第十三章  ジョージ・ミュラーとハドソン・テイラー



 神はすべての時代のクリスチャンに対して、使徒パウロを祈りの生活の見本として与えられた。それと同じように、神はご自分の教会に対して、神がいつも変わらず不思議なように祈りを聞いておられること、その言葉どおりに聞いておられることの証拠として、ジョージ・ミュラー1を与えられた。神は彼の生涯を通じてその孤児院の経営のために百二十五万ドル以上もの資金を与えられたが、それだけにとどまらず、ミュラー氏自身が信じるところを語っているところによれば、主は三万人以上の魂を、その祈りに対する答えとして彼に委ねられた。それには孤児たちばかりではなく、多くの他の人々が含まれる。その人々のために彼は、その人たちが必ず救われると信じて、毎日(ときには五十年にもわたって)信仰をもって祈り続けたのであった。何を根拠にそのように堅く信じられるのかと聞かれた時、彼は次のように答えている。

 「わたしには、いつもそれにかなうように努めている五つの規程がある。そしてわたしがそれを満たす時に、わたしの祈りが答えられるという確信を持つのである。

  1. わたしは少しの疑いをも持たない。なぜなら彼らが救われることは主の意志であるとわたしは確信するからである。『神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます』(第一テモテ2:4)とあるとおりである。『何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です』(第一ヨハネ5:14)。
  2. わたしは決して、彼らの救いを自分の名前によって願い求めることをしない。貴きわが主イエスの幸いなる御名によって、イエスの功績のみによって祈る(ヨハネ1:14)。
  3. わたしはいつでも、神がわたしの祈りを聞こうとしておられることを堅く信じる。『だから、言っておく。祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる』(マルコ11:24)。
  4. 知る限りいかなる罪にもわたしは与していないこと。『私が心に悪事を見ているなら、わが主はお聞きにならないでしょう』(詩66:18)とあるからである。
  5. わたしは或る人のために五十二年以上も信じて祈り続けているが、答えが与えられるまではなおそれを継続するであろう。『まして神は、昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行なわずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか』(ルカ18:7)。」

 これらのことを心に留めて、これらの規則に従って祈りを実践しなさい。自分の祈りが聞かれていると信仰によって知るまで、単にあなたの願望の表明としてだけでなく、神との交わりのために祈りなさい。ジョージ・ミュラーが歩んだ道は、恵みの御座に至る新しい生ける道(ヘブル10:19 (聖書原文では19-20節))なのであって、我々すべてに開かれているのである。


ハドソン・テイラー

 ハドソン・テイラー2は若い時、主に対して無条件に献身した。その時、神は彼を中国に遣わそうとしておられるという強い確信が彼を捕えた。彼はジョージ・ミュラーについて読み、彼とその孤児たちのための支援を求める彼の祈りに神が如何に答えられたかを知った。ハドソンは、そのように主に信頼することを自分にも教えてくださるようにと主に願い求めた。彼は、もしこのような信仰をもって中国に行くのだとすれば、まずは英国において信仰によって生きることを始めなければならないと感じた。それを彼にさせてくださるようにと彼は神に求めた。彼は、医師が処方箋を書くのを手伝う職を得た。彼は神に、彼に自分の給与を要求することをさせずに、定められた時に給与が支払われるように神がその医師の心を動かすのを待つようにさせてくださることを願った。その医師は親切な男であったが、給与の支払いはとても不規則であった。このことはテイラーに、祈りにおける多大な労苦と戦いを強いた。なぜなら彼は、ジョージ・ミュラーがそうであったように、『誰に対しても借りがあってはなりません』(ローマ13:8)という聖書の言葉は文字通りに受け取られるべきであると信じていて、したがって決して借金をしてはならないと思っていたからである。

 ハドソン・テイラーは、神に人の心を動していただくという、偉大な教訓を得た。これは深い意味を持つ思想であって、後に中国での働きにおいて彼にとって言い知れない大きな祝福となったものである。中国の人々を回心に導くために、彼はこの思想に従った。また、その働きを金銭的に支援するようにクリスチャンたちを覚醒させるために、また協力的な宣教師たちを見いだすために、この思想に従った。その宣教師たちも、まず祈りによって自分たちの願いを神に知って頂き、そして神が人々を動かされて、神が実現しようと望んでおられることをなすように導かれるままにゆだねるという、この信仰の行動規範を固守する者であるべきであった。

 彼は中国で数年を過ごした後、神が二十四人の宣教師を、すなわち中国の十一の省とモンゴルとに二名ずつの宣教師を使わしてくださるようにと祈った。これらのどの地域にも何百万の魂があるのに、宣教師が一人もいなかったからである。神はそのようにされたが、宣教師たちを支援する団体はなかった。彼は彼自身の必要な支援を得るために神に信頼することを学んでいたが、二十四人の中に十分な信仰のない者がいたとしてもその世話をする責任を自分で負う自信はなかった。このことは彼に深刻な葛藤をもたらし、そのために彼はひどく体調を崩してしまったが、しかしとうとう彼は、彼自身を容易に助けてくださる神はその二十四人をも同じように容易に助けることがおできになるということを知った。彼はこのことを喜ばしい信仰をもって受け入れた。神は彼を多くの深刻な信仰の試練を通して、神に全く信頼するように導かれた。二十四人の宣教師はやがて増加して一千人もの宣教師となり、その一人ひとりが神の支援を全く信頼していた。この法則を言い表しそれに服従した人としてのハドソン・テイラーからどれほど多くのことを学んできたか、それを他の宣教団体も認めている。信仰は、神が人々を動かして、神の子たちが祈りの中で神に求めてきたことを実現してくださると、信頼することができるのである。

