罪は従順の反対である。『一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです』(ローマ5:19)。『あなたがたは、義の奴隷となったのです』(同6:18)。罪や新生や聖霊の受容について言われているすべてのこととの関係において、我々は常に従順に対して神がそのために定められた場所を与えなければならない。
神がキリストを高く挙げられたのは、キリストが自分を賤しくして死に至るまで、十字架の死に至るまで従順になられたからである。このことに関連してパウロは我々に、『このことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです』(ピリピ2:5)と勧めている。我々は、神をそれほどまでに喜ばせるものであったキリストの従順が、ほんとうに我々の本性と我々の歩み全体との特徴とならなければならない、ということを知る。ちょうどしもべが何事においてもまず主人に従順にならなければならないことを心得ているように、完全で疑問の余地のない従順への明け渡しが我々の生活の本質的性格とならなければならない。
このことがクリスチャンの間でいかに理解されていないことであろうか。なんと多くの人々が自分が誤った道に導かれることを容認し、罪は仕方がないものであって誰でも毎日罪を犯すものだという見解に満足してしまっていることであろうか。この誤りがどれほど大きな損害をもたらしているか、言うのも難しいほどである。このことは、不従順の罪がほとんど認識されることがないことの、主要な原因の一つである。わたしはクリスチャンたちが暗さと弱さの原因についてなかば笑いながら、「そう、またしてもちょっとした不従順さ」と言っているのを聞いたことがある。不従順が習慣的になっているようなしもべがいればできるだけ速やかに追い出そうとするであろう。しかしもし神の子である人が日々不従順を働くようになれば、それは特別なこととは見なされなくなる。毎日不従順を告白していながら、そこから立ち帰るつもりはないのである。
聖霊の力を求める多くの祈りが捧げられるのに、その答えがほとんど来ない理由は、このことなのではなかろうか。我々は使徒行伝5:32に、神はご自分に従う人々に聖霊を与えられたと書かれているのを読まないであろうか。神の子は誰でも聖霊を受けている。もしその人が、完全に従順になるという目的のために、内なる聖霊の規範を当てはめるなら、神は喜んでその人のために聖霊のさらなる力をあらわすことができるし、そうされるであろう。しかしもしその人が毎日、不従順が自分を支配することを許しているなら、聖霊をより多く求めるその人の祈りが聞かれないままになっているとしても不思議に思うには及ばない。
我々は聖霊が我々のより多くを所有することを望んでいることを忘れてはならないとすでに語った。しかし従順によらないでどうやって聖霊に完全に自分を明け渡すことができるというのか。聖書は我々が聖霊によって導かれねばならないこと、そして聖霊によって歩まねばならないことを告げている。聖霊に対するわたしの正しい関係とは、わたしが聖霊に導かれ支配されるべく自分自身をゆだねていることである。従順は、我々の神に対する関係全体の中の大きな要因である。『私の声に聞き従え。そうすれば、私はあなたがたの神となる』(エレミヤ7:23)。
主イエスは最後の晩に聖霊についての偉大な約束を与えられるにあたって、この点を強調されていることに注意しなさい。『あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わしてくださる』(ヨハネ14:15-16)。従順は聖霊を受けるための不可欠な準備なのである。このことをイエスは何度も繰り返しておられる。『私の戒めを受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す』(同14:21)。23節にも同じことが言われている。『私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む』。また15章をも見なさい。『あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる』(15:7)。『あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる』(15:10)。『私の命じることを行なうならば、あなたがたは私の友である』(15:14)。
キリストの復活以降の新しい時代にあっては生活全体が従順にかかっているということを、これほど明確にかつ印象的に語る言葉があるだろうか。従順こそキリストの霊なのである。キリストは自分の意志ではなく父の意志を実現するために生きた。キリストとその霊は、自分自身を従順の生活に完全に明け渡さない者の心を住み家とすることはできない。
この不従順のゆえに心を悩ます者がこれほどまでに少ないとは。イエス・キリストが我々に従順を求め我々からそれを期待しているのが、これほどまでに真実と信じられていないとは。キリストは従順を我々に可能にすることを引き受けられたのだ。我々があらゆることにおいて神に喜ばれる者となるように真に努めていることが、祈りに、我々の歩みに、また心的生活の深みに顕れているであろうか。我々は自分の不従順についてあまりにも言葉少ない。『私は自分の罪のためにおびえます』(詩38:18)。
従順はほんとうに可能であろうか。可能である。キリスト・イエスが自分のきよめであると信じ、キリストに信頼する者には、可能である。
