良心が働いて心が深い悔悟の思いにとらわれるには、人は自分の罪を具体的に申し述べねばならない。告白はどこまでも個人的でなくてはならない。牧師たちの集まりにおいて一人ひとりが何よりも深い悔悟の思いと共に認めねばならない罪は、おそらく祈りの欠如であろう。我々には罪がある。ほんとうに罪があるのだ。
祈りの欠如はなぜそれほど大きな罪なのであろうか。それは何にも増して、単純に弱さであるからだ。祈らないことの罪深さから意識をそらすために、時間がないとかいろいろと集中を妨げる問題があることがしばしば口実として言われる。祈らないことが、今からのち、我々にとって真実に罪深いものと感じられることを、我々の心からの願いとしなければならない。
祈りの欠如が如何に深刻な問題であるかを理解するために、以下の諸点に心を向けなさい。
1.それがどれほど神の面目を失わせることになるか。聖にしてこの上なく栄光に満ちた神が、我々をそばに来るように招いておられる。神に語りかけ、神から聞き、我々の必要とするものを願い求め、そして神との交わりのうちにどれほど大きな幸いがあるかを経験するようにと、招いておられるのである。神は我々を神ご自身の姿にかたどって創られ、その独り子によって我々を贖われた。それは、我々が神との交わりのうちに最高の栄光と救いとを見出すことができるためであった。
我々はこの神からの特権をどのように用いているだろうか。祈りのために五分間しかかけないという人が多いのではなかろうか。彼らは時間がないと言い、祈りに対する欲求はあまりないと言う。彼らはどうすればほんの三十分でも神と共に過ごすことができるのかが分からない。彼らは全く祈らないわけではない。毎日祈ってはいるのだ。しかしその祈りには喜びがない。祈りにおける喜びこそ、神がその人にとってすべてであることをあらわす、神との交わりのしるしなのである。
友達が訪ねてくるという場合には、彼らには時間がある。また時間を作ることができる。友達との会話を楽しむためであれば多少の犠牲を厭わないのだ。そう、彼らにとって実際的に興味があることのためなら時間はあるのだ。しかし神と交わって神に喜びを見出すようなことをしている時間はないのである。彼らは自分に役に立つ人のためになら時間を見つけることができる。しかし一時間でも神と共に過ごす時間は、何日待っても、あるいは何ヶ月たっても彼らは見つけられないのである。
神と交わる時間が見つけられないなどと口にすることが、どれほど神の面目を失わせるか、どれほど神に対する侮辱となるのかに、そろそろ我々の心は気がつかないものであろうか。この罪が我々に明瞭に認められるようになるなら、我々は深い恥をもって叫ばずにはおられないのではなかろうか、「ああ、何としたことか、これまでの自分は。神様、わたしを憐れんでください、そして祈らないというこの恐るべき罪を赦してください」と。
2.祈りの欠如は霊的生活の無力さの原因である。それは我々の生活がまだおおかた肉の力のもとにあることの証拠である。祈りは脈搏なのだ。医師は脈搏を調べればその人の心臓の状態を言い当てることができる。一般のクリスチャンにとっても、また牧師にとっても、祈らないという罪は、心に与えられた神のいのちが病んで衰弱して死ぬばかりになっていることの証拠なのである。
教会がその弱さのゆえに教会に与えられた召命を成就できないこと、教会員に対して影響力を行使できず、そのため彼らを世の力から解放して神のために聖別された生涯に入れることができなくなっていることについては、多くのことが言われているし、多くの人々が不満を持っている。教会が何百万人もの救われていない人々に対して無関心であることも、よく言われている。その人々にキリストの愛と救いを知らしめるようにとキリストが教会にその人々をゆだねているにもかかわらずである。
世界中に何千というクリスチャンの奉仕者がいるのにたいした影響をもっていないのは何故であろうか。その理由は、彼らの奉仕のために祈らないからということ以外にはない。研究と職務には彼らは十分に熱心であり、また人々に対する説教と奨励も十分に信仰深いものであるが、それを聖霊の確実な約束と上よりの力とに結び付けるたゆみない祈りが彼らには欠けている。祈らないという罪を除いて、力ある霊的生活を奪い取るものはほかにないのである。
