我々がいまや祈りの欠如という罪から救われ、その解放を経験し続けるにはどうすればよいかを理解したのだとすれば、我々の自由の実とはどのようなものであろうか。それを正しく知る者は、熱意と忍耐とを新たにしてこの自由を追い求めるであろう。その人の生活と経験とが、その人が言いようもない価値あるものを持っていることを雄弁に物語るであろう。その人は勝利がもたらした祝福の生ける証人となる。
次の諸点を熟考しなさい。
1.神との永続的な関係がもたらす祝福
父に対する信任について思考を深めなさい。それが我々の以前の生活の特徴であった自分を咎め非難する思いに取って代わるまで、思い続けなさい。神の全能の恵みが我々の内に何事かを成し遂げたという深い自覚について考えなさい。我々が真実に神の形を帯びていること、神と共なる生活に備えられ、神に栄光を帰する用意ができているということがわかるまで、それを考え続けなさい。どうすれば我々は自分が無にも等しい者であることを確信しながらも、なお父とつながることによって王の真の子として生きることができるか、また主イエスが地上におられた時に持っていた父との聖なる交わりのうちにある主の性質の幾分かを身にあらわすことができるかを考えなさい。どうすれば内なる部屋における祈りの時が我々にとって一日の至福の時となることができるか、そして神が我々をご自身の計画の実現に一翼を担うように用いられ、周囲の世界に対して我々を祝福の泉となされることができるかを考えなさい。
2.与えられた召命を成し遂げるために我々が持つことのできる力
説教者はそのメッセージを聖霊の力を通して真実に神から受け取ること、そしてそれを同じ聖霊の力において会衆に語ることを学ぶであろう。またどこで愛と熱意とに満たされることができるか、それによって問安の奉仕の中で各信徒に愛に満ちた同情の心をもって接し助けることができるかを、その人は学ぶであろう。その人はパウロと共に次のように言うことができるであろう。『私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です』(ピリピ4:13)。『私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります』(ローマ8:37)。『私たちはキリストに代わって使者の務めを果しています。キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい』(第二コリント5:20)。これらはただの夢想でもなければ愚か者の空想でもない。神は我々にパウロを実例としてお与えになったのである。それは、賜物と召命において我々がどれほどパウロと異なっているとしても、内的経験において、パウロのためにと同様に我々のためにもすべてを可能にする、恩寵の完全性を我々が知るようになるためである。
3.我々の前に開かれている未来への展望
この展望とは、教会全体と世界全体の必要を重荷として心に抱くという、とりなす者の広大な働きに加わるべく聖別されることができるということである。パウロはクリスチャンたちを覚醒してあらゆる聖徒のために祈らせようとした。顔を見たことのない人々のためにどれほどの戦いをしてきたかを彼は我々に語っている。人格的存在としては彼は時間と場所の条件に拘束されていた。しかし霊においては、彼は救い主についてまだ聞いたことがない人々のためにキリストの名によって祝福を祈る力を持っていた。遠くであれ近くであれこの同じ地上にある人々とつながっている生活に加えて、彼はもう一つの生活、天的な生活を生きていた。それは、彼がいつも実践していた愛の生活であり、祈りの奇跡的な力の生活であった。もし我々が祈らないという罪から解放されて、天に届いてキリストの無敵の名によって祝福を呼び下す祈りを大胆に祈り始めさえするなら、神は我々が思い描くことすら難しい力を我々に賜わるのである。
何という展望であろうか。牧師と伝道師たちは神の恵みによって以前に倍する信仰と喜びをもって二倍の祈りをするように導かれている。このことは説教を、祈禱会を、他の人々との交わりを、どれほど大きく変えるであろうか。神との交わりとキリストにおける神の愛とによって聖別された内なる部屋には、どれほどの力が静かに増し加えられることであろうか。とりなしのわざに向かわせるために信者たちの上にどれほどの感化が及ぼされることであろうか。教会の中に、また未信者の間に、この感化がどれほど広く及ぶであろうか。ほかの教会の牧師たちにはどのような力が及ぶことであろうか。神が我々を全世界にわたる教会のためにどれほど用いることができるかを誰が知るであろうか。我々をこれまで無用なものとしていた祈りの欠如に対して、実際の完全な勝利を絶えず与えてくださるように神に祈ること、そのためにどんな犠牲も厭わないことは、実践するだけの価値あることではなかろうか。