眼がまだ開かれていない者には、キリストが直ちに自分の罪を赦すことができると悟ることができないのと同じように、神がその子に望んでおられることをすべて達成する力がキリストのうちに確実に約束されていると、信仰によって確信することもまた不可能である。信仰を通して我々は完全な赦しを知ることができたのと同じように、信仰の新しい働きによって、我々を容易に閉じ込める罪の支配力から我々は真に解放されることができ、我々を守るキリストの力を常に経験するという永続的な祝福がわがものとなるのである。この信仰は、約束について、かつて知ることがなかったその意味を悟るようになる。『平和の神が、御旨に適うことをイエス・キリストによって私たちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものにおいてあなたがたを全うさせてくださるように』(ヘブル13:20-21)。『あなたがたを守ってつまずかない者とし、傷のない者として立たせることができる方に、栄光と権威がありますように』(ユダ24-25)。『召されていること、選ばれていることを確かなものとするようにいっそう努めなさい。これらのことを行なっているなら、決して過ちを犯すことはありません』(第二ペテロ1:10)。『あなたがたの心を強めて聖なる者としてくださいますように』(第一テサロニケ3:13)。『しかし、主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます』(第二テサロニケ3:3)。
こうしたすべての約束の成就がキリストにおいて我々のために備えられていることを心が理解するなら、また罪の赦しがキリストにおいて我々に保証されていることが確かであると心が理解するなら、将来における罪の攻撃や新たな形の攻撃に対抗する力が我々に保証されていることもまた同じように確かなのである。その時に初めて、信仰はキリスト全体とその永続的な保護とに確信をもって頼るということを、正しく学んだことになる。
この信仰は従順の生活に全く新しい光を当てる。もしキリストがそうしてくださるとただわたしが信じるなら、キリストは従順の生活をわたしの内に常に実現する責任を負ってくださる。そうすれば、わたしはパウロがロマ書の最初と最後に記している重要な言葉、『信仰による従順』(ローマ1:5; 16:25(=原語では26節))ということを理解し始めるようになる。
信仰がわたしを主イエスのもとに連れて行くのは、ただ罪の赦しを得させるためだけではない。わたしを神の子として神のもとにとどまらせ、神の従順な子らのうちに数えられることを可能にする力を常にわたしに受けさせるためでもある。この神の子らについては、彼らを召し出してくださった方は聖なる方であるから『生活のあらゆる面で聖なる者となりなさい』と命じられている(第一ペテロ1:15)。キリストとその恵み全体について、キリストが時折ではなく毎時毎分、わたしの生活の力であり続けるとわたしが信じられるかどうか、それにすべてがかかっている。このような信仰は、『主にふさわしく歩んで、あらゆる点で主を喜ばせ、あらゆる善い行いによって実を結び、神を知る知識に成長し、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められる』(コロサイ1:10-11)ことを可能にする従順へと導くのである。
このような約束によって養われる心は、自己努力による不従順ではなく信仰による従順が意味するところを経験するようになる。これらすべての約束の大きさと確かさと強さとは、生けるキリストのうちに備わっているのである。
より豊かな命のある生活について述べた章では、我々はおもに主イエスの側から問題を考察した。そこでは、豊かな恵みの生活に必要なものはすべて主の中に見出されること──十字架につけられ、天に挙げられ、栄光を与えられて聖霊のバプテスマを施してくださる方に見出されるべきであることを見た。勝利の生活について語る今は、我々は別の立場から問題を見なければならない。我々はどうすればクリスチャンが真に勝利のうちに生きることができるかを知りたい。我々は、祈りの生活というものはそれだけを切り離して改善することができるものではないことを繰り返し述べてきた。祈りの生活は霊的生活全体と密接に結びついているので、祈りが正当な地位を得て力を持つには、生活全体(以前は祈りの欠如を特徴としていたもの)が更新されきよめられなければならない。我々は神がその子らを招かれている勝利ある生活以下のもので満足してはならないのである。
ヨハネの黙示録2,3章にある七つの教会に宛てた書簡では、我々の主は必ず勝利を得る者に対する約束で書簡を結んでいることをあなたがたは覚えているであろう。『勝利を得る者』と七回繰り返されている箇所を開き、そのたびに想像を超えた栄光の約束が与えられていることを確認しなさい。これらの約束は、初めの愛を離れてしまったエペソのような教会にさえ与えられている。生きているとは名ばかりで実は死んでいたサルディスのような教会にも与えられている。なまぬるい自己満足に陥っていたラオデキアのような教会にも与えられている。もし彼らが悔い改めさえすれば、彼らは勝利の冠を勝ち取ることが約束されているのだ。この招きは、勝利の冠を求めて戦うすべてのクリスチャンに与えられている。勝利を得るためにすべてが犠牲とされるのでなければ、健全なクリスチャンではあり得ないし、まして神の力ある説教者となることはなおさら不可能である。