3.牧師が祈らないことは、教会に計り知れない損失をもたらす。祈りの生活を生きることができるように信者たちを訓練することが牧師の役目なのだ。しかし牧師自身が神と語る方法を知らず、日々聖霊から自分自身と自分の働きとのために豊かな天の恵みを受ける方法を知らないとすれば、いったい彼はどうやってその訓練ができるのだろうか。牧師は会衆を自分自身以上の高みへと導くことはできない。彼は自分が歩いてもいない道を人に熱意を持って示すことはできないし、またその中を自分で生きているわけでもない仕事を説明することもできない。
祈りによる神との幸いな交わりをほとんど知らないクリスチャンが何と多いことであろうか。祈りの祝福を少しは知っていて、もっと知りたいと願っている人々は多くある。しかし彼らがその祝福を得られるまでとどまるようにと礼拝説教の中で継続的に奨励されることはない。その理由は単純である。それはただ、牧師が力ある祈りの秘訣をほとんど知らないからであり、彼の義務の中に占める場所を祈りに与えないからである。祈りこそ、神の意志においても牧師生活の中心においても、必要欠くべからざるものであるにもかかわらずである。牧師たちが正しい光の下に祈りの欠如という罪を示され、そこから解放されるなら、教会の会衆にはどれほどの変化が現れることであろうか。
4.すべての人々に福音を宣べ伝えるようにとキリストは我々に命じられた。しかしそれは、祈りの欠如という罪を克服し捨て去るまでは不可能である。
宣教師たちにとって最も必要なことは、魂の救いのために背後で祈る祈りの闘いのために主に身を献げる男女を獲得することであると思う人は多い。また神は、神につく人々が日夜神に向かって叫ぶことを望み、そのために備えられてさえいるなら、世界を救い祝福したいと思っておられ、またそうすることがおできになると言われてきた。真に必要なことは、説教でも問安でも教会の奉仕でもなく、上よりの力を着せられるまで祈りによって神と語ることなのである。しかしまず牧師が完全に変えられるのでなければ、会衆がどうしてそのことを理解し始めるに至ることができようか。
どうか神の国についての思想と著作と待望とがこぞって我々に働きかけて、我々に祈らないことの罪を認めさせるように。神よ、我々からこの罪を根こそぎに取り去ってください。キリスト・イエスの血の力によって我々をこの罪から解放してください。神よ、一人ひとりの御言葉の奉仕者に語りかけ、彼らが真っ先にこの悪の根から解放されるならばどれほどの栄光の中に立つことができるかを見させてください。それによって彼らが勇気と歓喜を抱いて、信仰と忍耐のうちにあなたと共に歩み続けることができることを教えてください。
祈らないという罪。どうか主がこの罪を我々の心の中の最も重い重荷としてくださり、イエスの名と力によってこれが我々から遠く取り除かれるまでは休むことがないようにしてくださるように。主は我々がそれをできるようにしてくださるであろう。
1898年、ニューヨークの或る教区に属する二人の会員が、霊的生活の深まりを求めてノースフィールドの集会に参加した。彼らが仕事に戻った時には、新しい熱情の火が彼らの内にあった。彼らはその教区全体にリバイバルを起したいという思いにとらわれていたのである。彼らが開いた集会で、司会者は人々に彼らの祈りの生活について問うことになっていた。彼は言った、「兄弟たち、今日は神の前に、またお互いの前に告白しましょう。自分の仕事について毎日三十分間、神と共に過ごしている人はみな手を挙げてください」。一人の手が挙がった。司会者は続けて言った、「もし一日に十五分間でも神と共に過ごす人があればみな手を挙げてください」。さらに手が挙がったが、全体の半分にも満たなかった。
そこで彼は言った、「祈りはキリストの教会で働く力です。しかし働き手の半分はそれをほとんど使ってもいないのでしょうか。一日に五分間、一人で神との交わりの時を持っている人は手を挙げてください」。全員の手が挙がった。しかし後で一人の人が来て、自分はほんとうに毎日五分間祈っているかどうか確信がないと告白した。彼は言った、「恐ろしいことです。こんなにわずかな時間しか神と共に過ごしていないとは」。