 ハワード・テイラー夫妻によって書かれ、中国内地伝道会から出版されている『ハドソン・テイラーの若き日々』という本を読みなさい。内なる部屋と宣教のわざにおいて神と親しく共に歩むことに関する霊的思想と経験の宝がその本には見いだされるであろう。


内なる部屋からの光

 『あなたが祈るときには、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。』(マタイ6:6

 我々の主は、人に見てもらおうとして祈る偽善者の祈りについて語られ、また言葉数が多ければ聞き入れられると思っている異邦人の祈りについて語られた。彼らは、祈りというものはそれを見て聞いている人格ある神に向けてなされるのでなければ意味がないということを分かっていないのである。マタイ6:6において我々の主は、クリスチャンが内なる部屋の中で受けることができる計り知れない祝福についての驚くべき教えを語っている。この教えを正しく理解したいと思うなら、内なる部屋が発する光に注意を向ける必要がある。内なる部屋の中で神とその言葉に親しく接するために十分に時間をかけるなら、我々は以下のことを十分に見て知ることができるであろう。


1.神の驚くべき愛

 神について思いなさい。神の偉大さ、神の聖、神の言語を絶する栄光について思いなさい。それから神がその子らを招いている計り知れない特権について考えなさい。それは、神の子らの一人ひとりが、どれほど罪深くまたは弱くあっても、一日のいつにでも来て、好きなだけ長いあいだ神と語り合うことができるという特権である。その人が自分の内なる部屋に入るなら、神はそこで待っておられる。そしてその人と交わりを持つために、その人が必要としている喜びと力を与えるために、そして神がその人とともにいてすべてのことにおいてその人に責任を持ってくださるという生きた保証をその人の心に与えるために、備えておられるのである。そのうえ神は、その人が隠れた所で求めた物事によってその人の外的な生活と働きとを豊かにしてくださると約束される。我々は喜びの声を上げるべきではないだろうか。何という光栄、何という救い、あらゆる必要を豊かに満たす何という恵みであろうか。

 我々は大きな困窮の中に置かれていることもあるし、深い罪の中に落ちてしまっていることもあるし、日常生活の中で一時的な祝福や心の支えを必要としていることもあろう。我々はまた自分のために祈りたいと思うこともあるし、自分のごく身近な人のためにだけ祈りたいと思うこともある。我々とともにある会衆や教会のために祈りたいと思うかも知れないし、あるいは全世界のために執り成す者となりたいと思うこともあろう。内なる祈りの部屋のために与えられている約束は、これらすべての場合に当てはまる。『隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる』。

 神の子にとって、神がそこにいると約束してくださっている内なる部屋ほどに価値ある場所は地球上に存在しない。我々はこのことによく思いをめぐらし、実感しなければならない。内なる部屋では我々は父と何の妨げもなくお会いすることができるのだからである。世の子供たちは肉親の父の愛を享受することができれば幸いであろうし、人は自分を助けて支援し続けてくれている愛する友に出会うことができるなら幸いであろうし、また国民はいつでも国王のもとに行くことができて好きなだけ長いあいだ王の所にとどまることができるなら幸いであろうけれども、これらのいずれも内なる部屋における神の約束にまさるものではない。内なる部屋ではあなたは望むだけあなたの神と長くまた親しく語り合うことができる。あなたは神の臨在と交わりとを当てにすることができるのだ。

 このような約束によって聖別されている内なる部屋という贈り物には、なんと素晴らしい神の愛が表れていることであろうか。生涯のあいだ毎日、このような素晴らしい贈り物を神に感謝しようではないか。この罪ある世界においては、言い表すことのできない祝福の内なる泉にまさって我々の必要に応えることができるものを、神は造りたもうことができなかった。


2.人間の深い罪

 このような招きに対して神の子たちはみな喜びを味わっていることであろうと我々は思ったかも知れないが、しかし実際の応答はどうであったろうか。自分が信者だと思っている人々は概して内なる部屋の祈りをないがしろにしているという声が、地の至る所から聞こえてくる。多くの人々はそれを使うことをせず、教会に行ってキリストを告白しているとしても、神との個人的な交わりについてはほとんど知る所がない。多くの人々にとって内なる部屋の祈りは簡単に片付けるだけのものであって、単なる習慣として、あるいは良心の咎めを抑えるためにするものであり、したがって彼らはその喜びや祝福について語ることができない。さらに悲しむべきこととして、その祝福をある程度知っている人々であっても、父との信仰的で規則的で幸いな交わりのうちに一日を過ごすことが彼らにとって日々のパンと同じくらい必要なものであることをほとんど知らないと告白している。