どうすればそこに到達できるか、この問いに対する答えは単純である。すべてはキリストにある。『神に感謝します。神は、キリストにあって、いつも私たちを勝利の行進に連ならせ』(第二コリント2:14)。『これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります』(ローマ8:37)。すべては我々のキリストに対する正しい関係に、完全な明け渡しに、欠けのない信仰に、キリストとの絶えざる交わりにかかっているのである。
これらの条件にどうすれば到達できるかをあなたは知りたいであろうか。それならばいくつかの単純な命令をもう一度思い起しなさい。それらは、あなたがあなたのために備えられていることを完全に経験することができるための方法として与えられている。すなわち、新しく罪を発見すること、新しくキリストに明け渡すこと、そしてあなたがそこにとどまることを可能にする力に対する新しい信仰を持つこと、これらがあなたの必要とすることである。
1.新しく罪を発見すること。
ロマ書3章には、悔い改めて赦しを得るには罪に関する知識が必要であると記されているのを見るであろう。『それは、すべての口が塞がれて、全世界が神の裁きに服するようになるためです』(3:19)。あなたはここに立脚し、あなたの罪を自覚し、告白し、そして憐れみを受けた。しかし勝利の生活を送りたいのであれば、何かそれ以上のものが必要とされている。それは、『自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないこと』(ローマ7:18)という経験とともに与えられる。
あなたは内なる人に従うときは神の律法を喜んでいるが、あなたの中には別の法則があって、あなたを罪の法則の中に擄としていることを知る。そしてこう叫ばざるを得なくなる。『私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか』(同7:24)。こう叫ぶのは、回心の時とは異なって、あなたが自分のいずれかの罪を認めてのことではない。これはもっとはるかに深い心の働きなのである。あなたはクリスチャンとして、自分がしたいと望んでいる善をなす力がないことを見出す。あなたは自分の本性に宿る罪、クリスチャンであるのに本来生きるべき生を生きられないあなたの弱さについて、新しい深い洞察に必然的に導かれる。そしてこのように叫ぶようになる。「誰がわたしを救うのか、この悲惨な、罪の法則に縛られたわたしを」と。
この問いに対する答えは次の通りである。『私たちの主イエス・キリストを通して、神の恩恵によって』(「感謝」には原語で「恩恵」という意味がある)。続いてキリストの中にあるものが語られているが、それは同書3章に書かれていることと同じではなく、それ以上のものである。わたしは今やキリスト・イエスのうちにある。そして『キリスト・イエスにある命の霊の法則が、(私を捕えていた)罪と死の法則から私を解放した』(同8:2)。それは、キリストにある霊の生命の法則と力によってわたしは解放されたという経験である。その経験は今わたしに、新しい意味において、また新しい明け渡しを通して、勝利を与える者であるイエス・キリストに感謝することを促すのである。
2.新しくキリストに明け渡すこと。
「明け渡し」や「きよめ」という言葉をあなたはこれまでに何度も口にしてきたかも知れないが、その意味を正しく理解してはいなかった。ローマ書7章の教えによって、あなたは自分の努力によって真のクリスチャン生活を送ろうとしても、あるいは真の祈りの生活を送ろうとしても、それは無理であるということを完全に理解するように導かれた。そして今あなたは、主イエスご自身の力によって全く新しい仕方で引き上げていただかなければならないと感じている。聖霊を通して主イエスに全く新しい水準で所有していただかなければならないと感じている。このことだけが、あなたを絶えず新たに罪を犯し続けることから守ることができる。このことだけが、あなたを真に勝利ある者とすることができる。そしてあなた自身からあなたの目を離し、あなた自身からあなたを真に解放して、あなたにすべてを主イエスから期待するようにさせるのである。
このことを理解し始めるなら、我々は自分の本性の中には善が全くないこと、自分は詛いの下にあり、キリストとともに十字架につけられていることを、受け入れる用意ができたことになる。我々はパウロが、我々はキリストの死によって罪に対して死んでいると述べたときに意味していたことを理解するようになる。こうして我々はキリストのうちにある栄光のよみがえりの生命にあずかる。このような理解によって、我々はイエスがその絶えざる内住によって我々の内にあるイエスの生命を通して我々を守ってくださることができると、安心して信じることができる。
回心の時は、イエスが我々を受け入れてくださったと知るまでは安心することができなかった。それと同じように今も我々は、イエスがそのよみがえりの力によって我々を守ることを真実に引き受けてくださったという保証を受けるために、イエスに近づく必要を感じている。回心の時にイエスが我々を受け入れてくださったのと同じように明確な行為をもって、イエスは我々に勝利の保証を与えてくださるに相違ないと感じている。それは我々にとってあまりにも偉大で過分なことであるように思われるかも知れないが、キリストの御腕の中に無条件に身を投じる者は、キリストが終始勝ちて余りある者(ローマ8:37)としてくださる交わりの中に我々を確かに受け入れてくださるという経験を持つことができるのである。