なぜわたしはこんなことを書いているのか。なぜこの罪──我々を簡単に堕落させて神が我々のために用意されていた力を完全に奪い取ってしまう罪(ヘブル12:1参照)──に対する勝利の祝福をこれほどまでに高調するのであろうか。その答えを今語ることができる。わたしは、神の約束と力とについて我々がいかに低レベルの考えを持っているか、我々がどれほど容易に堕落して神の力を制約してしまい、我々が前から知っている以上のことを神はなすことができないと思い込んでしまうかを、知りすぎるほどよく知っている。内なる部屋に入って神を新しく知るようになることは、栄光によることなのである。
このことは、しかしながら最初に過ぎない。なお偉大で栄光あることは、神をすべてを満たしてくださる方として知ること、神を待ち望む者に神が実際に与えようと望んでおられる偉大なもの、新しいものを受けるために、神の聖霊が我々の心と精神を開いてくださるのを待ち望むことなのである。
神の目的は、信仰を励まして、神の子たちと僕たちとに、彼らが神の言葉を超えた偉大さと全能性とを理解してそれに信頼するように努めなければならないことを教えることである。その時には彼らは次の言葉を文字通りに、幼子のような心をもって手に取り信じることができるであろう。『私たちが願い、考えることすべてをはるかに超えてかなえることのできる方に、栄光が世々にわたってありますように』(エペソ3:20,21)。いかに偉大で栄光ある神を我々は持っているかを知っていたならばと思う。
「確実な勝利を自覚することは、軽率と高慢に至る罠とならないだろうか」。このように問う人があるかも知れない。その通りである。最高のもの、最善のものはいつでも誤用されやすい。どうすればこの罠を逃れられるだろうか。真実の祈り、真実に神との交わりに導く祈りを通して、この罠から守られる。倦むことのない祈りによって引き寄せられる神のきよさが、我々の罪に向かう傾向を覆うのである。神の全能性と偉大さとは我々に自分が無であることを感じさせる。我々の中には善きものは何もなく、キリストがへりくだっておられたように我々の信仰がへりくだる信仰となる時に、そしてキリストが父におられるように我々も真にキリストにあって生きるものとなる時にのみ、我々は神と出会うことができる。イエス・キリストにあって神と交わることはこのような経験へと我々を至らしめるのである。
祈りとは単に神の前に出て何かを求めるということではない。祈りとは何よりもまず神との交わりであって、神のきよさと愛の支配下に入れられることである。その時に神は我々を所有して、キリストの賎しさをもって我々の存在全体のしるしとなす。このキリストの賎しさこそ、まことの礼拝の秘訣なのである。
そう、キリスト・イエスにおいて我々は神の前に出る。キリストと共に死に、世と肉に対して完全に死んだ者として、またキリストが内に生きていて、『キリストが私の内に生きておられるのです』(ガラテヤ2:20)とあかしできるようにされた者として、神の前に出るのである。我々を祈りの欠如から解放するために主イエスが我々の内になしてくださる働きについて我々がいま話したことは、祈りの生活の初めにだけ当てはまるのではなく、また祈りにおける新しい力の経験を我々が味わっている間だけ当てはまるのでもなく、終日終夜の祈りの生活全体において真実である。キリストを通して我々は神に近づくことができる。この祈りの生活においても、霊的生活全体においても、いつでもキリストがすべてなのである。『彼らが目を上げて見ると、イエスのほかには誰もいなかった』(マタイ17:8)。
神が我々を強めてくださり、確実な勝利が我々のために用意されていること、その恵みは人の心に思い浮かびもしなかったほどであることを信じさせてくださるように。神は神を愛する者たちのためにそれをなしてくださるであろう。このことは我々全員に同時に来るわけではない。神はその子たちに対して偉大な忍耐を持っておられる。神は父の忍耐をもって我々の遅々とした歩みを見守ってくださる。神の子よ、神の言葉が約束しているすべてによって一人ひとりが満たされなさい。我々は信仰が強いほど真摯に終わりまで耐え忍ぶことができる。