 内なる部屋をこれほど無力にしているものは何であろうか。人間が天の父とひとりとどまることよりも、この世と世のつきあいの方が魅力的だと感じるのは、その罪の深さのゆえではないだろうか。人間の堕落した本性に由来する神に対する嫌悪のゆえではないだろうか。クリスチャンたちが彼らの内にある『肉の思いが神に敵対している』(ローマ8:7)と告げている神のことばを信じないゆえではないだろうか。そして彼らがあまりにも肉に従って歩んでいるがゆえに、聖霊は彼らを祈りにおいて力ある者とすることができないのではないであろうか。クリスチャンたちは祈りという武器をサタンに奪われることを自分に許してしまっているために、サタンに勝つことができなくなっているのではないだろうか。人間の罪深さよ。我々に内なる部屋を与えたもうた計り知れない愛を侮辱することほど、それの明白な証明となるものはない。

 さらに悲しむべきなのは、キリストの伝道者たる人たちさえ、自分がほとんど祈っていないことを自覚していることである。聖書は彼らの力は祈りのうちにしかないことを彼らに語っている。彼らがその働きのために上からの力を着せられるのは、ただ祈りを通してのみであり、また祈るならば確実にそうされるのである。しかし実際にはこの世と肉の力が彼らをとりこにしているように見える。彼らは自分の働きのために時間を割き熱意を表すが、最も肝心なことを無視している。彼らの働きを実りあるものとするために不可欠な聖霊の賜物を獲得する祈りをしようとする気持ちと力が欠けているのである。どうか神が、内なる部屋の光によって、我々の本性の内に潜む深い罪の重さを理解する恵みを与えてくださるように。


3.キリスト・イエスの栄光の恵み

 それでは変化の見込みはないのであろうか。いつもこのようであるほかないのか、それとも改善の手段があるのだろうか。神に感謝せよ。希望はある。

 神が内なる部屋についての使信を我々に伝えるように託したのは、ほかならぬ我らの主イエス・キリストであって、我々を罪から救う方なのである。彼は我々を罪から解放することが可能であり、そうしようと望んでおられ、実際に解放される。彼は我々を他のすべての罪から贖うことを身に負われたのであるから、祈りの欠如という罪だけを我々が自分の力で対処するままにしておかれたりはしない。いな、この罪のためにも我々は主にすがって叫ぶことができるのだ。『主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります』(ルカ5:12)、『信じます。信仰のない私をお助けください』(マルコ9:24)と。

 どうすればこの救いを経験できるか、あなたは知りたいだろうか。罪人つみびとがキリストに来るまでに必ず通らなければならない、よく知られている道のほかに、方法はない。内なる部屋を無視し冒瀆するという罪を、キリストの前に、子供のような素直なしかたで認め、告白することから始めなさい。深い恥と悲しみを持ってキリストの前にへりくだりなさい。あなたは自分の力で正しく祈ることができるかのように思う自分の心に欺かれてきたことを彼に告げなさい。肉の弱さと世の力と自分のうぬぼれとによって迷わされてきたこと、自分にはそれ以上のことをする力はないことを、主に告げなさい。これを誠実になしなさい。あなたは自分の決心と努力によっては物事を正すことはできないのである。

 あなたの罪と弱さを持ったまま内なる部屋に来なさい。そして、主イエスの恵みが必ず、子供が父親と交わるように、あなたが父なる神と交わることができるようにしてくださることを、神に感謝することを始めなさい。これまで感謝したことがなかったようなしかたで感謝することから始めなさい。あなたの罪と悩みのすべてを改めて主イエスに引き渡しなさい。またあなたの生活と意志のすべてを明け渡しなさい。そうすればイエスはあなたをきよめ、領有し、ご自身のものとしてあなたを統治してくださるであろう。

 たとえあなたの心が冷え切って死んだようになっていても、キリストは全能にして誠実な救い主であるという信仰のいとなみを続けなさい。救いがやってくることをあなたは確信できるようになる。そのように期待しなさい。そうすればあなたは内なる部屋が主イエスの輝かしい恵みが顕れる場であることを理解し始めるであろう。この恵みは、我々が自分ではなし得ないこと、すなわち神との交わりを保ち、神と共なる歩みのために我々を整える願いと力とを授けられる経験をすることを、我々に可能ならしめるのである。


  1. ジョージ・ミュラー(1805-1898)は偉大な信仰の人として知られている。彼は牧師であり伝道者であるとともに、孤児院を経営していた。彼はそのために人々から金銭や支援を求めることをせず、ただ神にのみその必要と心配事とを訴えた。彼については、その自伝を読むといっそう深く学ぶことができる。 → 本文に戻る
  2. J. ハドソン・テイラー(1832-1905)は、信仰に生きた宣教師であって、中国に派遣された。彼の生涯と祈りと働きは中国内地伝道会(China Inland Mission)の設立に実を結び、イエス・キリストに何千人もの回心者をもたらした。彼の息子のハワード・テイラー博士とその妻によって書かれた『ハドソン・テイラーの霊の秘密』という本は彼の生涯を知るための好著である。 → 本文に戻る


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