第 三 章  祈りの欠如から解放されるには



 祈りの欠如に対して勝利を収める上で最大のつまずきの石は、この罪から解放されるという祝福は決して来ないのではないかというひそかな思いである。そのために我々は努力を尽しては失敗を重ねてきたからである。我々の過去の習慣、肉の力、周囲にあるものとその魅力は、我々にとってあまりにも強かった。我々には達成できないと心が確信していることを試みることに何の意味があるのか。生活全体が変わらなければならないが、それはあまりにも大きな困難なことである。

 「変化は可能であるか」と問われるなら、我々の失望した心は「残念ながらそれはわたしには全く不可能である」と答える。このような答えはなぜ出て来るのか。それは、あなたが祈りへの招きをモーセの声、律法の命令と理解しているからである。モーセとその律法は誰にもそれに従う力を与えたことがないのだ。

 祈りのない生活からあなたが解放されることは可能であって、それは現実になると信じる勇気を与えられることを、あなたはほんとうに願っているだろうか。そうならばあなたは次の偉大な教訓を学ばなければならない。それは、このような解放はキリスト・イエスによる贖罪に含まれていること、そしてそれは神ご自身がキリスト・イエスを通してあなたに与えようとしておられる新約の祝福の一つなのだということである。このことを理解し始めるなら、『絶えず祈りなさい』(第一テサロニケ5:17)という命令はあなたにとって新しい意味を帯びてくる。あなたの心に与えられて絶えず「アバ、父よ」と叫び続けている聖霊が、やがてあなたに真の祈りの生活ができるようにしてくださるという希望が、あなたの心に生まれ始める。そしてあなたに悔い改めをせまる声が、失望した心にではなく希望の喜びの中に、聞こえてくるであろう。

 多くの人々は祈りの欠如を告白し、これからは違った生き方をしようと心に決めて、悲しみのうちに祈りの場に戻ってきた。しかし祝福は来なかった。彼らには信じ続けるだけの強さはなく、悔い改めへの招きにも効果がなかった。なぜなら彼等の眼は主イエスに注がれていなかったからである。彼らがもし分かってさえいたなら言ったであろう、「主よ、わたしの心がどれほど冷たく暗いかをあなたはご存じです。祈らなければならないことは分かっていますが、それができないと感じています。わたしは祈りたいという切迫した気持ちも熱意もありません」と。

 主イエスはいつでもその優しい愛をもって彼らに目を留めて、「あなたは祈ることができない。あなたはすべてが冷たく暗いと感じている。それならなぜあなたはわたしの手に自分をゆだねないのか。祈りにおいてもいつでもわたしはあなたを助ける用意がある。そのことを信じなさい」と言っておられる。しかし彼らはそれを知らなかった。

 多くの人は、次のことを認めるようになるであろう。「わたしは自分の間違いが分かりました。この罪からも主イエスはわたしを救いきよめなければならないということを、わたしは認識していませんでした。わたしは主イエスが毎日わたしの祈りの場にともにおられるということを理解していませんでした。いかにわたしが自分自身を罪深く邪悪なものと感じていようとも、主イエスはその偉大な愛のうちにわたしを救い祝福しようと待っておられます。そのことをわたしは理解していませんでした。主イエスはわたしの祈りに答えてほかのあらゆる祝福をくださろうとしておられるのですから、何よりもまず、祈りの心という恵みを与えてくださるはずでした。そのことにわたしは気づいていませんでした。ほかのあらゆる恵みは主がくださることを期待していながら、ほかのすべてがそこにかかっているはずの祈りだけは自分の努力で獲得しなければならないと思っていたとは、何と愚かだったのでしょうか。主イエスご自身が内なる部屋におられてわたしを見ていてくださり、父に近づくにはどうすればよいかを私に教える責任を負ってくださっているということを、わたしは理解し始めています。このことを神に感謝します。わたしが幼子おさなごのような信任をもって神を待ち望み、神に栄光を帰することだけを、神は求めておられます」。

 兄弟たち、我々はこの真理を全く忘れていたのではなかろうか。祈りの生活に問題があるなら何もよいものが得られないとすれば、問題のある霊的生活からはなおさらそれを期待できない。我々の霊的生活に問題があるなら、我々がもっとよく祈れるように試みるのは無駄である。それは単に不可能なのだ。何よりも必要なことは、誰でもキリストにある者は新しく造られたものであるという事実を我々が経験することである。『古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです』(第二コリント5:17)。イエス・キリストの内にあるとはどういうことかを理解し経験する者にはこれが文字通りの真実となる。