ある長老たちの祈禱会で一人の兄弟が質問に立った。「それではこれほどまでに祈りが欠如している原因は何でしょうか。不信仰ではありませんか?」
答えがあった。「それはその通りだが、では不信仰の原因は何であろうか」。主の弟子たちが、彼らが悪霊を追い出すことができなかったのはなぜかをイエスに尋ねた時、イエスはそれは彼らの不信仰のゆえであると答えられた。そして続けて、この類いのものは祈りと断食によらなければ追い出すことができないと言われた(マタイ17:19-21)。
断食とは自己否定、すなわち世的なものを去ることである。祈りとは天の国を握ることである。生活が世的なものを去って天国を握るものとなっていなければ、信仰は力を発揮しない。我々が嘆いているところの祈りの欠如は、その起原を、聖霊に従わずに肉に従って生きる生活の中に有していることがわかる。
この祈禱会の後で一人の兄弟がわたしに言った、「それは全くの困難です。私共は聖霊に従って祈りたいと思い、同時にまた肉に従って歩みたいと思っている。これは不可能です」。
もし病気の人がいて、癒やされたいと願っているなら、病気の真の原因を見出すことが最も重要である。いつでもこれが回復への第一歩となる。もし真の原因を特定せず、二次的な原因、というよりも事実ではない想像上の原因に対処することに注力していれば、回復はとうてい望めない。同じように、本来我々にとって祝福の時であるはずの毎日の祈りの時に祈りが無力となり失われてしまうとすれば、その悲しむべき状態に至る真の原因を究明することが我々にとって何よりも重大なことである。この悪の根がどこにあるのか、完全に見極めるまで探し求めようではないか。
聖書は、クリスチャンが置かれうる状態には二つしかないと教えている。一つは聖霊に従う歩みであり、もう一つは肉に従う歩みである。この二つの力は調停することのできない対立のうちにある。そのため大多数のクリスチャンの場合、聖霊によって回心して神の生命を与えられたことを神に感謝しているとしても、なお通常の日常生活では聖霊に従わず肉に従って生きているということになってしまう。
パウロはガラテヤの人々に、『あなたがたは、どこまで愚かなのですか。霊で始めたのに、今、肉で仕上げようとするのですか』と書いている(ガラテヤ3:3)。彼らの奉仕は肉による見かけだけの行為にとどまっている。肉が神への奉仕にかかわることが容認されているならば、必ずそれは明白な罪につながるということを、彼らは理解していなかった。
パウロは肉の働きとして、姦淫や殺人や深酒のような深刻な罪だけを問題にしているのではなく、日常生活におけるありふれた罪、例えば怒りや不和や敵対(反目)についても問題にしている。そして彼は次のような奨励を与える。『霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。…… 私たちは霊によって生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか』(ガラテヤ5:16, 25)。聖霊はただ新しい生活の創始者としてだけでなく、また我々のすべての歩みの導き手、指令者として崇められなければならない。そうでないと我々は使徒が「肉的」と呼ぶ状態に陥ってしまうのだ。
クリスチャンの多くはこの問題をあまり理解していない。彼らは自分の内にひそみ無意識に従っている肉的本性の、罪深さと神を無視する傾向について、それを現実として知る知識を持っていない。『神は …… 肉において』── キリストの十字架において──『罪を処罰されたのです』(ローマ8:3)。『キリスト・イエスに属する者は、肉を情欲と欲望と共に十字架につけたのです』(ガラテヤ5:24)。肉はそれを善くすることもきよくすることもできないのである。『肉の思いは神に敵対し、神の律法に従わないからです。従いえないのです』(ローマ8:7)。肉は、キリストがそれを取り扱ったような仕方、すなわち十字架にまで持っていくこと以外では、どうにもならないのである。『古い人がキリストと共に十字架につけられた』(ローマ6:6)のであるから、我々もまた信仰によって古き人を十字架につけ、日々それを憎むべきものと見なし、扱うのである。詛われた十字架上こそそれに相応しい場所なのである。
