにしてくださいます』。
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