 我々の主イエスとの関係全体が新しいものでなければならない。わたしはイエスの無限の愛を信じなければならない。この愛は、各瞬間ごとにわたしとつながっていること、わたしをイエスとの交流の喜びのうちにとどめることを、ほんとうに願っているのである。わたしは主が神としての力を持っていることを信じなければならない。その力は既に罪を征服したので、わたしを罪から守ることがほんとうにできるのである。主のからだの一部である我々に、祈りによって神と結びつく喜びと力とを聖霊を通して吹き込んでくださる偉大な仲保者である主を、我々は信じなければならない。わたしの祈りの生活はキリストとその愛の支配下に完全に置かれなければならない。その時に祈りは初めてそれが真実にそうであるところのもの、すなわち霊的生命の自然で喜びに満ちた息づかいとなり、天国の空気を呼吸する祈りとなるであろう。

 このような信仰が我々を捉えると共に、神を喜ばせる祈りの生活への招きは歓待の声であることにあなたは気づかないであろうか。「祈らないことの罪を悔い改めよ」という命令はもう、無力感からのため息や肉の抵抗を呼び起すことはなくなる。父なる神の呼び声を聞くことになるであろう。神は我々の前に扉を広く開いて、神ご自身との幸いな交わりに我々を受け入れたもうのである。祈ることを助けたまえと聖霊に祈るのは、我々が自分自身の力で祈りを務めるのが過大な負担であるがゆえに祈るのではもはやなくなる。ただ全き弱さのうちに主イエスの足もとに倒れ伏すならば、勝利が彼の御顔みかおから流れ出す力と愛とを通してやって来ることがわかるであろう。

 「この状態は継続するのであろうか」という疑問が心に浮かぶであろうか。また以前はたびたび試みては失望していたことを思い出して不安に襲われるであろうか。信仰は、我々自身の意志や行為を思うことによってではなく、キリストの変わらない誠と愛との中に力を見出すのである。キリストはあなたを助けて、彼を待ち望む者は恥を受けることはないと改めて宣言されたのだ。

 恐れと逡巡がなお残っているであろうか。イエス・キリストによる神の憐れみとキリストの愛の無限の真実によってわたしはあなたに命じる。イエスの足もとに自分自身を投げ出しなさい。そこにこそ祈りの欠如という罪からの救いがあると、心全体でただ信じなさい。『私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます』(第一ヨハネ1:9)。すべての不義と、そしてすべての祈らないという罪からの完全な解放は、キリストの血と恵みのうちにある。御名がとわにめたたえられよ。

 我々がこれまでに祈りの欠如という罪からの解放について語ってきたことは、「どうすれば解放の経験を保つことができるか」という問いの答えにもなっている。罪からの贖いは一度に少しずつ与えられるようなものでもなければ、機に応じて時々それを取って使うために与えられるものでもない。贖いは主イエスの中に蓄えられている完全な恵みとして、日ごとに主との交わりの中で味わうようにと与えられているのである。この真理はよく納得して心にしっかりと結び付けることが何より必要であるから、わたしはもう一度語っておきたい。あなたを軽率さから守ってくれるもの、あなたが生ける力ある祈りを続けられるようにしてくれるものは、わが主イエスとの毎日の親密な交わり以外にはないのである。

 イエスは弟子たちに、『神を信じ、また私を信じなさい。私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。私を信じる者は、私が行う業を行うだろう。そればかりか、もっと大きなことを行うであろう』(ヨハネ14:1,11,12)と言われた。イエスは弟子たちに、彼らが旧約聖書から学んだ神の力と聖と愛に関するすべてはいまイエスに移されることになると教えようとした。弟子たちはただ書かれた書物を信じるのではなく、イエスを人格的に信じなければならなかった。弟子たちは、イエスが父におり父がイエスにおられるということを、イエスと父とが一つの命、一つの栄光であるという意味に信じなければならなかったのである。

 キリストについて彼らが知っていたことはみな神の中に見出すことができるであろう。このことをイエスは特に強調された。というのは、彼とその神としての栄光をこのように信じることによってのみ、弟子たちはイエスが行うわざを行うこと、そればかりかもっと大きなことを行うことが、可能になるのだからである。この信仰が、ちょうどイエスと父とが一つであるように彼らはイエスにおり、イエスも彼らにおられるという認識にまで彼らを導くのである。

 我々の生活の中に、特に我々の祈りの生活の中に、力をもって表れるのは、このような親密で霊的、個人的な、途切れることのない主イエスとのつながりなのである。神の持つ栄光の属性がみな我々の主イエス・キリストにもあるということに深く思いをめぐらし、それが意味するところを見極めようではないか。次に挙げるような神の属性をよく考えなさい。それはあなたを主イエスにより近しくさせるであろう。

 まず、神の遍在性である。神は世界に充ちておられ、どの瞬間にもどこにでもおられる。父がそうであるように、今や主イエスも遍在しておられる。とりわけ、彼が贖った一人ひとりとともにおられる。このことは、我々の信仰が学ばなければならない最大にして最重要な課程である。主の弟子たちの例を見るとこのことを明瞭に理解することができる。