多くのクリスチャンが肉の深刻な、計り知れない罪深さについて思いをめぐらし熱心に語ることをほとんどしないのは、考えるだに悲しむべきことである。『私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています』(ローマ7:18)。このことを確信している人なら、次のように叫ぶはずである。『私の五体には異なる法則があって、私を罪の法則のとりこにしているのです。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるのでしょうか』(同7:23-24)。ここからさらに進んで次のように言う者は幸いである。『私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。…… キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則から私を解放したからです』(同7:25, 8:2)。
我々に恵みを与える神の呼びかけを我々は聞き分けなければならない。肉は十字架上にあるべきであり、聖霊が心の中にあって生活を支配しなければならない。このような霊的生活はほとんど理解されていないし求められてもいないが、これは文字通り神が約束されたことであって、このために神に無条件で自分自身を明け渡す者には必ず実現するのである。
祈りのない生活をもたらす悪の深い根源を、我々はここに見ることができる。肉は祈りの言葉を上手に言うことができる。そして祈ることができるのだから肉は宗教的であると主張し、こうして良心を満足させる。しかし肉は、神を親しく知る知識を求めて戦う祈り、神との交わりを喜ぶ祈り、神の力を手にし続けるような祈りを望んではいないし、そのような祈りをする力も持たない。したがって結局、肉は否定されて十字架につけられなければならないという結論に至る。
なお肉的であるクリスチャンは、神に従う性質も力も持っていない。そういう人は単に習慣的な祈りをするだけで満足している。いつか彼の眼が開かれて、神に背を向けさせようとする肉こそが力ある祈りを彼にさせないようにする最大の敵であることを理解し始めるまでは、真の祈りの栄光と祝福はその人の目から隠されているのである。
かつてある集会でわたしは祈りを主題に語り、その中で祈りの欠如の原因が肉という敵であることを口を極めて強調した。説教の後、わたしの語り口はあまりに強烈だったのではないかと妻から言われた。妻は祈りへの情熱はあまり感じないものの、自分の心はいつでも真実に神を求めていると信じていた。わたしは彼女に聖書が肉について語っている箇所を示し、聖霊を受けることを妨げるものは何であれ、肉のひそかな働きにほかならないと述べた。アダムは神と交流するために創造され、堕落するまではそれを楽しみにしていた。ところが堕落するや否や、彼の心深くに神を忌避する思いが臨み、神から去ったのである。この矯正不能な忌避感情こそ、生まれ変わっていない人間本性の性質であって、我々が祈りによる神との交わりに身を委ねることに反発させる主要な原因なのである。次の日、妻はわたしに神が彼女の眼を開かれたことを告げた。肉の敵意と反抗心とが彼女の祈りの生活を無力なものにしていた隠れた障害物であったことを告白したのである。
兄弟姉妹、我々が嘆いている祈りの欠如の説明を、周囲のものに求めてはならない。聖書がそれはそこにあるはずだと語っているところに求めなさい。すなわち聖である神に対する心の隠された忌避感情にである。
聖霊の導き──それは確かに神の意志であり神の恵みのわざであるが──その聖霊の導きに完全に明け渡していない間は、クリスチャンはそれと知らずに肉の力のもとに生きているのである。この肉の生活は、多くの異なる面に表れる。思いがけない時にあなたに生じる短気な精神や怒りの感情に、それは表れる。あなたがしばしば自分を責めているところの愛の欠如に、それは表れる。あなたの良心がたびたび呵責を感じている飲み食いに対する嗜好に、それは表れる。自分の意志を通そうとすること、自分の名誉を求めようとすることに、それは表れる。自分の知恵と力を自負することに、それは表れる。そしてあなたがときおり神の前に恥じるところの世の楽しみへの愛着に、それは表れる。これはみな生活が肉に従っているということなのである。『相変わらずあなたがたは肉の人だからです』(第一コリント3:3)。この一文はしばしばあなたを狼狽させているであろう。あなたは神との平和も喜びも完全な形では有していないからである。
