第 十 九 日



『あゝ神よなんぢはわが神なり われせちに(つとに)なんぢをたづねもとむ(early will I seek thee =英譯) 水なきかわきおとろへたる地にあるごとくわが靈魂たましひはかわきてなんぢをのぞみ』(詩六三・一

 人はよく自らのことを述べて、すくいを求めていると申します。聖書は決してそのようには申しません。人が、ただすくいばかりを求めている間は、やはりまだ自分自身に係わっていることを求めているのであります。つまり自己中心であります。私共は神を求めなければなりません。神を所有すること、これこそは私共の要するところのことであります。『われ……なんぢをたづねもとむ』とダビデは申しました。

 人が真に神を見出し奉る時に、それは又何たる驚くべき御救みすくいでありましょうか、しかり、神御自身、ただに赦罪や平安ばかりでなく、神を見出し又わがものとし奉るとは、そもそも如何ばかりの御救みすくいでありましょう! 誰でありましても、これが如何ばかりさかえあることであるかをまず見ますならば、次にはく申しますのも怪しむには足りません。『われつとになんぢをたづねもとむ』と。

 かの敬虔なる兵士、ヘドレービカローは、次の朝五時には先頭に立たなければならないと知った時に、彼はそれよりも一時間早く起きでてかれの神にまみえ申しました。かの勇敢なる兵士達、ハベロクヤストンウォル・ジャクソン等も同樣にいたしました。

 信者よ! これをあなたが朝、ひとりる時の基調たらしめなさい。神を渇き求めなさい。あたかも肉体が一杯の飲み水を渇くように。神を見出し神を所有すること以下をもっては決して満足しなさいますな。考えて御覧なさい。神が聖子みこを通して御自身の住所すまいをあなたとともにせんことを願い給うとは。その御霊みたまはあなたのうちにいましてける水の泉となり給いましょう。神を求めよ。神を得よ。これこそは神が御自身をあなたに顕示し給う唯一のみちであります。この目的のために犠牲いけにえをいたしなさい。あなたの受くる報酬はおおいなるものであります。『なんぢらもし一心いっしんをもてわれもとめなばわれに尋ねはん』──ヱレミヤ二九・十三)。



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