より豊かな生活について我々の主が語ったのは、主が来られたのはご自分の羊のために命を捨てるためであることを告げた時である。『私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである』(ヨハネ10:10)。人は命を持っていても、栄養不足や病気のために、豊かな命、豊かな力を持っていないことがある。これは旧約と新約の間の違いであった。旧約においても命はあったが、律法のもとにあり、新約の恵みの豊かさのもとにあるのではなかった。キリストはその弟子たちのために命を捨てたが、弟子たちが豊かな命を受けたのはキリストの復活を通してであり、また聖霊の賜物を通してであった。
真のクリスチャンであれば誰でもキリストから命を受け取っている。しかし彼らの多くは、キリストが進んで与えようとしておられる、いっそう豊かな命については何も知らない。この豊かな命についてはパウロが繰り返し語っている。彼は自分については『主の恵みが満ち溢れた』と述べている(第一テモテ1:14)。『私を強めてくださる方(キリスト)のお陰で、私にはすべてが可能です』(ピリピ4:13)。『神に感謝します。神は、キリストにあって、いつも私たちを勝利の行進に連ならせ』(第二コリント2:14)。『私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります』(ローマ8:37)。
我々は祈らないという罪について語り、この罪から解放される方法について語り、どうすればこの罪から解放されたままでいることができるかについて語ってきた。これらの点について言われたことは、実は『私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである』というキリストの言葉の中にすべて含まれているのである。我々にとって最も大切なことは、この豊かな命について理解すること、そして真の祈りの生活のためには、豊かに満ち溢れる命をますます深く経験しながら歩まなければならないことを知るということなのである。
我々はキリストに依り頼むことで祈りの欠如に対する戦いを始めることはできる。またキリストに頼ることで助けを得てこの戦いを続けることもできる。しかし満足が得られない。そうなるのは特に祈りの欠如を我々が戦わなければならない唯一の罪であるかのように思っている時である。祈りの欠如は肉にある生活全体の中の一部分であって、同じ肉から出て来るほかのさまざまな罪と密接につながっているということを認識する必要がある。肉全体は、肉体に表れるものであれ、心に表れるものであれ、そこから由来するすべての情動と共に、既に十字架につけられていて死に渡されていると見なされなければならない。しかし我々はそのことを忘れてしまう。我々は脆弱な命で満足してはならない。豊かな命を求めなければならないのだ。我々は自分を聖霊に全く明け渡して、聖霊が我々を完全に掌握して我々の内に豊かな命をあらわしてくださるようにしなければならない。我々の霊的存在が完全に変貌して、それによってキリストと聖霊とが完全に支配権を握っていることが分かるようにならなければならない。
それではこの豊かな命を構成している要素は具体的に何なのであろうか。何度でも繰り返して、また言い方を変えて強調しなければならないことは、豊かな命とは、イエスの完全な全体が聖霊の力によって我々の存在全体に完全な支配権を持っていること、それ以下ではあり得ないということだ。聖霊は、キリストの完全性とキリストが与える豊かな命とを、おもに三つの面から我々に教えている。
第一に、十字架につけられた者という面である。それは単にキリストが我々の罪の贖いのために死なれたというだけのことではない。キリストは我々を彼と共に死ぬように一緒に十字架に上げたのである。そして彼は今でも十字架と死との力を我々の中に及ぼしておられる。あなたがキリストとの真の交わりを有しているなら次のように言えるはずである。『私はキリストと共に十字架につけられました。十字架につけられたキリストが、私の内に生きておられるのです』。キリストにある感情と性質、すなわちキリストの謙遜と十字架の死に至るまでの服従、それこそキリストが聖霊について『聖霊は私のものを受けて、あなたがたに知らしめる』(ヨハネ16:14)と言われた時に意味していたものであって、「知らしめる」というのは命令するのではなく、キリストの内にあるのと同じ命に、幼子のようにあずからせることなのである。