時間を取って次の問いに答えを与えることをあなたがたに強く勧めたい。自分の祈りの欠如と事態を変える力の欠如との原因を、わたしはここに既に発見したのではなかろうか。わたしは聖霊によって生きており、生まれ変わらされたのであるが、霊によって歩んではおらず、わたしの全体を肉が蔽っているように思われる。肉的生活には、霊と力によって祈ることは絶対に不可能なのである。神よ、わたしを許したまえ。肉的生活こそ明らかに、私の悲惨で恥ずべき祈りの欠如の原因なのだ。
集会では「戦略的位置」という言葉が語られた。この言葉は、神の国と闇の勢力との全面的な戦いに関係してしばしば用いられる表現である。
司令官が敵を攻撃するための場所を選ぶ時には、戦いにおいて最も重要と考えるいくつかの場所に最も注意を払うはずである。ワーテルローの戦場においてはウェリントンはある一軒の農家が戦況の鍵となる位置にあることをすぐに見抜いた。その場所を奪取するという目標のために彼は軍勢を惜しまなかった。勝利はそこにかかっていたからである。信仰者と闇の勢力との戦いにおいても同じことである。祈りの場こそ、決定的な勝利を得る場所なのである。
敵はクリスチャンを、そして何より牧師を、祈らないように導くために力の限りを尽す。敵は知っているのだ、どれほど優れた説教が語られていても、どれほど印象的な礼拝が行なわれていても、どれほど真摯に牧師が問安に励んでも、祈りが閑却されていれば彼とその王国に損害をもたらすものは何もないのだ。教会が熱烈な祈りの力の中に閉じこもり、主の兵士たちがひざまずいて上よりの力を受けたならば、闇の勢力はその時に毀たれて魂は救われるであろう。教会でも、宣教地でも、牧師とその会衆においても、すべては祈りの力の真摯な実践にかかっているのである。
その集会の週の間に、わたしは『キリスト者』という書物の中に次のようなくだりを見出した。
「二人の人物がある地点をめぐって争っている。一人の名はクリスチャンと言い、もう一人はアポリオンである。アポリオンは、クリスチャンがある武器を持っていて、そのためにクリスチャンが勝利を手にするかも知れないことに気づく。彼らは激しい戦いに臨む。そしてアポリオンは敵からその武器を奪って破壊することに決める。戦いの本来の目的はさしあたって重要ではなくなる。いま重要な問題は、どちらがその勝利を決定的にする武器を手にするかということに移る。その武器を掌握することこそ何よりも重要なのだ。」
サタンと信仰者との戦いもこの通りである。神の子は祈りによってすべてに勝利することができる。サタンがこの祈りという武器をクリスチャンから奪い取ることに、あるいはそれを使うことからクリスチャンの目を蔽うことに、全力を挙げるのは何の不思議もないのである。
サタンはどのようにして祈りを隠すのであろうか。それは、放漫な思考やあらゆる楽しみを持ち込むことによって、または不信仰と絶望を呼び起すことによって、祈りを後回しにするように、あるいは途中でやめるようにと誘惑することによってなのである。こうしたあらゆる誘惑に抗して、祈りという武器を握り使用するように努める祈りの勇者は幸いである。ゲツセマネにおける我々の主を見なさい。敵の攻撃が激しくなればなるほど、彼はますます熱心に祈り、勝利を得るまで祈りのうちにとどまったのである。パウロは、装備のほかの部分についてすべて説明した後で、『霊によって祈り、願い求めよ』(エペソ6:18)と付け加えている。祈りなくしては、救いの兜も、信仰の楯も、聖霊の剣すなわち神の言葉も、力を持たないのである。すべては祈りにかかっている。我らがこのことを固く信じ、このことに生きることができるように、神よ、我らを教えたまえ。
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