3.あなたが自分を開け渡し続けることができるようにする力を信じる新しい信仰。
ケズィックとそれがよって立つ真理については聞いたことがあるであろう1。それはキリストは、我々がそうしてくださると信じている限り、毎日また一日中、我々の生活に気を遣い守ってくださるということである。多くの人々の証しの中でこのことが強調される。彼らは自分たちが新しい明け渡しに招かれているのを感じると語っている。最も小さなことに至るまでキリストのために生活を完全に聖別することである。しかし、失敗への懸念によってそれは妨げられてしまうとも語っている。きよめへの渇き、イエスとの不変の交わりへの渇き、継続する幼子のような従順の生活への渇きが、彼らを一つの道へと導いた。だが疑念が生じた。『我々は真実であり続けることができるだろうか』と。明け渡しは彼ら自身の力によってではなく栄光の神によって与えられる力によってなされなければならないということを彼らが信じられないと、この疑念は解消しない。神はただ彼らの状態を将来にわたって保ってくださるだけではなく、まず彼らがその将来の恩恵を期待する信仰に自分をゆだねることができるようにしなければならない。彼らがキリストの前にとどまることができるようにするのはキリストご自身の力によるのであった。
クリスチャンよ、勝利の生活があることを信じなさい。勝利者であるキリストがあなたの主なのである。彼はあなたのためにすべてを引き受けてくださるであろう。そしてあなたが父から期待されていることをすべてなすことができるようにしてくださるであろう。勇気を持ちなさい。キリストはあなたのためにその生命を差し出してあなたの罪を赦してくださったのだ。そのキリストがあなたにこの偉大なわざをなしてくださると、あなたは信じないであろうか。ただ彼の力に頼って、あなた自身を、神の力によって罪から守られている者たちの生活に引き渡しなさい。あなた自身の中には善が全く宿っていないことを徹底的に確信し、あなたが神の子としての生活を送るために必要な一切の善は主イエスの内に見出すと告白しなさい。そして文字通りに『私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の信仰によって生きる』(ガラテヤ2:20)ことを始めなさい。
あなたがたを励ますためにムール監督のあかしを紹介したい。この人は深い謙遜と心からの敬神の念を持っている人である。この人はケズィックについて最初に聞いたときは、その完全主義を疑い、かかわりを持たないようにしていた。しかし思いがけないことに、彼はスコットランドで休暇を取っていた時に、ある小さな集会で数人の友とかかわりを持つようになった。そこで彼は一つの説教を聞き、それを通してその教えが完全に聖書に適ったものであることを確信するようになった。肉と人とには必ず罪があると語られた。イエスは罪深い本性を持つ人間を罪から離しておくことができることが説かれた。光が彼の心を射た。彼はそれまでも熱心なクリスチャンとして知られていたが、いま彼は、キリストが彼に自分自身を完全にゆだねる者に対してなそうとしておられる新しい経験に触れるようになった。
ムール監督が『私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です』(ピリピ4:13)という文章について語っていることを聞きなさい。
「わたしはあえて申します、わたしを守ってくださり勝利を与えてくださる主の力を真に信じようとする者には、主の約束によって立つ生活、その約束が真実であると悟ることができる生活を送ることができます。私共のすべての心配事を日々主にゆだね、そうすることによって深い平和を味わうことができます。信仰によって、言葉の最も深い意味において私共の心がきよめられることを知り、期待することができます。すべての物事の中に神の意志を見てそれを受け入れること、しかもため息ではなく歌をもって受け入れることができます。願望と情念が支配する心の中から、毎日また毎時間、恨みや怒りや辛辣な言葉をすべて、捨て去ることができます。神の力という完全な逃れ場を得ることで、どこまでも強くなることができます。かつては私共が最も弱さを覚えていた場面で、かつては私共の忍耐深く、きよく、謙遜であろうとする決心を覆していた物事が、今日では罪を無力なものとするための機会として与えられていることを見ることができます。私共を愛してくださり、私共のうちに御心に適うこと、その臨在と力とを祝福として実現してくださる方によって、そうすることができます。これらのことを神が可能にしてくださるのです。それは神のみわざですから、私共はそれを真実に経験することによって、いつでも神の足もとにへりくだらなくてはなりませんし、またさらに多くの経験を渇き求めることを学ぶように導かれます。私共は日々、時々刻々、キリストにあって、聖霊の力により、神と共に歩むということ、これ以外では決して満たされることができません。」
神に感謝せよ。自分の内的荒廃を知り、自分自身に希望を持たず、絶望を内に抱きながらイエスに希望をおいた者には、勝利の生活が確実である。その人に明け渡しという行為を可能にするイエスの力を信じる信仰を抱いて、その人はイエスの力によって実際にそれをなした。そして今は、毎日毎時、ただイエスだけに頼っているのである。
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