第十四章  十 字 架 の 霊



 我々が聖霊の働きを求めるのは、自分の仕事のためにより多くの力が与えられるためであったり、あるいは自分の生活により多くの愛が、自分の心により多くのきよさが、聖書の上に、また自分の行く手に、より多くの光が、与えられることが目的であることがある。しかしこれらのことはみな、神の大いなる目的からすると二義的な問題に過ぎない。父なる神は御子に聖霊を与えられ、その聖霊を御子は我々に与えられた。そのただ一つの大いなる目的は、キリスト・イエスご自身を我々のうちにあらわし、栄光を与えるためであった。

 天にあるキリストが我々にとって実在の生ける人格となって、常に我々とともに、また我々のうちにあるのでなければならない。地上での我々の生活は、天上にある主イエスとの毀たれることのない聖なる交わりのうちに日々生きられなければならない。信ずる者が自分を活かす命としてキリストを知り経験するようになること、これこそ聖霊の第一にして最大の働きでなければならない。神の願いは、我々がその霊により力をもってその内なる人を強められること、信仰によってキリストが我々の心の内に住まわれること、そして我々がキリストの愛に根ざして神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされることなのである(エペソ3:16-19参照)。

 これは、初期の弟子たちの喜びの秘訣であった。彼らは失ってしまったのではないかと恐れていた主イエスを、天にあるキリストとして彼らの心に受け入れたのである。

 ペンテコステを前にしての彼らの備えは、キリストに完全に呑み込まれるということであった。キリストは文字通り彼らのすべてであった。彼らの心の中には何も残っていなかったので、聖霊はそこをキリストで満たすことができた。聖霊に満たされることによって、彼らは主が求めるように生き奉仕する力を受け取った。このことは今、我々の祈りと経験における願望の目的となっているであろうか。どうか神が我々に、我々が熱心に祈り求めてきた祝福は、日々実践され深められる内なる部屋におけるキリストとの親しい交わりを通してしか、保たれることも増し加えられることもないということを知ることができるように、導いてくださるように。

 しかしわたしには、ペンテコステのなお深い秘義が見いだされなければならないように思われる。天にある主イエスについての我々の理解にはなお制約があるように思われる。我々はキリストを、神の御座の輝きと栄光の内にある者として思い浮かべる。我々はまたご自身を我々に与えるようにキリストを動かした計り知れない愛について思い浮かべる。しかしそれよりも、キリストはこの地上では十字架につけられた者として知られていたのであって、ほかのことはさておいても、十字架につけられた者として神の御座に就かれたのである。このことをしばしば我々は忘れてしまう。『また私は、玉座に小羊が屠られたような姿で立っているのを見た』(黙示録5:6)。

 そう、キリストは父なる神の永遠の善なる喜びの対象であり、またすべて造られたものの礼拝の対象であるが、それは十字架につけられた者としてなのである。それゆえ最も重要なことは、我々がこの地上にあってキリストを十字架につけられた者として知り経験することであって、それによって、キリストの本性も我々の本性もそこから来ていること、人々を救いに与らしめる力もそこから来ていることを、世の人々に理解させることができるようになることなのである。

 わたしは次のことを深く感じている。十字架はキリストの最高の栄誉であって、聖霊はキリストが『永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられた』(ヘブル9:14)時に成し遂げたこと以上に偉大なことや栄光あることをなしてはいないし、なすことができないのであるから、聖霊が我々のためになすことができる最大にして最も栄光あることは、我々を十字架の交わりへと引き上げ、我らの主イエスのうちに見られるのと同じ十字架の霊を我々のうちに作り上げることにほかならない、ということである。言い換えれば、次のように問うこともできるであろう。聖霊の力ある働きを求める我々の祈りがなぜ答えられないのかというその理由は、我々が栄光のキリストをその十字架の交わりにおいて知るために、また彼に似た者となるために、聖霊を求めるということをしなかったからなのではなかろうか。

 我々はここにペンテコステの最深の秘義を見るのではなかろうか。聖霊は、聖霊がキリストにご自身を神に献げる力を与えた場所である十字架から、我々に来るのである。聖霊は、父なる神が言葉を超えた深い喜びをもってキリストの謙遜と服従と自己犠牲とを、神に対するキリストの献身の最高の証明として見ておられた、その父なる神から来るのである。聖霊は、屠られた小羊として玉座に立つキリストを我々の心にあらわすために来るのである。それによって天にある人々がキリストを礼拝しているのと同じように我々が地にあって礼拝できるようになるためである。聖霊は何よりも、十字架につけられたキリストの命を我々に分与するために来るのである。それによって我々が心から『私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです』(ガラテヤ2:20)と言えるようになるためである。

 この秘義をどうにかして理解するには、我々はまず十字架の意味とは何か、十字架の価値とは何かについて深く思いをめぐらせねばならない。


十字架につけられたキリストにある精神

 十字架は、二通りの立場から見る必要がある。第一に、我々は十字架をそれが成し遂げた作用に従って見なければならない。すなわち罪の赦しと罪に対する勝利である。これが十字架が罪人に到来するときに伴う最初のメッセージである。十字架は罪人に、罪の力がなくなったことと罪の力から完全に解放されたことを宣言する。

 第二の立場は、十字架をそこに表れている精神或いは意志に従って見る立場である。我々はこの表現をピリピ2:8に見ることができる。『キリストはへりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした』。『へりくだって』というのは、我々の罪と詛いの重荷の下にある最も卑しい場所に自ら身を落とすことである。『死に至るまで従順でした』というのは、神の完全な意志に対する極限までの服従である。『十字架の死に至るまで』というのは、自らをいけにえとして十字架の死にゆだねることである。

 この三つの事柄、すなわち自己卑下、服従、自己犠牲は、キリストの人格と働きとの聖なる完成形を我々に示す。このために神はキリストを高く挙げられたのである。キリストを父なる神にとっての喜びの対象とし、天使たちの礼拝の対象とし、またすべて救われた人々の愛と信任の対象としたものは、十字架の精神なのである。キリストの自己卑下、死に至るまでの神に対する服従、そして十字架の死に至るまでの自己犠牲が、彼を玉座の間に立つ、屠られたような姿の小羊としたのである(黙示録5:6)。


我々における十字架の精神

 キリストがこのようであられたのはすべて我々のためであって、キリストは我々のうちにあってこのようになることを望んでおられる。十字架の精神は、キリストの祝福であり栄光であったが、それは我々のためになおさらそうであるはずである。キリストは我々の中にその似姿を形造ることを望んでおられ、彼にあるものすべてを我々に豊かに分け与えることを願っておられる。そのためパウロは、しばしば引用されるように、次のように書いている。『キリスト・イエスにある精神をあなたがたのうちにもあらしめなさい』(ピリピ2:5)。また別の箇所では、パウロは我々はキリストの精神を有していると書いている(第一コリント2:16)。十字架の交わりを保つことは、我々の聖なる義務であるだけでなく、また言い尽くせない幸いな特権でもある。それは、聖霊ご自身が次の約束に従って我々に与えようとしている特権なのである。『その方は私に栄光を与える。私のものを受けて、あなたがたに知らしめるからである』(ヨハネ16:14)。聖霊はこの精神をキリストの中に造られたのであって、同じように我々のうちにも造ろうとしておられる。



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