 いつも主と一緒にいることができた弟子たちの明らかな特権とは何であったか。それは主イエスの臨在を、絶え間なく経験することができたということである。彼らがイエスの死という考えにあれほど悲しんだのはそのためである。主の臨在を奪われてしまうと思われたからである。主はもはや彼らと一緒にはいなくなってしまう。そうなると主イエスはどうやって彼らを慰めるのか。イエスは約束された、天から来られる聖霊があなたがたのうちに完全なわたしの生命と人格的臨在との感覚をもたらすであろう、そうすればわたしはもっとあなたがたに近くあり、わたしが地上にあった時には経験できなかったような強固な結び付きをあなたがたとの間に保つようになるだろうと。

 あまりそれを認識していない人が多いが、この偉大な約束は今や全信者のものなのである。イエス・キリスト、神的人格をもつ御方、十字架をも厭わない永遠の愛を持っておられる方が、我々一人ひとりと一日のどの一瞬にもつながっていて、我々がその交わりを感じ続けることを望んでおられる。新しく信者になるすべての人にこのことは説明されねばならない。彼はあなたを愛しているので、あなたが常に彼の近くにいて彼の愛をもっと親しく経験することを必要としている。祈りの生活、従う生活、聖別された生活にあずかることができない無力さを感じている人はみなこのことを学ばねばならない。このことこそ我々に、世に勝利して主のために魂を勝ち取るとりなしの力を与えるのである。

 次に、神の全能性である。神の力はいかに奇跡的であることか。我々はそれを創造に見る。旧約聖書に記された数々の不思議な救いに見る。キリストにおいてキリストを通して働かれる父なる神の不思議なみわざに見る。そして何よりも、死者の中からのキリストの甦りに見る。このような父を信じるのと同じように子なる神を信じるようにと、我々は招かれているのである。

 そう、主イエス、その愛をもって言い表せないほど我々に近くいます主は、できないことは何もない全能の方なのだ。我々の心や肉の中に我々に屈服しない何ものがあるとしても、主はそれに勝利することができ、実際に勝利されるであろう。全能のイエスは、神が聖書に約束されていることを何でも我々に与えることができ、新約の子として我々が受け継いだすべてのものを与えることができる。内なる部屋で主の前にひざまずく時、我々はこの神の永遠で変わることのない力に触れるのである。わたしがきょう自分を主イエスに献げるなら、主の永遠で全能の力がわたしをその保護のもとに置き、わたしのためにすべてをなしてくださるであろうという確信に安らうことができる。

 この全能のイエスの臨在を完全な現実として経験できるようになるまで、内なる部屋で時間を取りなさい。信仰を通して、全能で何でもできる主との変わることのない交わりを通して、この上ない祝福が我々のものとなる。

 次に、神の聖愛である。このことが意味するのは、神は真心から、そのすべての神的属性を我々の便宜のために差し出していること、神ご自身を我々に分与する用意があることである。キリストはその神の愛の啓示である。キリストは神の愛の子であり、神の愛の賜物であり、神の愛の力である。イエスはその死と血を流すこととにおいて神の愛の圧倒的な証明を与えるために十字架に赴かれた。その結果、その愛を信じないでいることは我々にとって不可能となった。このイエスこそ、内なる部屋において我々に出会い、彼との不変の交わりが我々の嗣業であってかつ彼を通して我々の経験となるであろうことを保証する神なのである。罪に勝利しそれを無きものとするためには何の犠牲をも厭わない神の聖愛が、キリストの内に我々に与えられて、我々をすべての罪から救うのである。

 兄弟よ、『神を信じ、また私を信じなさい』(ヨハネ14:1)という主の言葉を時間をかけて熟考しなさい。『私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいること』を信じなさい。それが祈りの生活の秘訣である。内なる部屋で時間を取ってひざまずき礼拝しなさい。主がご自身をあらわされ、あなたを所有し、あなたを連れて出て行くまで待ちなさい。そうすればあなたは人がどのようにして目に見えない主との交わりにとどまったまま生活し歩むことができるかを見るであろう。

 どうすれば祈りの欠如という罪からの解放を常に経験できるかを、あなたは知りたいと望んでいるだろうか。ここにその秘訣がある。神の子を信じ、内なる部屋で彼に時を捧げて、永遠にして全能の者、あなたを見守る永遠の愛であられる主が、いつまでも常にあなたのそば近くとどまられる方としてご自分をあらわされるまで待ちなさい。その時にあなたは、たった今まであなたが知らなかったであろうこと、神がご自分を愛する者たちに準備された、人の心に思い浮かびもしなかったこと(第一コリント2:9)を経験するようになるであろう。



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