あなたは十字架につけられたキリストがあなたの内に住まうまでに聖霊に完全に所有されることを望んでいるだろうか。望んでいるなら、このことこそまさにキリストが与えられた目的であることを知りなさい。キリストは彼に自分をゆだねるすべての人にそれを必ず実現してくださるであろう。
第二に、天に挙げられた者という面である。聖書では復活が言及される時にはしばしばキリストを死者の中から引き上げた神の奇跡の力が語られ、それは『私たち信じる者に力強く働く神の力が、どれほど大きなものかを悟ることができますように。神は、この力ある業をキリストの内に働かせ、キリストを死者の中から復活させ』(エペソ1:19,20)とあるその計り知れない力の存在を保証している。こうした言葉を簡単に読み過ごしてはならない。立ち帰ってもう一度読み、あなたがどれほど無力で弱く感じているとしても神の全能の力があなたの中に働いているという偉大な教えを学びなさい。あなたが信じさえするなら、神は毎日の生活の中に御子の復活の分け前をあなたにくださるのだ。
そう、聖霊はあなたをキリストの復活の喜びと勝利で満たすことができる。それは、世の試練と誘惑のただ中であなたが生きる毎日の生活の力となるためなのである。十字架があなたを死に至るまでへりくだらせるようにしなさい。神は聖霊を通してあなたの中に天国の生活を実現してくださるであろう。我々を、十字架につけられ天に挙げられたキリストを受け継ぐ者となし、キリストの生と死とに一致させるのは、すべて聖霊の働きなのである。このことを我々は何と理解していないことであろうか。
第三に、栄光を与えられた者という面である。栄光を与えられたキリストこそ、聖霊のバプテスマを授ける者である。主イエスご自身が聖霊のバプテスマを受けられたのは、ヨルダン川で彼が自分を卑くして、ヨハネによる悔い改めのバプテスマ、罪人のためのバプテスマにあずかるために自分を差し出されたからであった。それでもなお、彼が贖罪の働きを身に負われる時には、その働きに見合う者とされるために、十字架上に『ご自身を傷のない者として神に献げ』られるに至るまで(ヘブル9:14)彼は聖霊を受けられた。あなたはこの栄光のキリストから聖霊のバプテスマを受けることを望んでいるだろうか。望んでいるなら、キリストに仕えるために自分をキリストに差し出しなさい、そしてさらに罪人たちに神の愛を知らしめるという彼の偉大なわざに加わりなさい。
栄光の主からの力とともに聖霊を受けるということがいかに大きなことであるかを我々が理解することを神が助けてくださるように。それが意味するのは、進んでキリストのために働くこと、また必要とあれば進んで彼のために苦難を受けること、それが心の望みとなることである。あなたは主を知っていて、主を愛したことがある。彼のために働いたことがあり、その働きの中で祝福されたこともある。しかし主が与えようとしておられるのはそれだけにとどまらない。彼は我々の心が崇敬と驚きで満たされるまで、我々の中で働き、周囲にいる兄弟姉妹たちの中で働き、また教会の奉仕者たちの中で働きたもう。
読者よ、このことが分かったであろうか。豊かな命とは、十字架につけられ、天に挙げられ、栄光を受けられたキリストの命全体より以上のものでも以下のものでもない。このキリストが聖霊のバプテスマを施し、我々の心に彼ご自身をあらわされ、万物の主として我々の内に生きるのである。
「必然に従って生きる」という言い方をわたしは最近目にした。しかしあなたは自分の人間的な思いから可能であると思うところに従って生きてはならない。みことばに従って生きなさい。主イエスの愛と無限の誠実さに従って生きなさい。我々の歩みは遅くしばしば躓くかも知れないが、信仰は、経験したことのゆえにではなくそれが信頼する約束のゆえに常に主に感謝しつつ、力から力へと進み、神ご自身が我々の内に神のわざを全うしてくださるという幸いな確信のうちに自分を強くするのである。
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