第二十七日  キリストの友情とその證據



 『すべわがなんぢらに命ずる所の事を行はゞすなはわが友なり』 (約十五・十四

 しゅはその友誼のあかしとして何を與へ給ふたかを語りたまふた。すなはち彼はその命を我等の爲に與へたまふたのであったが、彼は今我等のすべき分を示してそのいましめを行ふ事であると仰せ給ふのである。彼はその愛によりて我等を治め、我等の心のうちところを得ん爲に命を與へ給ふた。彼の愛が我等を喚起よびおこし力を與へてこれに答へしめんとし給ふところのものは、我等が彼の命じ給ふところを行ふ事である。我等は命をてたまふその愛を知る時に、喜んでそのいましめに從ふであらう。我等が又そのいましめを守る時に更に深くその愛を知るであらう。キリストはすでに『もしなんぢらわがいましめまもらわが愛にをらん』(十節)と仰せ給ふたが、此處こゝに再びこの眞理を繰返くりかへす事をよしとし給ふのである。我等がかれの愛を信ずる信仰の一つの證據、その愛にる一つの道、又まことの枝たる一つの標徵しるしは、かれの命じ給ひしところを行ふ事である。彼は我等の爲にその生涯の初めより全き服從をもて步みはじめ給ふた。彼は又これ以下の事を我等より要求したまふ事が出來ない。これのみ彼との親交まじはりの中にある生涯である。

 キリストが我等に命じ給ふすべての事を行ふことは如何斗いかばかり必要であるかとの眞理は、我等の基督キリスト敎々育と基督者生涯とに於いて、しゅが定め給ふた正當の位置に置かれてない。我等は特權を義務よりも遙かにすぐれたる地位に置いてる。我等は全き服從をまことの弟子たる條件として考へない。彼が命じ給ふたことを行ふのは不可能であると云ふやうな愚かな思念や、罪を犯す事はむを得ない事であると云ふやうな狡猾な無意識的の感覺が、訓誡や、約束の力を奪ひ去る事はなからうか。すべてのキリストとの關係は曇らされ、ひくくせられ、かれの敎訓を俟望まちのぞかれ聖聲みこゑを聞きてこれに從ふ力、又服從によってかれの愛と友誼とを樂しむ事とは、この可恐おそるべき過失によって纖弱かよわくせられてる。ねがはくば我等をしてまことの立塲に立歸たちかへらしめ、『爾曹なんぢらもしわが命じたる事を行はゞまことわが弟子なり』と仰せ給ふたキリストの聖言みことばを文字通りに眞理として受納うけいれ、我等の生涯の法規となさしめよ。しゅは必ずや我等が衷心よりまことの心をもて『しかしゅよ、なんぢの命じ給ふところは我これをなさん』と云ふ事を要求もとめて給ふ事であらう。

 是等これらいましめは友たる事の證據として行はるべきである。これを行ふ力は全くしゅイエスとの個人的關係にかゝはってる。イエスの友情は實に天的であり驚くべきものであって、神の愛の力をって我等に臨み、我等のうちに入り、我等を占領するものである。彼との破られざる交通まじはりは至って肝要なるものであって、服從をして一つの喜悅たらしむる喜びと愛とを與ふるものである。イエスの友情を要求もとむる自由、これ享樂たのしむ力、そのすべての祝福を試すめぐみことごとく彼のいましめを守る時に來るものである。

 彼自ら我等の友なる事をあかしせんが爲に、愛のゆゑに死をもいとひ給はなかった。彼自らを我等に默示し『なんぢらわが友なり』と、我等に語り給はん事をしゅに求むるは我等に取りて、なくてかなふまじき唯一のことである。我等がこのおほいなる友が如何なる事を我等の爲になし給ひしかを見、彼が我等を友と呼び給ふは如何に云ひ難き祝福なるかを悟る時に、かれのいましめを守ることはかれの愛にる生涯の自然的結果となるであらう。我等は『しかしゅよ、われらはなんぢの友なり。なんぢの命じ給ふところの事は我等これをなさん』と云ふことを恐れないであらう。

 『もしなんぢら行はゞ』と。しかり、我等は行ふによりて惠まれ、これによりてなんぢり、その友情を享樂たのしむことをうるなり。『なんぢらもしわが命ずるところを行はゞ』と。おおわがしゅよ、なんぢきよき友情、われを導きてなんぢいましめを愛せしめ、なんぢいましめを行ふによりて更になんぢの友情の深所ふかみに導かれんことを。



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